第54話 揺れる北条家

 1540年 10月


 今日も道場には変わらない風景が広がっている。喜介くんたちの熱の籠った掛け声が、道場の冷えた床を温めた。十月にもなるとかなり冷え込んでくる。先日多恵さんが体調を崩し、数日の間寝込んでしまった。元気溢れる喜介くんたちだとしても気を付けなければ。彼らの体調管理も、僕の仕事なんだから。

 喜介くんたちの息もかなり上がってきた。そろそろ稽古を終える良い頃合いだろう。僕の合図とともに、皆竹刀から手を放し、床に腰を下ろし始めた。みんなへとへとだけど、それでも以前より体力も付いてきたし、剣の腕も上がっていた。元々農民出身の彼らだ、やはり足腰は強いし、しっかりと教えてあげれば上達も早かった。承芳さんはいつまでも腕が上がらないままだけど。

 道場内は、和気あいあいとした温かい空気が広がっていた。みんなほとんど同じ年齢な事もあって、直ぐに打ち解けることが出来た。最初こそ、やれ農民だの喜介くんの事を馬鹿にしていた長教くんも、気がつけばすっかり仲良しになっていた。彼も根はとても素直で優しいのだ。

 ふと道場の扉が開く音が聞こえ、無意識に視線をそちらに向けると、その瞬間僕の心に春の温かな風が舞い込んできた。地味な茶色の着物がよく似あう稲穂さんが、僕の方に控えめに手を振って立っていた。


 「稲穂さん! 久しぶり、こっちに来てたんだね!」


 僕は反射的に立ち上がると、稲穂さんの下へ駆け寄った。思わず顔が綻ぶ。稲穂さんも周りを見渡して遠慮がちに笑っていた。


 「関介様、久方ぶりと言っても、三日しか経ってませんよ」


 「そんな。僕にとって、三日も三ヶ月も一緒だよ。本当は稲穂さんと毎日会いたいんだから」


 僕は微笑みかけ、稲穂さんの背中に手を回すと身体を密着させた。髪の毛に顔を寄せると稲穂さんの匂いがする。土と汗っぽい匂いだ。どんな高価な香水よりも、この匂いが堪らなく好きだった。稲穂さんの顔がみるみるうちに赤くなり、手をばたつかせて慌てた様子で僕の身体を押した。


 「皆さんの見てる前でやめてください! 恥ずかしいじゃありませんか!」


 「もう少しだけ、もう少しだけだからっ……はっ」


 背後から気配を感じると思い振り返ると、さっきまでワイワイ盛り上がってみんなが、ジトっとした視線を僕らに送っていた。特に喜介くんは、竹刀をぎゅっと握りしめている。まさかそれで殴る訳ではないよな?

 稲穂さんを前にすると冷静にいられないというか、どうしても浮かれてしまう。今まで彼女はおろか、女友達もいたことが無い初心な僕にとって、初めての恋人とどういう距離感で接すれば良いか分からなかった。とはいえ、稽古は終えたわけだし、その後にどういちゃいちゃしようが僕の勝手な気がするんだけど。

 

 「剣の道を極めるには、心技体が大事と言ったのは関介様ではないですか。今の関介様の緩んだ顔。そのどこに剣の精神が宿ってると言うのです?」


 「そっ、それは……今は稽古中じゃないからいいのっ!」


 僕の発言で更にみんなの顔にかかった影が濃くなる。まずい、僕の師範としての威厳が失われていく。喜介くんはじりじりと徐々に距離を詰めて来る。呼応するように背後の皆も、僕の方へにじり寄って来た。

 ここは稲穂さんに助けを求めようと顔を見ると、ふんと顔を背けられてしまった。この場に僕の味方はいないようだ。


 「皆稽古に励んでいると思えば、揃いも揃ってそんな怖い顔をして。まぁどうせ関介が稲穂殿にご執心なだけであろうが」


 呆れた様子でそう言うのは、突如道場に侵入してきた承芳さんだった。僕らの状況を見るや、おでこを押さえながら僕と喜介くんたちの間に入ってきた。


 「まぁ皆、ここは私に免じて関介を許してやってくれ。こやつにもたまの息抜きくらい必要であろう」


 承芳さんにそう言われては、喜介くんたちも認めざるを得ない。しぶしぶと言った様子で、僕の前から離れていく。去り際、喜介くんが僕の顔を見てにこりと笑った。いや、目は笑っていない。これから二人でいちゃいちゃするのは自分の部屋だけにしよう。大暴落する僕の好感度を気にしながら、そう決意した。

 ところで承芳さんには、稽古にならないから来ないで欲しいと念を押していた。それでも今日来たという事は、それだけの理由があるのだろう。まさか僕を助ける為に来たとか。なんて、流石の承芳さんといえどそれは超能力過ぎる。


 「私が来たという事は、何があったか分かるよな?」


 「また雪斎さんからの呼び出しですか?」


 いたって真剣な表情で頷く承芳さん。雪斎さんからの呼び出しで、良い話を聞けたことなんてほとんどない。お腹の奥の方がキリキリと痛む。本当は喜介くんたちと、ずっと楽しく稽古をしていたい。だけどこの稽古は、悲しいかな戦争のための稽古だ。喜介くんを見ると、丁度彼の視線とぶつかった。承芳さんの真剣な表情で察したのか、きゅっと唇を結び難しい顔をした。

 承芳さんは急いで来いと袖を引っ張ると、小走りで道場を後にした。ほったらかしの稲穂さんは、彼の後ろ姿を困惑したように見送った。


 「ごめんね稲穂さん。事情は後で話すから、今は喜介くんたちと一緒に居て欲しい」


 喜介くんは力強く頷いた。心配そうに眉を寄せる稲穂さんの頭を軽く撫でると、僕は承芳さんの背中を追って廊下を駆けた。


 雪斎さんの待つ部屋に駆け付けると、既に長机を囲む複数の人影が僕を待ち構えていた。二人はもちろんのこと、親綱さんに泰能さん、そして最近顔を合わすことが多い冷泉為和さんの姿も見えた。為和さんは、僕と目が合うと顔を綻ばせひらひらと手を振った。それに倣い僕もぺこりと頭を下げた。

 僕と三十くらい年の離れたあのおじさんは、見た目は何処にでもいる、人のよさそうな初老の男だが、実はかなり身分の高い家の出身らしいのだ。初めは本当に信じられなかった。それくらい、庶民派で優しいおじさんだったからだ。雪斎さんが忙しい日、為和さんが読み書きを教えてくれる。雪斎さんと違って、僕の覚えが遅くても根気良く教えてくれるし、間違えても穏やかに訂正してくれるのだ。また為和さんは和歌の達人でもあるらしく、承芳さんと一緒に和歌の手ほどきを受けた。どうやら僕は、承芳さんよりも筋がいいらしい。もしかしたら僕は、名を遺すほどの名人になってしまうかもしれない。


 「関介殿、稽古中に呼び出して申し訳ないですね。ああ、長教も来たのか。まぁお前も知っておいた方が良いだろう」


 背後を振り返ると、僕と同じように息を切らす長教くんがいた。別に呼んでも無いのに。そんな事を言うと、面倒な喧嘩になってしまうから言わない。その代わり親綱さんが、大きなため息をつきながらお前は呼んでないと、僕が言いたかったことを代弁してくれた。泣きそうな顔の長教くんは、コソコソと部屋の隅に隠れるように小さくなった。


 「関介殿も戦中で世話になったであろう北条共に関して、送り込んだ間者から有力な話が舞い込んできた」


 思い出したくもない記憶だから、掘り返さないで欲しい。北条さんかぁ、とんでもなく強い集団だった。黄色い旗を掲げ、僕らを恐怖の底に陥れた闘将北条綱成さん。そして、僕らの数手先まで見通す目を持つ北条氏康さん。三年ほど前僕らは、彼らの手によって、駿府の一部の地域を奪われてしまった。もしかして、今度は僕らの本拠地まで攻める作戦でも立てたのだろうか。

 狭い部屋の中で、重々しい緊張感は床を這うようにして広まっていった。誰かが生唾を飲み込む音が鮮明に聞こえるほど、僕らのいる空間は凍り付いていた。そんな中、ただ一人雪斎さんだけは、いつもみたいに片方の口角を不気味に上げ、得意そうに笑っていた。


 「皆の衆、そんな暗い顔をするな。これは悲観する話ではない。その逆だ、今川にとって千載一遇の好機となる事が起きているのだ。結論から話すと、北条氏綱が病に倒れたのだ。あの賢人がいなければ、我が今川にも勝ち目は十二分にもあるぞ」


 そう高らかに言う雪斎さんとは反対に、部屋には何とも微妙な空気が流れていた。雪斎さんは不思議そうに首を傾げている。やっぱりこの人の感性は、常人とはかけ離れている。例えどんなに自分たちを痛めつけた相手だろうと、病になった事を手放しで喜ぶ人がいるだろうか。普通はいない。つまり雪斎さんは普通じゃない。


 「おかしいな、もっとこう盛り上がると思ったのだが。まあよい、今頃小田原の地は浮足立っているだろうな。くくっ、いい気味だ」


 「では雪斎様は今後、奪われた駿府の一部を奪還する戦を仕掛けるのですね?」

 

 関口親永さんが尋ねる。彼は僕より一つ年下で、廊下でもたまにすれ違う時がある。気さくで話しやすく、承芳さんとも仲が良かった。親永さんの言葉に耳を傾ける仕草をした雪斎さんだったが、次の瞬間にはやれやれと首を左右に振った。


 「馬鹿者、北条など上杉か足利の相手にでもさせておけ」


 「ならば、我らの相手は?」


 「そんなもの尾張の織田信秀に決まっておるだろ。近年三河に圧力をかけてきおる、あの小賢しい男よ」


 憎たらし気に吐き捨てる雪斎さん。この人が感情をむき出しにするなんて珍しい。それくらい、織田家の脅威が近付いているのかもしれない。


 「今後大規模な戦があるやも分らん。速やかに稲穂を刈り取る手はずを整えてくれ」


 「稲穂さんを!?」


 一気にみんなの視線が集まる。まずい、つい稲穂という言葉に反応してしまった。みんなの冷めた目が突き刺さる。話しの腰を折られた雪斎さんは、明らかに怒気の含んだ咳ばらいで場の空気を戻した。


 「話を戻そう。今や北条家内は大きく揺れている。その隙に三河を、否! 尾張まで我らの手中に収めようぞ!」


 「いな!? あっ」


 また反応してしまった。雪斎さんがいなって言うから。


 「はぁ……誰か連れ出せ」


 雪斎さんが冷たく言い放つと、屈強な二人の男が脇から現れ、僕の両肩を掴んだ。そうしてほんの少しの抵抗も許さず、ずるずると引きずられてしまった。部屋から放り出される瞬間、承芳さんと目が合った。部屋の皆が呆れたり、苦笑いを浮かべたりするなか、彼だけはお腹を押さえてゲラゲラ笑い転げていた。

 でも本当に僕、どうかしちゃったんだろうか。


 同時刻、小田原城。


 静かな部屋の中には、布団に横たわる初老の男と、彼を見下ろす若い青年の二人の姿だけがあった。初老の男が咳き込むと、青年の握った指に更に力が入った。悲しみというより、悲壮感が漂う青年の表情を嘲笑うように、初老の男性は、不気味に口角を上げ言葉を発した。


 「病に伏せているというのに、儂を殺しに来る者はいないか。ふはっ、儂の人徳だな」


 「そうですね、お父上」


 青年の乾いた返事に気をよくしたのか、初老の男は咳混じりの笑い声を上げた。青年は水差しを慎重に傾け、半分ほどまで注いだ器を手渡した。男は一気にそれを飲み干すと、次の瞬間目を見開き上半身を起こした。枕元の短刀を握ると、誰もいないはずの壁へ放り投げた。小さな悲鳴と共に、ぐしゃっと亡骸が畳に倒れる音が響いた。畳の上に、人間の鮮血が広がった。


 「関東の大部分は、我ら北条の支配地となった。だが氏康よ、儂は敵を作りすぎた」


 「ですが、民衆はお父上を英雄と湛え、家臣もまた忠誠を誓っているのですよ。お父上は、敵以上に味方も大勢いらっしゃいます」


 「恐怖で付いてくる味方など直ぐに裏切る。もし小田原が火の海になった時、私に味方してくれる者がどれだけいると思う?」


 「それは……ですがお父上は」


 言い淀みながらも言葉を繋ごうとした氏康を制し、氏綱は口に手を当て咳き込みながら言った。


 「父の背中は実に大きかった。小国だった北条を、たった一代で強国へと築き上げた。また人徳のある人でもあった。儂もそんな父の背中を、ひたすらに追い続けたのだ」


 氏綱の視線の先には、色鮮やかな庭園が広がっていた。氏綱の命で、家臣が毎日手入れをしていた。一日でも欠かせば、どんな折檻が待っているか分からない。家臣たちは、恐怖に引きつった表情で手入れをしていたという。以前から氏康は、それを良しと思っていなかった。


 「氏康よ、お前はどの様な治政を目指す? 恐怖か、人徳か、それともそれら全てを凌駕するほどの圧倒的な何かか?」


 「……今の私には、まだ答えは出そうにありません」

 

 数分の沈黙の後、氏康は慎重に言葉を紡いだ。たどたどしく、拙い喋り方は、彼の自分に対する自信の無さの表れか。氏康は、氏綱の目を全く見ることが出来なかった。

 氏綱は突如噴き出すと、顔を手で覆い笑い始めた。

 

 「ふはっ、ふはははっ! 今のお前になど期待しておらん! あの鋭い銀色の目をしたお前に、儂はほれ込んだのだ。今の愚かなお前じゃない」


 氏康はこの発言に反論することはなかった。いや出来なかった。それは紛れもない事実だから。今の氏康は、北条家当主としての能力を持ち合わせない、ただの凡将だった。


 「儂はもう疲れた。そこの死体は片付けておけ。おおかた武田の刺客だろう」


 心臓に小刀が突き刺さったまま絶命する死体に顔を近づけた氏康は、ある事に気が付いた。死体の胸元に収められた短刀のつかに掘られた家紋。氏康には、その家紋が武田の物ではない事を知っていた。


 「お父上、この刺客、武田の者ではありません。今川の刺客にございます」


 一瞬驚いたように、ほうと呟くと、白い髭に手をやった。氏綱は笑っていた。


 「今川か、面白い」


 駿府の一部を失った今川に負けるなど、氏綱は微塵も思っていないだろう。だが氏康は違った。この時氏康は、得体のしれない恐怖に襲われた。足元がガラガラと崩れ、底の見えない穴に落ちていくかのような恐怖に。

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