第50話 帰省
「はぁ、ひどい目に遭った。関介も見てないで助けてくれれば良かったのに」
唇を尖らせ、ジトっとした目で文句を垂れる承芳さん。確かに多恵さんと手合わせさせたのは僕だけど、まさか武士である承芳さんが女性に負けるとは思わなかった。それも一方的にボコボコに。多分、彼女の一太刀一太刀に、日頃の鬱憤とかが込められていたんだろう。それなら自業自得だとも考えられる。
「承芳さんが弱いのが悪いんですよ、って痛っ」
殴られた。ふんと鼻を鳴らしそっぽを向いた承芳さんの頬には、竹刀で叩かれてできたミミズ腫れが、いまだくっきりと残っている。多恵さんも本当に容赦のない人だ。承芳さんを気が済むまで痛めつけると、満足そうに自室へ帰っていった。後で顔を見せたところ、久しぶりに竹刀を握った、体を動かすと気持ちがいいと、大変はしゃいでいた。あんなに素敵な笑顔初めて見たよ。
「ふふふっ、やはりお二方は仲が良いですね。少し羨ましいです」
僕らの顔を交互に見やると、少し寂しそうに言う喜介くん。僕と承芳さんが出会って、かれこれ四年ほど経った。確かに承芳さんとの間の関係は、ただの親友以上のものになってきている。改めて言葉にすると恥ずかしいけど、多分承芳さんも同じ思いのはずだ。
だからといって、僕の喜介くんへの気持ちが承芳さんより劣っているわけではない。関係が長くなれば、自然と人の考えている事やつい出てしまう仕草が分ってくる。ただそれだけなんだと思う。喜介くんと出会ってまだ一年も経っていない。勝手に流れる時間と同じように、人との関係も変わっていくだろう。だから喜介くんもそんな焦らなくても、僕と承芳さんのような関係になれるよ。僕は喜介くんの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃに撫でまわした。驚いた喜介くんは肩を上下に揺らすと、顔を赤らめ困ったように照れ笑いした。
「僕は喜介くんの事も親友だと思ってるよ? それとも、喜介くんは違った?」
僕がわざとらしくおどけて言うと、反射的に距離をとり、慌てた様子で顔の前で両手を振った。
「いや、それは……」
俯きがちに小さく呟くと、遠慮がちに僕の顔をチラチラと窺う。その所作はまるで、片思いの男の子を前にした女の子みたいだ。端正な顔立ちの喜介くんが、顔を真っ赤にし上目遣いで見つめてくると、何だかむず痒く感じる。悪戯していたはずなのに、こっちまでドギマギしてしまう。
「私も、関介様ともっと深い仲になりたいと思っています。腹を割って語り合い、心の底から信頼し合える、そんな仲に」
熱の籠った瞳に見つめられ、僕は咄嗟に言葉を返すことが出来ず、辺りに気まずい空気が流れ始めた。何だか頭が熱に浮かされたようにぼやけて、ぐるぐると目が回る。思考が全く纏まらない。
すると、突如として意識の外から頭のてっぺんを叩かれた。振り返ると、呆れた様子の承芳さんが右手を振り上げていた。もう一度その手を振り下ろすと、僕のおでこにチョップを見舞った。痛い。
「ったく、二人見つめ合って気持ち悪い」
むむむ。言い返したいところだが、男同士で見つめ合ってた僕らは、傍から見たら確かに気味が悪いだろう。僕と喜介くんは互いに顔を見合わせ、気まずそうに目を逸らした。僕の視線の先では、雲のかかった青空の下を、二匹の雀のつがいが仲良く羽ばたいていた。
承芳さん夫妻に邪魔され、結局今日の稽古はお開きになってしまった。暇になってしまった午後をどう過ごそうと考えていたところ、喜介くんより家に来ないかとお誘いがあった。なんでも妹さんが体調を崩してしまったらしく、そのお見舞いに僕も一緒にと言われたのだ。部外者の僕がと一度は断ったが、お世話になってるので是非と押し切られてしまったのだ。ただ予想外だったのが、僕らの話を承芳さんも聞いていたらしく、私も行きたいと言い出したのだ。一国の当主が村へ赴いたらすごい騒ぎになるだろうし、なにより雪斎さんにまたこっぴどく怒られてしまう。そう断ると、しゅんと落ち込んだ承芳さんだったが、何かを思いついたように道場を飛び出していった。暫くして帰って来た承芳さんは満面の笑みで言った。
「私もお前たちについて行くぞ!」
ぬかるんだ道を進むたび、周りに見える森林は深くなっていくばかりだ。かろうじて見えていた青空も、いつの間にか濃い緑色が覆ってしまっている。まるで僕ら三人を飲み込もうとする、巨大な口のようだ。
なんだか体に纏わりつく空気まで冷たくなってきた気がして、僕は思わず身震いを起こした。辺りは徐々に暗くなってきた。僕は気を奮い立たせるように、わざとらしく明るい声で、隣を歩く能天気な男に声を掛けた。
「それより雪斎さんもよく許可を出しましたね。一体承芳さんはどんな嘘を付いたんです?」
「そうやってすぐ人を嘘つき扱いして……まぁいい。別に私は嘘を付いていない。ただ、当主として農村の暮らしを実際に見て、今後の政策に役立たせたいと言ったんだ。そしたら和尚め、大喜びで許可を出してくれたぞ」
物は言いようだな。承芳さんの口達者ぶりには毎度驚かされる。勿論いい意味ではない。
ただ流石にそのままの格好で出歩けば、大きな騒ぎになる事は目に見えている。そこで承芳さんには農民の方が普段から着る服装に身を纏ってもらい、顔も泥で汚して、何処から見てもただの農民さんにしか見えない姿になってもらった。嫌がるかと思ったけど、かなりノリノリに顔を汚し始め、武士の魂であるはずの日本刀も簡単に手放した。承芳さんいわく、武士の恰好より落ち着くとのこと。
因みに僕はそのままの恰好で良いと言われた。着替えなくても誰も武士には見えないとのこと。馬鹿にしやがって。まぁ僕はまだ日本刀の携帯を許されていないし、他の皆と違ってちょんまげを結ってないからそう見られても仕方ないのかもしれない。雪斎さんに刀の携帯をお願いしたら、貴方にはまだ早いですよと言われてしまった。雪斎さんはまだ僕の事を子ども扱いするのだ。
「見えてきましたよ。あれが私の故郷の集落です」
喜介くんの指が刺す方には、かやぶき屋根の家がぽつぽつと建っていた。やはり武家屋敷と比べ、かなり質素な作りだ。壁も所々崩れており、窓には申し訳程度の簾が風に揺れていた。春から秋にかけてはいいかもしれないけど、あれで冬を越すのは厳しいかもしれない。やっぱり承芳さんの言った通り、自分の目で見にくるのは正解だった。彼らの暮らしの実状を肌で感じ、僕らがどれほど恵まれた生活を送り、贅沢をしていたかを痛いほど理解できた。
数軒の家を通り過ぎると、また人気のない閑散とした場所が広がった。ただよく見ると、あちこちに作物の苗らしきものが均等に植えられていた。だだっ広い荒野だと思ったそこ一帯は、広大な農地だった。ふと畑の真ん中あたりを見ると、腰をくの字に折り、苗を一つ一つ丁寧に植える男性がいることに気が付いた。額の汗を拭うために顔を上げた男が僕らの姿を捉えると、大事そうに抱えていた苗をその場に落とし、ぬかるんだ地面を蹴りこちらに駆けてきた。
「喜介! 帰って来ていたのか!」
「もうっ父上! 関介様の前でやめてください!」
顔をくしゃくしゃにして笑う男性は、固まった泥が張り付いた指で、喜介くんの髪をガシガシと撫でまわした。抵抗する喜介くんだが、その表情から満更でもなさそうだ。とても仲のよさそうな二人に、僕と承芳さんは、離れた位置からほっこりと眺めていた。
ひとしきり親子のスキンシップを楽しんだ二人は、僕らの視線に気が付くと、慌てて襟を正し僕の正面にきをつけをした。今更体裁を整えても遅いのだけど。喜介くんの父親は、一歩前に出ると突如深々と頭を下げた。本当に突然の事に若干引いた僕は、思わず一二歩後ずさりする。
「関介様。こんな未熟な倅の面倒を見て頂き、誠にありがとうございます。まだまだ青い小僧ですが、これでも私の大切な息子なのです。どうか今後とも、厳しく指導してやってください」
「よっ、よろしくお願いします!」
父親につられて、喜介くんまでも深々と頭を下げる。息の合ったいい親子じゃないか。跡取りとかそんな事だけじゃない、きちんと愛情をもって育てられているんだと実感する。大丈夫ですよお父さん。貴方の息子さんは、今や立派な剣士ですよ。僕の隣で欠伸をかみ殺している、今川家当主と比べ物にならないほど立派です。
「僕はそんな大層な事をしていません。喜介くんが立派な剣士になれたのも、ご両親の愛情の賜物ですよ。それより、二人とも頭を上げて下さい。そんなにかしこまられると、その、恥ずかしいです」
お礼されるのは悪い気がしないけど、やっぱり慣れないな。だって現代の僕は、何にもないただの僕だから。いくら剣道が出来て大会で好成績を収めても、剣道を取り除いたら、ただ泣き虫で臆病な子供だから。
「関介はなっ、こんな女のような姿をしているが、剣の腕は本当に凄いんだぞ。もう目にも留まらぬ速さでこう竹刀を……」
「ちょっ、承芳さんは黙ってて下さい!」
僕の前に出て得意げに喋り出した承芳さんの口を押え、後ろに引きずって無理やり黙らせる。大事にしたくないから変装までしてきたのにこの馬鹿は。格好だけでは不審がられてしまうと思い、設定まで作り込んで来たのに。因みに農民の恰好の承芳さんは僕の付き人という設定で、僕に対しては敬語で話すように決めたのだ。
「すっ、すまん。関介が褒められているのを見て、何だか私まで嬉しくなってしまって」
すまんと小さく手を合わせ、小声で弁明する承芳さん。不思議そうにポカンとするお父さんの隣で、気まずそうに苦笑いを浮かべる喜介くん。彼の視線が痛いよ。
「ところで、関介様の隣の御方は何者です? 折角ですのでお名前だけでも」
まぁ当然気にもなるだろう。見るからに僕より身分の低そうな人物が、突然隣から現れ、そして僕を呼び捨てにするんだから。さあどう言い訳しようか。承芳さんはこちらをチラチラと助けて欲しそうに見てきて役に立ちそうにないし。とはいえ、喜介くんに気を遣わせて、お父さんへ嘘を付いてもらうのも申し訳ないし。
すると、二人の背後から枯れ草を踏む音が聞こえた。二人の陰に隠れよく見えないが、薄い茶色の和服を着た少女のようだ。
「兄さま、来てくれたのですね。稲穂嬉しい」
「おっ、おい稲穂! まだ起きてはいけないと言ったろ!」
喜介くんのお父さんが慌てた様子で駆け寄り、稲穂と名乗る少女の両肩を掴んだ。確かに儚げな少女の足取りは不安定で、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。そして兄さんと言ったから、彼女が喜介くんの妹さんなんだろう。彼の言う通り体調は芳しくなさそうだ。それにしても整った顔立ちの喜介くんに似て、彼女もまた綺麗な顔だ。雰囲気は何処となく多恵さんに似てるけど、彼女ほど冷徹な印象は受けず、春の日の穏やかな木漏れ日のような優しさと温かさを感じる。肩まで伸ばした艶やかな黒髪、吸い込まれてしまいそうな大きな瞳、少し気崩した和服の胸元に見え隠れする小さな膨らみ。そのどれにも目が行き、離れなかった。
「おい関介押すなって」
いや押してないし。僕の前に立つ承芳さんは、何か含んだように笑いながら言った。ただその意味は直ぐに分かって、彼の視線は僕の下の方に集中していた。本当にこの人は。
「最っ低」
吐き捨てるように言うと、承芳さんのお尻の真ん中を思い切り蹴り上げた。小さく悲鳴を上げる承芳さんを無視して、僕は喜介くんの下へ駆け寄った。
でも、それにしても稲穂と言った彼女。きっと承芳さん直ぐに気が付いたのだろう。彼女へ向けた僕の視線に。こんな気持ちは初めてだ。稲穂さんか。現代で目にした、お米のとある品種の名前を思い出し、直ぐに振り払う。ただ、今僕の胸の中に宿ったこの気持ちは、簡単には消えそうになかった。
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