第53話 七夕
1540年 7月 7日
夏の暑さもすっかりと引き、気持ちの良い風が、爽やかな秋空の下を通り過ぎた。実りの秋とはよく言ったもので、庭先に伸びる樹木の枝には、光沢のあるオレンジ色の柿が実っていた。お父さんはよく、庇の下で干し柿を作ってくれた。とろける甘さで、幾つも食べたのを思い出した。
縁側をよたよた歩く龍坊と、丸々と成長した柿とが重なった。子供の成長は早い。三歳に満たない龍坊でも、そろそろ読み書きを習い始めるそうだ。だけど、あの木がしっかりと柿を実らせるまで八年かかるんだ。龍坊もゆっくりと大きくなればいい。龍坊は僕の目前で、雲一つない秋晴れのような笑顔を見せた。ふっくらした頬っぺたは、熟れた柿のように柔らかかった。
今日は七夕だ。どうして七に夕でたなばたと呼ぶのか疑問だった。それでも物心ついたころには、自然とそうと呼んでいた。後に調べたところ、しちせきと呼んでも問題無いらしい。でも今更たなばた以外しっくりこないし、子供の頃に読んだ日本昔話にはたなばたって書いてあったし、もうそのままでいいだろう。
七夕は織姫と彦星が、一年に一度だけ会える日だ。一日も忘れる事のできない、愛する人と離ればなれにされた彼らはきっと、年に一度だけ出会える今日の日を、心の底から待ち望んでいた事だろう。夜空に輝く織姫と彦星は、僕らの目には隣同士に見えるけど、その二つの星の間には、何光年もの隔たりがある。地上に届く柔らかな星光は、彼らの嘆きの声なのか、それともいつか出会える日に胸を躍らせる希望の声なのか。一等星の輝きに想いを寄せる僕の話を、承芳さんは欠伸をかみ殺しながら面倒くさそうに聞いていた。この坊主には難しすぎた話だったかな。
承芳夫婦のお部屋にお邪魔した僕は、一枚の短冊状の紙を目の前に、うんうんと頭を悩ませていた。七夕と言えば、笹の葉に願いを書いた短冊を飾るのがお決まりだ。無垢な子供の頃ならいくらでも思いつけたのだが、この年になると、ぱっと思いつかないのだ。
「うんっ、私はこれにしよう」
そう言う多恵さんは、墨を付けた筆で短冊の上をさらさらとなぞった。流れるような筆さばきで、みるみるうちに文字が紡がれるが、達筆すぎるせいか僕には何と書いてあるか分からない。戦国時代に来てもう五年ほど経つというのに、僕は未だににょろにょろ文字の読み書きがほとんどできないでいた。
「多恵さんはどんなお願いごとにしたんですか?」
多恵さんは少し照れたように頬を染めると、膝の上に抱える龍坊の頭を優しく撫でた。
「龍坊が、立派に育ちますようにと」
「そっ、そうか。奇遇だな多恵、私も丁度同じ願い事にしようとしたところだったぞ」
何故か自分の短冊を急いで机の下に隠す承芳さん。隠す前にチラッと見えたけど、はっきりと「面倒な仕事が無くなりますように」と書いあった。僕と多恵さんのジトっとした目を向けられた承芳さんは、観念したのか机の下から取り出し首を垂れた。
「ちちうえ、めっ!」
言われてるぞ承芳さん。僕はため息をつきながらも、再度短冊との睨めっこに戻った。実は既に願い事の候補は一つだけ思い浮かんでいる。ただそれを皆の前で書くのは、とてつもなく恥ずかしい。やっぱりここは、別の無難な願い事を書いて誤魔化すのが吉だろう。僕が筆に力を込め、今にも短冊に文字を書こうとしたその時、承芳さんが口を開いた。
「関介の願いは、やはり稲穂殿と一夜を共にしたいとかだろう?」
あまりの衝撃に、持ってた筆があらぬ方向に飛んで行ってしまった。承芳さんのせいで、机も畳も墨だらけだ。多恵さんの冷たい視線の矛先が、今度は僕になってしまった。ただ事態はそれどころじゃなくて、僕は直ぐに承芳さんへ体を向けた。何故僕がここまで動揺しているのかというと、図星だったからである。
「ちっ、違いますよ!」
「え? それでは、もう済ませたのか?」
「それもちーがーう! 僕はまだ女の子の経験はありません! って何を言わせるんですか!」
「関介は何をそんなに興奮しているんだ。人を好くことは恥ずかしい事ではないし、一夜を共にすることは、男女において当然の行為だろう」
荒くなった息をゆっくりと整える。それにしても、龍坊の目の前の会話にしては過激すぎやしないか。それも戦国時代の性意識のせいか。チェリーボーイの僕は、戦国のこの感覚には中々慣れることが出来ないでいた。
「ううぅ、それはそうなんですけどぉ。直接過ぎるというか。それに、七夕でそんな邪な願い事、何か失礼な気がして」
「別に良いではないか。一年に一度くらい、己の欲を願っても。それに、七夕の伝承だって色恋沙汰ではないか。関介が恥ずかしがる理由も、遠慮する理由もないと思うぞ」
確かに、七夕は織姫と彦星の恋の物語だ。そう考えれば、むしろ恋愛の願い事を書く方が正しいのではとさえ思えてきた。いや冷静になれ。もし稲穂さんが僕の願い事を見たら、普通に気持ち悪いと思うだろうし、知り合い程度の関係の男に、突然プロポーズされるとか鳥肌ものだ。
だけど、僕が稲穂さんに一目惚れして、いまだその熱が冷めやらないのは事実だ。布団に入った後、稲穂さんと愛を確かめる妄想をして、自分を慰める夜も何度かあった。それで満たされるものではないと、頭の中では分かっていた。
筆を強く握り、目の前の短冊に集中する。心臓を叩く音がやけに煩く聞こえる。今から僕は、この短冊に願いを書くのか。もし稲穂さんに見られたら、いや彼女は今川館まで来ないはずだ。思考を邪魔する嫌な予感を振り払い、いざ筆に墨をつける。よし、心の準備は出来た。
僕一人だとにょろにょろ文字が書けないので、承芳さんに隣で教えてもらいながら書いた。紙は貴重だから、慎重に書けよと何故か脅されながらも、何とか書ききった。短冊を受け取った承芳さんは、にんまりと無邪気な笑顔を浮かべていた。多恵さんも僕の方を見て、ふーんと意味ありげに微笑んだ。恥ずかしいからそっとしておいてほしい。
「七夕の夜に叶うといいな」
恥ずかしくてたまらない僕は、床に突っ伏したまま何も言えなかった。
年に一度の七夕祭りは、催し物大好きな今川館で、やはり盛大に行われた。日が暮れ始めたころ、どこで用意したのか大量の松明、行燈が暗闇を感じさせないほど並んでいた。そして長机の上には、朝から大忙しだった厨房で作られた、豪華な御馳走が目白押しだった。勿論大量のお酒も並んでおり、既に宴の席は、多くの家臣たちで賑わいを見せていた。
人混みの中キョロキョロと見回していると、ようやく見知った顔が見つかった。その人物も同時に僕の姿を捉えたらしく、周りの事など気にせず、大袈裟に手を振った。
「関介~! こっちだぞ~!」
「恥ずかしいから止めて下さいよ」
肘で軽く小突くと、承芳さんは悪い悪いと笑いながら言った。やけに上機嫌だ。まぁこの雰囲気じゃ仕方ないだろう。そういう僕だって少し浮かれているし、周りを見回しても、既に素面を探す方が難しい。
「ふっふっふっ、今日は宴だからな。外憂は尽きんが、今夜だけは羽を伸ばそう」
「ふんっ、青いガキどもめ、浮かれおって。敵はあの織田信秀だ。寝首を掻かれぬよう、用心を怠るでないぞ」
僕らの後ろから聞こえたのは、雪斎さんの声だ。こんな浮かれてしまいかねない宴の席でも、敵からの攻撃を常に考えているなんて、流石は雪斎さんだ。そう感心して振り返ると、顔を真っ赤にして、左手に一升瓶を掲げる雪斎さんと、同じように顔の赤い親綱さんの二人の姿があった。彼らは陽気に肩を組みあい、豪快に酒をあおっていた。感心した僕が馬鹿だった。
「さあ関介殿も飲まれよ。今夜はまだまだ長いですぞ」
それだけ言うと、酔っ払い二人は人ごみの中に消えていった。もうやだあの大人たち。承芳さんも辟易とした様子だ。僕もお酒の飲み過ぎには気を付けよう。
暫くは承芳さんと二人で、談笑しながら豪華な御馳走に舌鼓を打っていた。時折かなり格の高い家臣さんたちも挨拶に見えた。そういえばこの人当主だったなぁ。
ふと視線の先に、僕の背丈の二倍ほどの高さの笹を見つけた。装飾と共に無数の短冊も飾られていた。よく目を凝らしてみると、僕の名前の短冊も紐で括られており、それも目線の高さくらいの、一番目立つとこにあった。
「承芳さん、短冊を書く手伝いしてもらって、ありがとうございます」
「ふふんっ、気にするな気にするな」
何故か意味ありげな笑みを受けべて言った。少し嫌な予感がしたけど、お酒が回ってるせいか、その予感も直ぐに消えてしまった。
「あっ! 義元様、関介様! ようやく見つけました」
「喜介くん、来てくれたんだね」
今夜だけは今川館を開放し、近くの庶民の方の入城を許可していた。そのためよく見ると、そこら中に警護を務める家臣の方が見える。僕もその役に買って出ようと提案したのだが、大人の仕事だからと断られてしまった。
稽古の時、喜介くんは行きますと元気に手を上げて言ったが、稲穂さんは体調面を考えて行くのを控えるとの事だった。残念だったが、これだけの人混みだし、その方がよかっただろう。
「折角だし、これ。お留守番してる稲穂さんに、美味しいごはんだけでも持っていってあげて」
あらかじめ包んでおいたご飯を喜介くんに手渡すと、どうしてか彼はそれをやんわりと断った。すると、彼の背後の陰から、ひょこっと顔を出した可憐な女性。稲穂さんは僕のポカンとする顔に、にこっと微笑んだ。
「こんばんは、義元様、関介様。稲穂の兄がいつもお世話になってます」
「おお稲穂殿ではないか。今日は来られないと聞いて、関介なんか朝から泣いていたぞ。って痛い。何をする関介」
「余計な事を言わない」
関介さんの足を踏みつけ、小さな声で言った。稲穂さんには聞こえないように言ったつもりだったけど、僕らの様子を見て、口元を押さえクスクスと笑っている。
今日の稲穂さんの服装は、普段の地味な色の着物ではなく、鮮やかな黄色の生地に花の絵が施され、稲穂の実る田園風景を思い起こさせるような着物だった。派手だけど主張しすぎない、。上品でおしとやかな稲穂さんにぴったりだ。
「あっ、おい稲穂見てみろ、あれが七夕の風物詩の笹と短冊だぞ」
「本当ですね、稲穂初めて見ました。きれいですね。本当に、綺麗」
稲穂さんの方が綺麗ですよ。口にはできないけど。初めて見る七夕飾りに見惚れたのか、稲穂さんはほうっとため息を溢し、目を爛々と輝かせて眺めていた。僕はそんな彼女の横顔から目が離せなかった。ころころと変わる彼女の笑顔は、まるで四季のようだ。鮮やかな着物を身に纏う今日の稲穂さんは、豊饒な秋の一風景に見えた。
ただ見惚れているけど、彼女の視線の先には、僕の願い事の書かれた短冊がある。まあ庶民の子の稲穂さんに、あのにょろにょろ文字は読めないだろう。
「そういえばあっちに美味しいちらし寿司ありますよ。皆で食べに行きましょうよ」
「そうか、それはいいな。だが私は喜介殿と少し話したいことがある。関介と稲穂殿で先に行ってくれ」
稲穂さんと二人きり、いやいや、なに変な事を考えているんだ。別にやましい事も無いし、ただ一緒にご飯を食べるだけだ。
「そうですか。じゃあ稲穂さん、一緒に行きましょ」
「……はい」
暗くてよく見えないけど、稲穂さんの頬が少し赤い気がする。でもそれは僕の気のせいか、松明の灯りに照らされたからだろう。
稲穂さんは、僕の少し後ろを歩いていた。女は3歩後ろを歩けと言うが、僕は隣を歩いて欲しかった。僕はわざと歩を緩め、彼女と肩を並べた。稲穂さんが僕の方を見る。顔が接近したことで気がついた。彼女の頬が赤いことに。
「関介様、実は稲穂、農作業ができない日は読み書きの勉強をしているんですよ。先程の飾りを眺めている時稲穂、関介様のお願い事見つけてしまいました」
そう言って笑いかける稲穂さん。そんな彼女を前に僕は、返す言葉が見つからなかった。僕の目をしっかり見る稲穂さんの瞳には、力強い意志を感じた。そんな目をされても、混乱する僕はさっと目を逸らした。すると稲穂さんは、焦ったそうに笑った。
「あのお願い事は、関介様の本当の気持ちで間違い無いですよね?」
僕が咄嗟にこくこくと頷くと、本当ですかと頬を膨らませる稲穂さん。そのまま俯く彼女は、ボソッと僕に聞こえない声で呟いた。どうしたのと尋ねようとした瞬間、突如として身体を寄せ、僕の手を握った。何が起きたのか一瞬分からなかったが、いつの間にか僕の手のひらには一枚の短冊が握られたいた。
「宴の終わった後、関介様のお部屋に伺います」
それだけ耳元でささやくと、人混みの中に溶け込んでいった。彼女の背中が見えなくなった後も、顔が熱くて仕方がなかった。彼女から受け取った短冊に書かれた文字を見て、更に顔が熱くなる。そこには、僕の願い事と同じ内容が書かれていた。
その後、承芳さんと合流した時には、喜介くんと稲穂さんはいなかった。承芳さんと一緒に食べたちらし寿司は、何の味もしなかった。
部屋の片づけはあらかた済ませた。見渡す限りゴミ一つ落ちていない。一応香をたいて、汗の匂いを消しておく。それでもさっきから手汗が止まらなかった。
承芳さんと別れる際こんなアドバイスを貰った。
「関介、入れた後は勢いだからな。男のお前が上手く乗せてやるんだ。そしてこう腰を動かして」
そう言い切る前に、彼のみぞおちを思い切り殴った。野太い悲鳴を上げた承芳さんは、その場に崩れ落ちた。いい気味だ。
ふうともう一度深く息を吐く。承芳さんから変な入れ知恵を貰ったせいで、変に緊張するじゃないか。一応もうひとセットの布団は押し入れに入ってある。本当に一応だ。
その時控えめに障子を叩く音が聞こえた。僕は緊張しながらもどうぞと伝えると、ゆっくりと障子が開かれた。
「失礼します関介様。夜分遅くに押しかけて申し訳ございません」
「そんなかしこまらなくてもいいよ稲穂さん。貴方が緊張すると、僕まで緊張しちゃうから、ねっ」
そう言うと、彼女はほっと息を吐き微笑んだ。僕もだが、彼女もまたかなり緊張した様子だ。彼女の伝えたい気持ちは、あの短冊に書いてあった。
「稲穂さんと、恋人になれますように」
それが僕の、そして稲穂さんの願い事だった。彼女と目が合うと、お互いさっと逸らした。部屋中に気まずい空気が流れ始めた。どうやってこの空気を変えようか考えていると、稲穂さんの方からぽつりと呟いた。
「実は稲穂、殿方とこうして二人きりになるのは初めてでして、すごく緊張しているんです。関介様の部屋の前に着いたときから、手の震えが止まりません」
「そう、ならよかった。実は僕もなんだ。稲穂さんと二人きりになるって考えたら、手汗が止まらなくて」
そう言い合うと、二人顔を見合わせぷっと噴き出した。ようやく凍り付いていた空気が溶けだした。
「稲穂の伝えたいこと、それはもう短冊に書きました。稲穂は今夜、関介様のお返事を頂きに来ました。それで返事は」
「そう慌てなくても。稲穂さん、こっちへおいで」
すごいグイグイ来るなぁ。顔を真っ赤に染め、前かがみになる稲穂さん。僕は手招きして、彼女を部屋の真ん中に来るよう促した。
彼女が僕の手の届く範囲まで近づいた瞬間、僕は彼女の両肩を持ち顔を近づけた。触れ合う唇は、少し震えていてすごい温かかった。唇を話すと、信じられないといった顔の稲穂さんと目が合った。
「返事はこれでいい?」
「ううぅ~、意地悪です関介様……だめです、言葉でお返事を下さい」
「そう、分かった。稲穂さん、僕は貴方が好きだ。貴方と会ったその日から、僕は恋に落ちたんだ。今夜この気持ちを伝えられてよかった。今度は、稲穂さんの返事を聞いていい? もちろん言葉で」
熟れた林檎のように顔を真っ赤に染め、悶える稲穂さんは、今までで一番可愛く見えた。このまま押し倒して、彼女の初めてを貰いたい。彼女と一緒になりたい。どうしようもなく淫らな思考に傾くのは、多分酒が入ってるせいだ。そう自分に言い聞かせた。
彼女の柔らかな唇がおもむろに揺れた。
「関介様は稲穂の父を救ってくれました。あの日から、関介様の顔が頭から離れた日は一度もありません。関介様、稲穂も好きっ。心の底から、稲穂は関介様を愛しています」
今度は彼女から唇を重ねてきた。これが理性を保てる最後の瞬間だった。僕は彼女の両肩を持つと、優しく布団へ押し倒した。彼女も無抵抗だった。うっとりと蕩けた稲穂さんの顔が、僕の色情をさらに駆り立てる。僕の身体は稲穂さんの全てが欲しがっていた。それは彼女も同じなはずだ。こんなところで承芳さんの言葉を思い出す。後は勢いだけだと。腰を動かすたびに、二人の淫らな声が部屋中にこだまする。溢れだす白い欲情に浸りながら、僕らは満足の行くまで行為を続けるのだった。
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