第45話 果たし状

 頭の上で指を組み、目一杯体を伸ばす。僅かに緩んだ口の隙間から、気の抜けた喘ぎ声が漏れた。ずっと同じ姿勢で座り続けると、何だか嫌な疲れが残る。それだったら一時間ずっと竹刀を振った方がいい。健康的な汗はさらっとして気持ちが良い。ベタベタした汗は嫌いだ。足の裏がじとっと湿って気持ち悪かった。

 早朝に始まった会議は、僕のお腹が鳴り始めたころようやく一区切りとなった。お腹の音は隣の承芳さんにもしっかりと聞かれており、会議が終わるやニヤニヤとしながら肘で突いてきた。朝起きて水の一滴も口にしてないし、お腹が減るのも当然だ。


 「関介、そう何度も主張しなくとも腹が減ったのは分かったから」

 

 「別にわざとお腹鳴らしてるわけじゃないですって。ったく、直ぐそういう事言うんですから」


 そう言う間にも、お腹の音は止まらない。ばっとお腹を押さえ顔を上げると、食いしん坊だなと笑う承芳さんと目が合った。耳がみるみる内に赤くなっていく。頬を膨らませて、上目遣いで承芳さんを睨む。

 流石に腹の立った僕は、承芳さんのつま先を思い切り踏みつけた。僕の思わぬ反撃に、言葉にならない悲鳴を上げる承芳さん。その声に驚いた視線が一気に集まるが、僕は気にせず足早に部屋を出た。家臣さんたちの慌てた声が後ろから聞こえてくる。すっきりとした気持ちで廊下を蹴る。何だか足取りも軽くなったみたいだ。

 

 がらんどうとした自分の部屋の中に入って直ぐ、何か言葉にならないような違和感を覚えた。徐々に画像の変わっていくクイズを見るような、小骨の引っかかるような気持ち悪さを感じる。僕が起きて蹴っ飛ばした布団もそのまま。寝間着も机の上に脱ぎ散らかしたままだ。手に取ってみると、まだ少し自分の温もりが残っていた。やっぱり僕の思い違いか。そう自分を納得させようとした時ふと思った。僕この寝間着、机の上に置いたっけ? するりと寝間着の間から、真っ白なふんどしが畳の上に落ちた。

 ひゅっと風が吹く。いつもよりやけに下半身の方が冷たい。その瞬間ぼっと赤くなり頭に血が集まり始めるのを感じた。おもむろに手を下の方に伸ばすと、しっかりとぶつの触感がある。もぞもぞと触ると、肩にかけて痺れるような感覚を覚える。やばいやばい。頭をぶんぶん振り、変な気を振り払う。

 ふうっと大きな息を吐きようやく冷静になる。すると、机の上に落ちてる一枚の紙が目に入った。いつの間にこんな物が机に。手のひらサイズの紙には何か文字が書かれている。拾い上げ顔の目線まで持っていき、首を右に傾けた。


 「こ、これは……読めない」


 「関介、何を見ているんだ? もしや恋文か?」


 背後から声が聞こえた。向くと、楽しそうな表情の承芳さんが、襖にもたれ立っていた。手元に広げた紙を指さし、興味津々に光る瞳を向けてきた。なんだ、また揶揄いに来たのか。恋文か、無いと断言できないのが怖いところだ。夜道を一人で歩いている時、背筋の凍るような気配を背中に感じたことが何度かある。そしてとうとうつい先日、ふと振り向き目を凝らすと、遠くの方で光る二つの鬼火を目にした。腰を抜かしてお尻で後ずさる僕を見下ろすその灯りは、今思えば人の眼だった。しかも多分男の。まぁ気が付いたときには、布団の上で寝てたんだけど。なんでも悲鳴を聞いて飛んできた承芳さんが、口から泡を吹いて失神する僕を見つけたらしい。僕の事を密かにつける人がいるのは確かだった。

 もう一度紙に書かれた文字を見る。読めないから恋文では無いとも言い切れないが、これが恋文だとしたら何だか物々しすぎる気がする。僕がラブレターを書くとしたら、もっと丁寧に書くだろう。この紙に書かれた文字は、大きさもバラバラだし並びもかなりずれている。

 

 「それが読めないから分かんないんですよ。承芳さん、代わりに読んでくださいよ」


 「関介、そろそろ文字の読み書きを覚えたらどうだ。和尚も関介の読み書きの事で頭を抱えていたぞ」


 そんな事言われても、読めないものは読めないのだ。スマートフォンに依存した現代人を舐めないで頂きたい。現代の漢字だって怪しいのに、こんなにょろにょろ文字読める訳がない。そう主張するわけにもいかないし、今日の今日まで何とか誤魔化してきたのだ。

 承芳さんへにかっと笑いかけ、紙で顔を隠した。ひょいと紙から顔を出し、ぺろりと舌を見せる。


 「別に僕が読めなくても、承芳さんが代わりに読めばいいじゃないですか」


 「はぁ、能天気な奴め」


 そう愚痴りつつ、僕の手から紙を抜き取った。不格好に折りたたまれた紙の文字をなぞるように読む。最初は面白がって読んでいたのが、段々と眉間の間に皺が寄っていき、おもむろに顔を上げた承芳さんは難しそうな表情で僕の顔を見つめた。何か良からぬことが書いてあったのだろうか。ドキッと心臓が強く鼓動し、冷たい汗が額から流れる。少し怖い。だけど、それ以上に書いてある内容がずっと気になる。唾を飲み込んで、僕は顰めるように承芳さんに尋ねた。


 「承芳さん、そこに何て書いてあるんですか?」


 「これは果たし状だ。何者かが、関介の留守の間にこの部屋へ侵入し、机の上に置いたのだろう。もしや、織田の刺客かもしれん」


 承芳さんは震える指で紙を開くと、緊張した面持ちで読み上げた。内容はシンプルだった。僕の事を認めていない。だから明日の昼、道場で決闘しよう。その勝負で僕が負けたら、この書き主の部下になれ。といった内容だ。果たし状と聞いて身構えたが、内容を知ると一気に肩の力が抜けてしまった。こんな稚拙で単純な考えを持つ人物など一人しかいないだろう。気の抜けたのは承芳さんも同じで、ため息をつくと、読み終えた紙を小さく畳み後ろへ放った。


 「長教め、こんな阿呆な事を。後で親綱殿に伝えて強く言ってもらおう。それより、無駄な心配をかけたな関介」

 

 長教くんが僕の事を目の敵にしている事は知っていた。でもまさか、こんな果たし状なんて回りくどい事をするとは。直接口で、道場で手合わせしてくれと頼めばいいのに。まぁあの性格だし、恥ずかしかったんだろうな。長教くん、なんだかんだ可愛いんだから。

 長教くんと真剣勝負か。意外とやったことないかも。だから彼の剣の腕がどれほどなのか分らない。だけど。


 「僕はいいですよ、勝負してあげても。どうせ勝つんで」


 承芳さんの目を見て、わざとらしくにかっと大袈裟に笑ってみせた。彼の動揺する姿が何処か面白くて、くふふっと咽の奥から気持ち悪い笑い声が漏れた。長教くんと勝負か、楽しみだ。

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