第51話 湯起請

 家に招き入れられた僕らは、兄弟水入らずの楽し気な会話を少し離れた位置から眺めていた。兄弟のいない僕には、何とも新鮮な光景に映った。もし僕に兄か弟がいたら。そう思って、部屋の隅っこに一瞬視線を移すと、憎らし気に睨みつける承芳さんが見え、直ぐに目を逸らした。お尻を蹴った事をまだ根に持っているらしい。小さい男だ。

 家の中に入ると、稲穂さんは直ぐに布団へ横になった。やはり体調はよくないのだろう。彼女の肌は、まるで雪のように真っ白で、そこから人間の生気みたいなものは感じられなかった。それでも喜介くんの前で気丈に振舞うのは、彼女の優しさ、強さなのだろう。きっと彼女は心の底から喜介くんの事が大好きで、慕っているんだ。それは彼女のころころ変わる表情からも直ぐに分かる。笑った時のえくぼがとても可愛らしく、襟の隙間から見える鎖骨は官能的ですらあった。彼女の横顔を見ているだけで、胸の奥は大きくざわついた。


 「あなた様が関介様ですね。話しは兄さまから聞いています……関介様? 聞こえてます?」


 ふと自分が、稲穂さんばかり目で追ってることに気が付いた。ただそれは自分で気が付いたのではなく、ばっちりと彼女と目が合ったからであった。数回瞬きを繰り返した後、ふわっとした笑顔を向ける稲穂さんは、小鳥の囀りのような声でそう話しかけてきた。

 

 「わわっ、ご、ごめん! つい稲穂さんに見惚れて……ってそれは違くて!」


 手をばたつかせ、そんな支離滅裂な言葉を口走っていた。ううぅ……恥ずかしすぎる。折角喜介くんが僕の話をしてくれていたのに。こんな事言ったら、絶対稲穂さんに引かれてるよ。

 隠した両手の指の間から稲穂さんを覗くと、ぽかんとした表情で固まっていた。これはどっちなんだ。引いてるのか、それとも。バクバクと鼓動する心臓が痛い。

 ふと固まっていた表情が徐々に和らいでいき、蕾が花開くように綻んだ。


 「ふふふっ、兄さまから聞いた通り、面白いお方ですね。ふふっ、すみません。可笑しくてつい」


 笑い方まで優しくておしとやかで、まるで名画のようだ。茶色の地味な着物は所々ほつれていているのに、彼女にはそれが似合っているような気がした。そんな素朴で初々しい彼女の笑顔を目の前に、さらに惹かれる自分がいた。

 うるさいほど打ち鳴らす心臓の音を押さえ、何か言葉をかけようとした時、背中に強い衝撃を感じた。


 「いつまで惚けているんだこの馬鹿!」


 僕と稲穂さんの可愛らしい悲鳴が重なった。その直後、ふにゃんと柔らかな感触が僕の顔中に広がった。なんだこの幸せな感触は。目の前が真っ暗で何も見えないけど、これを枕にしたらいい夢が見られる気がする。


 「関介様……意外に大胆何ですね」


 「んんっ……何のこと、って……ひゃわぁ! ごっ、ごめんなさいっ!」


 柔らかな感触の正体は、小ぶりながら年相応に実っている彼女の乳房だった。そんなラブコメ主人公みたいな事が現実で起こるなんて。反射的に彼女から距離を取る。顔が燃えるように熱い。本当に最悪だ。流石にこれは稲穂さんに嫌われたか。

 恐る恐る彼女の顔を見ると、白い頬をピンク色に染め上げ、モジモジと視線を空中に泳がせていた。恥じらう姿もまた可愛いな。ってそうじゃない。


 「関介様! たとえ師範であっても、私の大切な妹に手を出すなら容赦しませんよ」


 「うわぁん! ごめんてぇ!」


 何故僕が責められているのか。一番悪いのはどう考えても承芳さんじゃないか。互いに顔を赤くする二人の間に入った喜介くんは、僕の顔の近くで鼻息荒く言った。見た事ない喜介くんの剣幕に、自分に非が無いと分かっていても、涙目で弁明するしかなかった。


 「ったく関介は、美女を前に盛りおって」


 「もとはと言えば誰のせいだと思ってるんですか!」


 喜介くんは僕の襟を掴みぐるんぐるんと揺すり、稲穂さんは顔を赤らめ布団の中に籠ってしまった。なんだこのカオスな状況は。元凶の承芳さんは、部屋の隅でやれやれと両手を振っている。クソ腹立つな。

 その時、家の外から男たちの争う声が聞こえ、喜介くんの手が緩くなり、その隙に逃げだすことに成功した。けど喜介くんの表情が浮かないのが気がかりだ。いつの間にか布団から顔を出していた稲穂さんも、心配そうな面持ちで喜介くんを見つめていた。どうやら彼ら家族と関係があるっぽい。関介さんを見ると、彼も状況を察したのか真剣な表情で頷いた。軽い喧嘩くらいならいいのだが、二人の顔色から事の重大さを感じる。

 稲穂さんだけ残し、喜介くんを先頭に家をでる。すぐ外の畑の前では、喜介くんのお父さんを囲み、複数の男たちが怒鳴り声をあげていた。男たちは皆筋肉質で身体も大きい。それに引き換え、喜介くんのお父さんは悪い体格じゃないけど、男たちと比べると見劣ってしまう。一対一でも勝てそうにないのに、あんなに囲まれてしまったら。最悪な光景を思い浮かべ、さっと青ざめていく。


 「父上! 何があったのですか!?」


 僕の脇をすり抜けるように、喜介くんは果敢にも男たちの渦の中へ飛び込んでいった。男たちも理性までは失っていなかったようで、突然の息子の登場には浮足立った様子だ。よかった、今から暴力事件でも始まるのかと思ったよ。

 僕と承芳さんも、少し遅れて男たちの輪の中に参戦し、これで人数はほぼ五分になった。ただ睨み合いを続ける喜介くんとお父さんでは、これ以上埒が明かない。正直嫌だけど、僕は男たちの前に出て、事の顛末を聴くことにした。部外者である僕の事が気になる様子の男たちだったが、意を決したようで、リーダーらしき男が前に出てしゃがれた声で話し始めた。その男の左目の上には、鋭利な刃物で切ったような跡が残っている。姿から喜介くんたちと同じ農民のようだが、男の風貌から歴戦の武士のような雰囲気すら感じる。


 「お前らには用はねえよ。俺らに用があるのは、そこの男だけだ。その男はなあ、俺らの大事な水に手を出したんだ。そらあ落とし前つけて貰わんと俺らだって困るって訳さ」


 「嘘を付くな! お前たちが私の土地を荒らし、勝手に水を使い始めたじゃないか!」


 喜介くんのお父さんが怒りの籠った声で叫ぶも、傷の男は微動だにしない。それどころか、口元にいやらしい笑みを浮かべ、まるで僕らを挑発しているようだ。この男、何か企みでもあるのか。あまり感情的に話を進めると、この人たちの思う壺だ。


 「そうか、俺らが嘘をついているか。ふんっ、それならどうだ、あれで決めようじゃねえか」


 背後の取り巻きたちは、大きな樽のような物を荷車に乗せ、僕たちの前へ引いてきた。緩んだ地面に取られた車輪が大きく揺れ、樽の中に満たされた液体が少しだけ外へ漏れた。何だろうあの液体は、お酒とか? いや海賊じゃないんだから。

 いそいそと準備する取り巻きたちを、傷の男は満足そうに見つめている。一方承芳さんと喜介くんは、しまったといった様子だ。喜介くんのお父さんは、唇を噛み傷の男を憎悪の籠った表情で睨みつける。ここにいる僕だけが、現状何が起こっているのか分かっていなかった。すーぐそうやって除け者にするんだから。僕はこっそりと承芳さんに近づき、あの樽が何を意味するのか尋ねた。すると大きなため息を溢し、もはや憐れむような目で僕を見てきた。


 「関介は何も知らないんだな。あれは恐らく湯起請。まぁ要は裁判だ」


 「あの樽を使って、どうやって裁くと言うんです? あっ、もしかしてお酒が入っていて、皆で飲んで腹を割って話そうってことですか?」


 ぽかっと頭を叩かれた。ただの冗談なのに。承芳さんは疲れたようにため息を溢しながら、やれやれと手を振る。なら勿体ぶらずに、全部話してくれよ。


 「そんなことしたら、お前が酔っぱらってお終いだ馬鹿。あれは熱湯が入っているのだろう。湯起請というのは、煮えたぎる熱湯の中へお互い手を入れ、火傷した者を有罪とする裁判の手法だ」


 「はぁ? そんな事で何がわかるってんですか。まさか承芳さん、本気でそれを信じてるんですか?」


 むぅと唸る承芳さんは、少し硬い表情で目を逸らした。その表情には、どうにもならない悔しさ、やるせなさが浮かんでいた。僕が視線を送り続けていると、諦めたようにふっと笑い、力の抜けたような声で言った。


 「まさかその手法で真実が分るとは思っとらんよ。ただ湯起請は神託に近い。農村の多くでは、今も神の思し召しと信じ、風習として残っていることが多いのだ。その者たちに、否を突きつけて何になる」


 承芳さんは力なく笑い、話を続ける。その姿が痛々しくて、この時代の理不尽さに無性に腹が立つ。正しい事は正しいに決まっているし、間違っている事は違うと言うべきだ。


 「私だってこんな風習を無くせるなら、今すぐに廃したいさ。だがそうするに駿河はあまりに広く、複雑なんだ」


 「それでどうやって、日の本を平和な世の中に出来るなんて言えるんです」


 僕の呟きにも、苦々しく笑うだけだった。


 「お父様……」


 いつの間にか家の外に出ていた稲穂さんが、お父さんを泣きそうな顔で、祈るように見つめていた。男たちが荷車から樽を下ろすその中には、承芳さんの言った通りぐつぐつと沸騰する熱湯が入っていた。あの中に手を入れたら、絶対大火傷どころでは済まないだろう。もしかしたら、二度と農具の持てない腕になってしまうかもしれない。稲穂さんの心配そうな表情、男たちの得意げな顔。目の前の熱湯のように、ふつふつと僕の中で沸騰する思いが溢れだす。

 その時には、僕の足は動き始めていた。承芳さんの静止の声が聞こえたけど、それを振り払って前へ歩み寄る。喜介くんのお父さんと、傷の男は今も睨み合いを続けている。僕は喜介くんのお父さんを押しのけると、男の前に堂々と立った。男は最初ポカンとした表情を浮かべたが、女の子のような僕の姿を見て油断したのか、気味の悪い笑みを浮かべ始めた。


 「なんだお嬢ちゃん、ここはお前のような子供が来るところじゃねえぞ」


 「お嬢ちゃんじゃない、関介だ。そこ退いて!」


 余裕そうな男が少しだけ怯んだ。その隙に僕は男の脇をすり抜け、取り巻きたちが囲む樽の前へ行く。


 「そこの人たちも邪魔!」


 何が起こったのか分かっていない様子の取り巻きたちだったが、傷の男の顔色を見つつも、僕に道を空けてくれた。これで邪魔者がいなくなったな。

 この場の全ての視線が僕に注がれる。でも不思議と緊張もしないし、恥ずかしい気持ちも湧いてこない。


 「この熱湯に手を入れて、もし火傷をしたらその人が有罪ってことなんですよね? ねっ、おじさん?」


 「あっ、ああ、そうだが、お前には関係ないだろ」


 「そう、関係ないですよね? なら僕がこの熱湯を浴びても、火傷なんてするはず無いですよね?」


 みんな不思議そうにポカンとしている。怪訝そうな視線を一身に受けながら、僕は樽に立てかけられた柄杓を手に持ち、なみなみまで掬う。目の前まで持ってくるとやっぱり熱い。けどもうやるしかない。


 「やめろ、関介!」


 承芳さんだけが僕の意図に気が付き、止めさせようと体を動かした。でももう遅いです。左腕を振り袖をまくると、僕の細くて白い肌が皆の前に露出される。

 稲穂さんの小さな悲鳴が聞こえた。承芳さんと喜介くんの信じられないという表情が目に飛び込んできた。木製の柄杓が地面に落ち、乾いた音が響く。足元に零れた熱湯から、むせ返るような煙が上がる。だがそれ以上に、みんなの視線は僕の身体の一部に注がれていた。


 「どうですか……火傷してるでしょう」


 熱湯を浴びた僕の左腕は、皮が剥がれ赤く焼け爛れていた。感じた事の無い痛みが、脳へ止めどなく押し寄せてくる。なんでもない風が火傷後に触れただけで、それは五寸釘で打ち付けられるような痛みに変わった。全く力が入らず、左腕は壊れた機械のように動かない。段々と意識も薄れ、目の前がぐわんぐわんと揺れている。もはや立っているのもやっとな状態だった。

 この場にいる人全員が、僕の左腕から目が離れられず、呼吸も忘れてその場に立ち尽くしている。まだ倒れちゃだめだ。ちゃんと伝えなきゃ。樽に背中をもたれ、足の指に力を込める。


 「こんな事で何が分かるんですか。熱湯に腕を入れたら誰だって火傷しますよ、当たり前じゃないですか。誰のせいだ、誰が悪いんだ。そんな事に神様を利用しないで下さいよ。人間がやった事なんです。話し合うしかないです。悪い人だけが罰を受けるんです。それが、正しい裁判なんです」


 その先も言葉を続けようとしたが、何だか舌に力が入って来ない。というより、身体全身の力が抜けていくような。そう思った瞬間、僕の身体は誰かの腕の中に収まっていた。見上げると、ぼやけた視界の先に、泣きそうな承芳さんの顔があり、何やら文句を言っている気がする。でももう意識を保つのも難しくなってきた。

 ごめんなさい承芳さん、心配をかけちゃって。でも火傷程度じゃ死にませんから。起きたら好きなだけ文句を聴いてあげますから。今だけは、少し休憩させてください。

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