第44話 織田の脅威

 1540年 1月


 ううぅ……お、重たい。体の上に重石でも置いてあるのか。僕は花見の日のブルーシートじゃないんだぞ。しかも、体の上の”それ”、何だか動いている気がする。物凄く気になる。でももう少しだけ寝ていたい気持ちもある。一月の早朝の風が足の先へ吹きつけ、その冷気がお腹の方まで駆け上がり肩を震わせた。やっぱもう少し布団の中にいたい。

 遠くの方から声が聞こえる……気がする。まどろんだ頭で、ぼやぼやと考える。自分の聞き覚えのある声のリストから検索すると、一人ヒットした。鬱陶しくて軽々しいその声の持ち主を。


 「承芳さん、顔の上に何か乗ってるんですか? もぞもぞしてくすぐったいです」


 僕は目を閉じたまま、そこにいるであろう承芳さんへ向けて話しかけた。承芳さんの押し殺した笑い声が漏れ聞こえ、少しだけ苛立ちがつのる。こんな朝早くから、人にちょっかいをかけるほど暇なのかこの人は。顔の上で蠢くそれは退く気がしない。込み上げる苛立ちから、すっかり寝る気も無くしてしまった。


 「それは自分の目で確認してみろ」


 「んなっ、もう朝っぱらからちょっかいかけないで……」


 乾いた瞳をもっさり開けると、小さい無垢な瞳とぶつかった。不思議そうに首を傾げるそれは、夏の太陽のように爛々と輝く笑顔を見せてくれた。きゃっきゃと弾む笑い声を上げるその生き物は、恐らくこの地球上で最も可愛らしい生き物だ。

 僕の体の上で四つん這いになって動き回る赤ん坊。なんと承芳さんと多恵さんの間に生まれた子供なのだ。承芳さんがパパに。それにあの仲の悪い二人の間に子供が。正直僕には考えられなかった。

 子供が出来たからといえ、二人の仲が良くなった訳ではない。ただ以前、二人の夜の営みを目の当たりにしており、あの時二人とも嫌そうな雰囲気は無かった。やっぱり跡継ぎが大切な戦国時代、現代との性行為に対する認識も違うのだろう。仲が悪いからと言って子作りをしなければ、待っているのは悲惨な跡目争いか、一族の滅亡だ。

 だけど、二人の関係も少しは変わっていた。前まで喧嘩ばかりだったのが、少し減った気がする。少しずつではあるが、お互い歩み寄っているのだろう。

 ゆっくり体を起こすと、二人の愛の結晶たる赤ん坊を傷つけないよう慎重に抱え、お腹の上からそっと退かす。


 「なんで龍坊がここにいるんですか?」


 龍坊と呼んだこの赤ん坊の本名は龍王丸。かっこいい名前に似つかわしくない程、愛くるしい見た目をしている。まぁ赤ん坊だから当然なんだけど。龍坊の顔を見ると、目元や眉毛の形が承芳さんそっくりだ。白いすべすべ肌は多恵さんから受け継がれたんだろう。一言で表すとめっちゃ可愛い。

 龍坊のほっぺをぷにぷにと押しながら、いたずらした犯人であろう承芳さんの方を向くと、承芳さんはニタニタいやらしい笑みを浮かべ言った。


 「お前が中々起きてこないから、龍坊に起こしてもらったんだよ。どうだ、いい目覚めになったろ?」


 「そっ、それはまぁ。へへっ、可愛い」


 「息子を見て気持ち悪い顔するな」


 龍坊のあまりの可愛さに当てられ、無意識に口元がだらしなく弛緩してしまっていた。承芳さんの冷静なツッコミが無ければ、後一時間はこうして龍坊を愛でてただろう。

 仕方ない、もぞもぞと布団から出て大きく伸びをする。隣で僕を見上げる龍坊も、合わせて腕を伸ばそうとして、ごろんと後ろに倒れた。可愛い。


 「さっさと布団から出ろよ。和尚が呼んでる」


 「雪斎さんが? 分かりました、準備できたら行きますので、先行っててください。あと龍坊も連れてってくださいよ」


 龍坊が居てはいつまでも愛でてしまう。名残惜しいけど承芳さんたちを見送り、僕は急いで身支度を始めた。伸ばしてるせいで所々はねた髪の毛を手櫛で整え、麻の紐で後ろに括る。両頬を軽く叩き、少しぼやけた頭を無理やり起こす。寝間着を脱ぎ去り、外の冷たい風が一糸纏わぬ僕の身体を叩いた。足のつま先から順に脳へ血が集まるような感覚を覚える。

 袴を羽織り、帯をお腹前できゅっと結ぶ。少しぞんざいだけど気にしない。今は雪斎さんからの呼び出しに急がなければ。冬の乾いた風が渦を作り、茶色い落ち葉を空へと飛ばした。普段は手入れの行き届いている庭先が、まるで嵐の後のように乱れていた。


 廊下を足早に蹴り、承芳さんたちの待つ部屋へ向かう。雪斎さんが呼んでるの意味は、何か重大な出来事が発生したという事だ。妙な胸騒ぎに、逸る気持ちが大きくなる。何だか床板がより冷たく感じた。

 近年情勢の悪化により中止になっていた新年行事を、今年は久しぶりに開催することが出来た。大広間に集まった大男たちと酒を酌み交わし、それは楽しい一日だった。まぁ、懲りずに飲み過ぎてしまい、承芳さんに介抱されたのは言うまでも無い。とにかく新しい年が始まり、駿府国内は確かに浮かれていた。依然として北条さん、織田さんの脅威はあるわけだが、最近不穏な動きも見られず、膠着状態が続いてる。しかも去年の豊作もあってか、皆つかの間の平穏を噛みしめていた。

 そんな中での雪斎さんからの呼び出しだ。考えられるのは、北条さんか織田さん。考えたくないけど甲斐の晴信くんに何かあったとか。何にせよ、この仮初の平穏が終幕するのは確かだろう。

 呼び出された部屋に着くと、見知った顔ぶれの男たちが、僕を待ち構えるように長机を囲むように座っていた。上座には雪斎さんが、その隣に承芳さん。岡部親綱さんや朝比奈泰能さん、その他見覚えのある家臣さんたちもちらほらと見えた。張り詰めた空気の中、皆ピシッとした正座で待っており、部屋に入るや幾つもの視線が一斉に僕へと集まる。ふとその中に、一際鋭い視線を向ける青年を見つけた。僕や承芳さんより年下で、この部屋の中で最年少だ。親綱さんの息子の長教くんだ。


 「遅いぞっ! 義元様を待たせるとは、お前なんか打ち首だぁ!」


 長教くん、何故か最近すごい突っかかって来るのだ。年は僕の三つ下。やっと軍議に参加できると、承芳さんに嬉しそうに話していたのをこの間見かけた。自分は頑張ってお父さんに認めてもらえたのに、お前は承芳さんに気に入られているだけだと、一方的な恨みを持たれてしまっているのだ。そんな事言われてもしょうがないんだけどね。

 隣に座る親綱さんが一発拳骨を落とすと、ぶすっとしてそっぽを向いてしまった。すると部屋内の重たい空気が、少し和らいだ気がする。申し訳ないと謝る親綱さんへ苦笑いを返し、僕は承芳さんの隣に座った。腰掛けた直後、右側の髪を弄られる。なんだとそっちの方を向くと、いたずっらぽい顔をする承芳さんが、跳ねてるぞと笑った。今朝貴方がちょっかいを出したせいで直す時間が無かったんですよ。


 「よし、関介殿も来たことですし、評定を始めましょうか。これ長教もこちらに顔を向けなさい」


 雪斎さんの音頭によって軍議は始まった。待っていましたと言わんばかりに長机の上に地図を広げ、何処から取り出したか長い棒で地図上をなぞった。指したのは現代の愛知県の東の方。承芳さんに聞いたところ尾張という国を指さしているらしい。尾張と言えば、何年か前に承芳さんと二人で行ったところだ。隣国の織田家が支配する国で、当時でもかなり栄えていたのを覚えている。地図上で見ると、尾張の国が思いのほか狭く感じる。これだけ領土の広さに差があれば、余裕で倒せそうな気もする。まぁそんな単純な話なら、こんな軍議なんて開かれないんだけど。


 「皆も知っている通り、二年前那古野城を奪った織田信秀は、徐々に三河方面へ圧力をかけてきている。三河の国衆の中には、圧力に屈し、織田に与する者まで現れ始めた。三河から織田の脅威を取り除く。その方向で進めていこうと思ってるが、何か異論はあるか?」


 「織田の脅威は十分に理解しております。ただ、東の北条とも依然緊張状態が続いております。今織田に軍を割けば、その隙をつき、北条が攻め寄せて来ることは目に見えています」


 泰能さんが丁寧に、だが迫力ある声で反論した。確かに泰能さんの言う通り、北条さんの脅威は僕も目の当たりにしているから分かる。泰能さんだけじゃない、親綱さんも難しそうな表情で顎に手を当てている。部屋の中がざわつく中、隣の承芳さんは呑気に大きな欠伸をしている。不安だ。

 雪斎さんを見ると、ニヤリと唇を不気味に歪ませ、予想通りと言わんばかりに満足そうに頷いている。何か考えがあるのだろうか。


 「確かに、北条が全軍で攻めてくれば、今川などひとたまりもないだろう。だが考えてみろ、北条の背後には上杉がおる。それにあの戦争狂の武田信虎だ、疲弊した北条を見れば、喜んで飛びつくに違いない。つまり、今の北条に今川を攻める余裕などない」


 おおっと部屋の中が歓声に沸いた。承芳さんもうんうんと腕を組んで、偉そうに頷いている。絶対分かっていなかっただろこの人。でも、確かに北条さんが攻めてこないなら、織田さんに集中できる。北条さんに駿府の一部を奪われるという窮地において、雪斎さんという人はなんて冷静なんだ。改めてその度胸と、先見の明には驚かされる。


 「分かれば、早急に対織田家の戦略を考えようぞ」

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