第52話 かがり火
ゴリゴリと、何だか不気味な音が背中越しに聞こえる。なんだろう気になるな。そういえば昔おじいちゃんが、山から取って来た芋を、すり鉢で潰していたのを見たことがあったな。その時も同じような音がしていた。真っ白なとろろを熱々のご飯に乗せ、少し醤油を垂らして食べるとろろご飯、すごく美味しかったなぁ。また食べたいなぁ。
そんなどうでもいい事をぼんやりと考えているのは、頭が完全に覚醒していないからだ。まるで寝起きのような、ふわふわした感覚が全身を覆う。真横に倒れた世界をぼーっと眺め、そよ風に流れる雲を何となく目で追っていた。その時ふと自分が、布団の中に包まれていることに気が付いた。何故に僕は布団で?
布団を退かしおもむろに身体を起こすと、急に僕の真上だけ重力が強くなったんじゃないかと錯覚するほど身体が重たく感じた。それと同時に、お腹の底から込み上げる吐き気と、全身の気怠さが襲い掛かって来た。咄嗟に口元を押さえ、喉元までせりあがって来た嘔吐物を、寸前のところで飲み込む。気分がすこぶる悪い。立ち上がろうにも力が全く入らない。
「やっと起きた? 貴方の世話、本当に大変だったのだけど」
冷気のような声が首元にかかり、思わず身震いを起こした。このか細い声は。振り返ると、僕の予想通り多恵さんが部屋の真ん中で座っていた。ここでさっきの不気味な音の正体に気が付いた。多恵さんの目の前には、高貴で品のある彼女には似つかわしくない、土製のすり鉢とが置いてあった。そして彼女が握るすり棒の先端には、黒っぽい謎の液体が付着していた。正体を見てもなお不気味だった。彼女の姿が、まるで禍々しい魔女に見えてきた。
それよりも驚いたのは、彼女の発言で、僕の世話と言った。ようやく今の状況に頭が追い付いて来て、自分の身に何があったのかを思い出してきた。
「昨日から僕のお世話してくれてたんですね。迷惑かけちゃいました、すいません多恵さん」
「昨日から? 何を言ってるの。貴方は三日間も寝込んでいたのよ。その間、着替えから下の世話まで、ずっと私が面倒見ていたんだから。もっと感謝されてもいいと思うのだけど」
三日、三日!? 僕そんなに寝てたの? しかも、その、お下のお世話までさせてたなんて。まあそりゃ三日も寝てたら、出る物も出るけど、それにしても恥ずかしい。
「そ、そんな寝てたんですか僕!? それは本当にご迷惑をお掛けしました!」
重たい身体を無理やり動かし、出来る限りのスピードで土下座する。畳に穴が開くんじゃないってくらい頭を擦りつけ、何とか僕の謝罪の気持ちを伝える。流石に多恵さんも怒ってるだろうな。
体感では一時間くらいの沈黙が続く。おもむろに顔を上げると、キョトンとする多恵さんと目があった。意外にも多恵さんの顔に怒った様子は無かった。
「別に、龍坊のお世話で慣れてるし。それに……」
すると真っ白な頬を仄かにピンク色に染め、多恵さんはさっと顔を逸らした。何だろうそれにって。
「どうしたんです? ええと、多恵さん?」
「あいつから聞いた、その傷のこと。すごい無茶したって」
喋るたびに顔がどんどんと赤くなっていく多恵さん。それを振り払うように、すり鉢の中の謎な液体を乱暴な手つきで紙に掬うと、怖いくらいの剣幕で僕の下へ歩み寄って来た。左手には包帯が握られている。
「はやく左腕見せて! んっ!」
「いててっ! 多恵さん、もう少し優しくお願いしますよぅ!」
「うるさい!」
乱暴に傷跡へ包帯を巻く多恵さんだけど、その所作はとても正確だった。少しも包帯によれやずれが無くて感心してしまう。現代に生まれてたら看護師さんなんてどうだろうか。いや、こんな怖い看護師さんは嫌だな。
彼女の手のひらが僕の腕に触れる。それはびっくりするくらい病的に冷たかった。
「ひゃわっ!」
「気持ち悪い声上げないでくれる?」
思わず悲鳴を上げてしまい、肌の温度より冷たい言葉を受けてしまった。人に向かって簡単に気持ち悪いとか言わないで欲しい、普通に傷つくから。
ただそれにしても、彼女の肌は真っ白な見た目通り、雪のように冷たかった。そしてどこか不安になるような冷たさだ。道場で承芳さんをボコボコにしていたから、何か病気を抱えてるって訳じゃないと思うんだけど。言い方が悪いが、生きた人間の体温を感じない。思い出したくなかったけど、死ぬ前日の祖父の体温が頭をよぎった。
体調の悪さもあって、多恵さんは僕の動揺を直ぐに見抜いた。僕が顔を上げると、その視線の先に彼女の大きな瞳があった。
「別に、貴方に心配されるほどのことは無い。こほっ、こほっ」
「で、でも多恵さん」
「何も無い。分かった?」
彼女の鋭い瞳には、有無を言わせない力が込められていた。これ以上刺激したら、僕の傷がもう一つ増えてしまう。ただ彼女の空咳なんて初めて見た。本当は心の底から心配なんだけど、彼女が隠したがっているし、これ以上の詮索はやめた。それに僕が心配しなくても、夜を共にする承芳さんならとっくに知っているだろう。彼が何も言わないのなら、僕が出しゃばる必要は無いだろうな。
「これでよしと。最低限の処置はしておいた。お医者様から、あと三日は安静にするようと言われてるから。間違っても、道場へ行ったりしないように」
「何から何まで、本当にありがとうございます。」
「もう無茶しないでよ。貴方の事を想ってくれる人は、貴方の想像しているより多い事を忘れないで」
そう囁くと、多恵さんはふっと力を抜くように微笑んだ。いつの間にか、左腕の痛みはすっかり消失していた。きっとどんな薬よりも、人の温もりが一番の特効薬なんだろう。僕はもう一度深々と頭を下げる。丁寧にまかれた包帯の表面を、愛おしく思いながら撫でた。
まだ体調が戻らないから、直ぐにという訳にもいかないが、いつかこの恩を絶対に返したい。それは承芳さんも一緒だ。僕を想ってくれている人の分まで、僕のできる事で少しずつ返していこう。そう心に決めた。
暫くして部屋の中に、心地の良い静寂が訪れた。天にまで届きそうな渡り鳥の鳴き声が部屋の中を駆け巡り、そっと目を閉じてその雄大さを楽しんだ。人の手の加えられていない大自然の力は、傷ついた僕の身体にエネルギーを与えてくれるようだ。苦しかった呼吸も気が付くと落ち着いて、自然と一体となったリズムを刻んでいた。
障子の開く音が聞こえた。多恵さんの部屋に入ってくる人なんて限られる。きっとその人は、子供みたいに泣きそうな顔をしているだろうな。そして僕の顔を見るなり、ぱあっと太陽のように明るくなるんだ。想像するだけで、心の中が温かくなる。僕は咄嗟に音のした方を見つめる。
「ちちうえ、どこ。ははうえ、ちちうえいない」
違った、部屋に入って来たのは龍坊だった。まだおぼつかない足取りで、ふらふらと壁を伝って歩く姿は本当に可愛い。言葉もかなり喋れるようになってきた。因みに最初に覚えた言葉は”ちち”だった。言葉にはしてないけど、多恵さんが凄く悔しそうにしていたのを覚えている。承芳さんも何だか気まずそうだった。僕には小さい弟もいなかったし、赤ちゃんの成長を間近で見られて、毎日心が洗われる気分だ。
龍坊は多恵さんを見るなり、泣きそうな顔でよたよたと近づき、彼女の膝に抱き着いた。
「どうしたの龍坊。お父上と一緒じゃ無かったの?」
多恵さんは、龍坊を優しく抱きかかえると、頭を撫でながら心配そうに聞いた。このシーンだけを切り抜けば、まるで西洋の絵画のようで、聖母何とかいう題で美術館に展示されても不思議に思わない美しさがあった。多恵さんの龍坊に注がれる眼差しは、愛情深い母親の視線だった。
「ははうえ、ちちうえいっしょじゃない。りゅうおいて、どっかいった」
そう言うと、龍坊は多恵さんの腕の中でぐずり始めた。龍坊は泣き顔も可愛いな。ただ多恵さんの表情を見て、そんな能天気な考えも吹っ飛んでしまった。龍坊を抱く姿は聖母の様に優しそうなのに、その表情はまるで夜叉だ。彼女の背後にユラユラと漂う妖気から、並々ならぬ怒りを感じる。これはまずい、承芳さん逃げて。今度こそ殺されるぞ。
「おーい、龍坊ぉ、どこ行ったんだあ? ってあっ! 関介、やっと起きたのか!」
遅れて部屋に入って来た承芳さんは、僕の顔を見るなりぱあっと顔を明るく輝かせ、踊るような足取りで走って来た。次の瞬間には、手を広げ猛然と飛び込む承芳さんの体が視界全体を覆った。お、重たい。身体はまだきついというのに、この男は。
「ちょっと承芳さん、早く退いてください。僕まだ体調悪いんですから」
「ああすまんな、久しぶりにお前の顔が見られてつい」
「ったく。それより、承芳さんに用のある人がいるみたいですよ」
承芳さんは不思議そうに首を傾げた。僕がとある方向を指さすと、つられて承芳さんもその方向へ視線を向けた。彼の顔がみるみるうちに青くなっていき、嬉しそうだった表情も泣き顔へと変わっていった。もちろん承芳さんの視線の先にいるのは、夜叉のような多恵さんがいた。
「多恵……もしかして、怒ってるか?」
「当たり前! 龍坊を置いて何処へ言ってたの! 龍坊を見ておくからと言ったのは貴方じゃない!」
僕の目の前で、多恵さんによる折檻が始まった。もしかしたら、僕の祖父より怖いかも。泣きそうな顔の承芳さんは、時折僕の方へ助けを求めるように視線を送って来たが、流れ弾を受けたくない僕は、それを全て無視した。
その間龍坊は僕に預けられた。一緒に布団へ寝頃なりながら、彼ら夫婦の行く末を見守っていた。
「かんしゅけ、ちちおこられてる。ははおこってる」
「ねっ、お父さん怒られてるね」
ねっ、っと顔を綻ばせる龍坊。あぁ、ほんと可愛い。このまま僕の子に……なんてね。
その後、多恵さんによる折檻は一時間ほど続いた。流石に飽きてしまった龍坊は、僕の隣で可愛らしい寝息を立てていた。多恵さんは立ちあがると、眠っている龍坊を起こさないよう慎重に抱き上げた。自分の座布団の上に座ると、彼の頭を自身の膝の上に乗せた。
これでやっと落ち着ける。落ち込む承芳さんの方を向き声を掛ける。思ったよりやつれた声になってしまった。
「改めて、久しぶりですね、承芳さん」
「ああ、そうだな。久しぶり、関介」
改めて向かい合うと、何だか気恥ずかしくて、お互い無言の時間が続いた。ただその時間も長くは続かず、二人同時に噴き出した。二人してお腹を抱え笑う姿を、部屋の隅の多恵さんは若干引き気味な目で見ていた。こんな日常が懐かしい。僕が寝ていたのはたった三日だというのにそう思えた。
「そうだ関介、腕の傷跡は治りそうなのか?」
「残念ながら、この傷跡が治る事は無いみたいです。まぁ、頑張った勲章だと思って大切にしますよ」
僕はわざと包帯を見せつけるように言った。なんだそれと、またお互い笑いあった。多恵さんは付き合い切れないといった風に、手をひらひらと振っていた。
「そういえば、喜介の家の問題だが、ようやくかたが付いたぞ」
「それが一番気になっていたんですよ。それで、結局どうなったんです?」
「あの後、過去の土地所有の履歴を全て調べた結果、正式に喜介の家の土地である事が認められた。やはり、男たちが喜介たちを嵌めようとしていたんだ」
思わず身を乗り出したせいで腰が痛い。落ち着いてそうですかと呟く。あの日僕が浴びた熱湯も、僕たちを脅すための道具だったのか。今でもあんな裁判が、この駿府の国の何処かで行われていると思うとやるせない思いだ。僕があの場でパフォーマンスをしたところで、結局何も変わらないんだ。そんな自分の無力さに唇を噛んだ。
そんな僕の気持ちを察したのか、不安そうな子供をあやす父親のような、優しい声で言った。
「あの時の関介の行動は、確かに無茶だった。だけど、決して無駄ではなかったさ。関介、あの時のお前の行動は、駿府を変えてしまうかもしれないぞ」
「どういう事です?」
承芳さんは、僕の相槌を満足そうに頷いた。
「実はあの件の後、喜介の父親は近くの河川の水を、男たちと共同で使用することにしたんだ。胡散臭い裁判などでは無く、話し合いで。関介の言った通りにだ」
「へっ? それ本当ですか?」
「驚くだろう? 恐らくあのまま湯起請を続けていても、怪我人が増えるだけだった。それが各集落の中に残る伝統だからだ。だが関介の言葉が、その古臭いしきたりを打ち破ったんだ」
段々と興奮していくのが伝わってくる。徐々ににじり寄ってきた承芳さんは、僕の鼻の先で自信満々に言った。
「駿府に蔓延っていた暴力や理不尽に、話し合いという新たな光を当てたんだ。小さな一歩かもしれない、一つの手がかりかもしれない、だが確実に平和な世に近づいている。お前のおかげだ関介」
そう言うと、雲の隙間から差し込む眩い太陽のように笑った。その瞬間、なまり切った身体中に、痺れるような衝撃が走った。心の底から湧き出て来る、このワクワク感が止められない。僕もつられて、承芳さんへと笑いかける。
僕らの進む道に、小さなかがり火が増えた。これで迷わず進むことが出来る。足元さえ暗がりに包まれたこの道を。
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