第49話 武田の血

 喜介くんの放つ強烈な一打をすんでのところで受け止めると、竹刀を握る手のひらに、びりびりとした感触が広がった。一本を確信していたのか、驚いたように目を見開く喜介くんの竹刀を払い除け、逆に彼の首元目掛けて竹刀を振り下ろした。首と竹刀の間は、僅か指が一本入るか入らないか程度。キュッと目を瞑った喜介くんは、小さく悲鳴を上げ後ろに尻もちをついてしまった。


 「ってて。やはり関介様には、まだまだ敵いそうにもありませんね」


 そう笑いながら頭を掻く喜介くん。元々農作業に従事していただけあってか、踏み込んだ時の力はあるし、剣の振りに迷いがない。それにかなり覚えが早い。承芳さんと違って、喜介くんなら直ぐに上達するだろう。

 僕が手を差し出すと、照れくさそうな笑顔を向け手を伸ばした。手のひらの中には、竹刀を受け止めた時の痺れる感覚が未だ残っていた。彼を起こしたところで、道場の扉を引く音が聞こえ、二人仲良く視線を向けた。思わず顔を綻ばせてしまいそうになり、ぐっと頬の筋肉に力を込める。指導役の僕が、そんなだらしない顔をしちゃだめだ。そう心に言い聞かせても、彼の顔を見るとどうしても嬉しくなってしまうのだ。そんな僕の気持ちなど知らない彼は、得意げな笑顔を浮かべ、堂々と道場に入って来た。


 「おう関介、それに皆も元気にやってるな。感心、感心」


 「もう、何しに来たんですか承芳さん」


 呆れ顔でそう文句を言うと、ニヤッとわざとっぽい笑み浮かべ手を振ってきた。ったく、前に顔を出さないよう言ったのに。当主というのはそんなに暇なのか、はたまた仕事を投げ出してサボっているのか。多分後者だと思う。

 喜介くんたちは、今川家当主である義元様の突然の来訪に、竹刀を床に捨て、深々と頭を下げ恐縮してしまっている。これじゃ稽古どころではない。大好きな承芳さんにアピールしたい長教くんは、いつも以上に真剣に竹刀を振っている。面倒くさいから彼の事は無視しておこう。

 僕のジトっとした視線に気が付いたのか、辺りを見渡してしまったという顔をする承芳さん。もう遅いですって。


 「私の事は気にせず稽古をして良いぞ。私は皆の様子を見たかっただけで、ああもう頭を上げよ」


 「そんな、当主様が突然やってきたら驚きますって。ほらほら、お部屋で可愛い奥さんが待ってますよ」


 僕が手を振って追い出そうとすると、むぅと唸り頬を膨らませた。すると隣の方から、ぷっと噴き出す声が聞こえた。見ると、肩を震わせ必死に笑うのを堪える喜介くんがいる。僕らに見られている事に気が付いた喜介くんは、はっとしたように真顔にしようとするが、唇がひくひくと動いている。僕と承芳さんは、お互い顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げた。

 承芳さんが遠慮がちにどうしたと尋ねると、漏れる笑い声を隠すように、口を隠しながら言った。


 「だって、義元様と関介様、まるで夫婦のようで。それがなんだか可笑しくて」


 僕が承芳さんと夫婦? 冗談じゃないや。承芳さんには多恵さんという、美人な奥さんがいるんだ。僕なんかじゃ見劣りしてしまうし、どう頑張っても釣り合わないよ。

 ってちょっと待てい。どうして僕が勝手にお嫁さんという事になってるんだ。いや僕が勝手にそう考えただけなんだけど。危ない危ない。人から女性と勘違いされ続けたせいで、自分が女性であると言われてもなんら違和感を覚えなくなっている。これは由々しき事態だ。取り合えず、喜介くんに一つ問いただしたい事がある。


 「喜介くん。僕の事が女に見えるって言いたいわけ? ふ~ん……明日の稽古二倍にするね」


 「わわっ、そんなつもりで言ったわけじゃないですよぉ」


 途端に泣きそうな顔で嘆願する喜介くん。少し言い過ぎたかも。いやいや、師範を馬鹿にする罪は重いのだ。ここは男としての威厳を示さねば。折角剣の腕で皆から慕われているのに、女らしいと思われたらきっと馬鹿にされる。


 「はははっ、まぁ確かに関介は何処から見ても女子だからなぁ。でもな喜介よ、こやつはれっきとした男だぞ。何故なら、小ぶりだが立派ないちもつが――」


 「用が無いならさっさと帰って下さい!」


 僕の声が道場内に響き渡った。ったく、承芳さんのせいでおかしな空気になったじゃないか。顔が火照ってしょうがない。皆の視線が痛いほど突き刺さる。こっちを見るな、あと視線を僕の下の方に向けるな。


 「お前たちの言う稽古とは、和気あいあいとお喋りをする事なのか?」


 すると道場の入口の方から、聞きなじみのある声がした。もう温かい季節だというのに、その声はまるで真冬に吹く風のように冷たかった。ゆっくりと声のした方を向くと、白い肌が光に反射して本当に雪みたいに見える。承芳さんの奥さんである多恵さんが、呆れた表情で見つめていた。今日は淡い水色の着物を着用している。相変わらず綺麗だ。季節外れの雪が美しいように、四月に咲く色とりどりの花と一緒に映える彼女の姿は、何処か儚げな美しさを纏っていた。


 「多恵さんも呼んだんですか、承芳さん?」


 「そっ、そんな顔をするな関介。確かに誘ってはみたが、暑苦しいと言って断られたんだ。だから私も、多恵が来たことには驚いているんだ。」


 この夫婦、仲がいいのか悪いのか。そんな事はどうでもよくて、もう既に稽古どころではなくなってしまった。多恵さんの姿を始めてみた喜介くんたちは、そのあまりの妖艶さに見惚れてしまい、完全に浮足立ってしまっている。まぁ確かに、彼女の事を知らない人が見れば、物静かな美女という風に映るだろう。ただ少しでも彼女と関われば、彼女の口から放たれる容赦のない毒舌に撃沈させられるだろう。

 多恵さんはつまらなさそうにため息をつくと、道場の中の方へ歩み寄ってくる。流石武田の当主の娘だけあって、その身のこなしは上品で洗練されていた。彼女の一挙手一投足に注目していると、おもむろに竹刀を拾い上げた。彼女の表情に浮かんだ高揚の色を、僕は決して見逃さなかった。おもちゃを手にした子供のように目をキラキラさせ、拾い上げた竹刀に興味津々だ。多恵さんの意外な一面を知ってしまった。彼女が顔を上げると、丁度僕と目が合った。一瞬の気まずい沈黙の後、彼女の頬が段々と紅潮していき、ふいとそっぽを向いてしまった。


 「多恵さん、一度手合わせしてみますか?」


 肩をびくつかせ、うぐっと口元からくぐもった声が漏れ出た。別に恥ずかしがる必要は無いのに。多恵さんだって武士の子なんだ。武道に興味を持つことくらいあるだろう。

 皆の視線を集める多恵さんは、顔を真っ赤にして暫く硬直した後、ゆっくりと僕の方を振り向き、蚊の鳴くようなか細い声で訪ねた。


 「いいの?」


 むさ苦しかった道場に爽やかな風が通った気がした。それくらい、やっぱり可愛い。

 阿保みたいに見惚れてる承芳さんの肩を小突き、行けと合図する。勿論僕が相手になったら、多恵さんに怪我を負わせてしまうかもしれない。他の子たちじゃ、彼女を目の前にしてまともに竹刀を振るえるとは思えない。その点彼女の旦那さんである承芳さんなら、彼女の丁度いい相手になるだろう。別に本気にならなくてもいい。適当に竹刀を当ててあげれば、彼女も満足するだろう。慣れない竹刀を必死に振る彼女の姿を想像する。うん、やっぱ可愛いや。

 承芳さんは嫌だと言う割に、何だか満更でもなさそうだ。ニヤニヤしちゃって。


 「それじゃあ多恵。私が手本を見せてやるから、お前も同じように」


 ビュンっ、と風を切り裂く鋭い音が響いた。やっぱり爽やかな風なんて吹いていなかった。集中した様子で目の前を見つめ、淡々と竹刀を振る彼女の姿は、歴戦の侍を彷彿とさせた。やばいこれ、承芳さん殺さるかも。

 彼女の姿を見て、ガタガタと震えだす承芳さん。泣きそうな顔で僕の顔を見たけど、もう僕が出来る事は何もない。まぁ来るなといったのに、道場へ遊びにきた罰だと思ってくれ。


 「えぇい! やあ!」


 何とも可愛らしい掛け声が響く道場。その声だけを聴いたら、女の子たちが楽し気に戯れる様子を思い浮かべるかもしれない。だけど、今僕らの目の前に広がっているのは、一方的な暴力だった。

 教える立場からするととても綺麗とは言えない構えだが、目を瞑って力任せに振った竹刀は、全て承芳さんの顔や胴にヒットしている。これが武田の血か。多恵さんを怒らせるのはやめよう。サンドバッグのように打ち込まれる承芳さんを見て、僕はそう心に誓った。

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