第55話 乗馬レッスン

 1540年 11月

 

 織田信秀さんが三河に侵攻したという情報が伝えられたのは、秋の穏やかな風を感じる十一月のとある早朝だった。遂に恐れていた、織田と松平の戦争だ。今川家の緊張感も、北条家が攻めてきた時以来の高まりを見せていた。

 織田家は、現当主である松平広忠の父、清康が横死してから、松平家への圧力をより強めていた。じりじりと支配地を広げる織田家は、先月ついに三河の主要拠点の一つである安祥城へと攻め込んだ。北条氏綱さんが病気になったと、雪斎さんが嬉しそうに報告したあの日の数日後の事だった。

 今川家内でも、今すぐ援軍を送るべきという意見と、もう少し静観するべきだという意見でぶつかっていた。家臣の集まる広間では、例にもれず、怒号飛び交う作戦会議が開かれていた。もちろん僕は、その輪に入ることなく、部屋の隅っこで身体を小さくして眺めていた。隣には、僕と同じように輪からはみ出した、長教くんと関口親永さんが座っていた。僕らは顔を見合わせ、やってられないねと苦笑いを浮かべた。そういえば、承芳さんの姿が見えない。承芳さんもこの場の雰囲気に嫌気がさして逃げたか、若しくは同じように姿の見えない雪斎さんと一緒なのか。

 すると、締め切っていた広間の障子が突如として開き、承芳さんと雪斎さんが二人そろって中へ入って来た。噂をしていたら丁度いいタイミングだ。彼らの存在に気が付いた家臣たちは一旦口論を止め、部屋の中にようやく静寂が訪れた。二人が前に立つと、みんな一斉に膝をつき首を垂れた。一応僕もみんなに倣って頭を下げる。承芳さんにじゃない、雪斎さんにだ。


 「みな顔を上げてくれ。先ずは本題から、みな気になっているであろう織田家への対応だが。此度は一旦静観しようと思う」


 承芳さんがそう話した瞬間、ざわつきが波打つように部屋の中に広がった。賛成派の人たちはほっと胸を撫で下ろす一方、反対派は露骨に険悪な雰囲気を出している。まずい、またさっきみたいな大喧嘩になってしまう。


 「五月蠅い馬鹿ども。そう騒ぐな。静観と言えど、ただ指を咥えて見ているわけでは無い。確かに織田が三河の全域を掌握すれば、北条と挟まれ、我ら今川は窮地に陥る。ただ、ここで焦って真っ向から無傷の織田と戦えば、こちらの被害も甚大なものとなる。松平にではない、私は今川にのみ利となる策以外を取る積もりはない。みな私の言いたい事は分かるな?」


 やっぱり雪斎さんは恐ろしい。つまり彼の言いたい事は、松平に織田と戦争させ、その後傷ついた織田と戦う。要は漁夫の利を狙うつもりだろう。あくまで松平は、今川の同盟などではなく、今川と織田の間の緩衝材に過ぎないという訳だ。雪斎さんの事だ、あわよくば当主の広忠さんが死んでくれればと思っているに違いない。どこまでも狡猾で、腹黒い。それでいて、僕なんかじゃ到底及ばないほどの計算高さ。これが戦国時代の軍師なのか。

 さっきまで異を唱えていた人たちは、何も言えずに固唾をのんで雪斎さんを見つめていた。その顔には畏怖と尊敬が混ざったような、複雑な色が映っていた。雪斎さんの脳が処理する無限の知識の一部を目の当たりにし、僕らは圧倒されていた。

 黙りこくる僕らを満足そうに眺める雪斎さんは、ふんと鼻を鳴らし上機嫌に壇上から降りた。これにて、一旦話し合いは終了となった。満足のいく者、それでも不満げな表情の者、呆気にとられ呆然としている者。集まった家臣たちが次々と部屋を後にする中、僕は呆然と立ち尽くしていた。とうとう部屋の中には、僕と承芳さんだけとなった。


 「どうした関介、そんな呆けて。まぁ心配するな、関介が戦について気を揉む必要はない。どうせ和尚が陰で何とかしてくれるさ」


 当主がそんなのでいいのか。呆れ気味にため息をつくと、承芳さんはにかっと笑った。でもそれもそうだ。僕や承芳さんがいくら考えても、織田家や北条家を出し抜く作戦を考えるなんて不可能だ。そうだそれくらい気楽に考えよう。

 今日は稽古も無いし、午後から自由時間だ。実は何をするかは既に決めていた。それは承芳さんにも伝えてある。僕のずっと抱えていた悩みの種を解消するため、とあるレッスンを行うのだ。


 僕は承芳さんと親綱さん、何故かくっついてきた長教くんを引き連れ、何もないだだっ広い野原にやって来た。そして僕らの外に四匹、いや四頭。ずんぐりむっくりな体に、くりくりな目が非常に可愛らしい。だが戦になれば一転し、その強靭な足腰で戦場を駆け回り、背中に乗せたご主人様を目的地まで運ぶ。だけど僕は、一度もご主人になった事は無かった。僕の視界はいつだって誰かの背中だった。そう僕の悩みとは、未だに馬に乗れない事だった。


 「では関介殿、先ずは現状を知りたいので、一人で乗馬してみて下さい」


 一人か、正直怖い。数年前に一度振り落とされて以降、雪斎さんから一人で乗る事を禁止されていた。多分僕が怪我をしないようにとかではなく、貴重な馬に何かあっては困るからだろう。悲しいなあ。

 僕は慎重に馬の背中に乗ると、震える手で括った紐を取った。そこまで大きな馬ではないにしても、背中に乗るとなかなかの高さになる。正直怖いし、今すぐにでも飛び降りたかった。だけど、乗馬の練習を親綱さんに頼んだのは僕自身だった。いつまでも戦場で承芳さんの背中に乗る訳にもいかない。承芳さんの隣で、彼を守らなきゃいけないんだ。だから承芳さんの護衛部隊の隊長役にも就いた。僕は今のままではいけないんだ。

 そう強く意気込む僕は、思い切り馬のお尻を叩いた。だが変に力が入ったのがいけなかったのだろう、けたたましい咆哮を上げた馬は、僕の想像を超える力で地面を蹴った。


 「ひゃわっ! ちょちょっ、ちょっと待って、止まってよう!」


 僕の必死な静止の声も虚しく、馬の走るスピードは緩やかになるどころか、より速くなっていく。頭の中は真っ白だ。怖い以外の感情が浮かばない。安全の担保された遊園地にあるジェットコースターとは違う、僕を乗せた馬は、まさにレールの無いトロッコだ。それも手元にあるはずのレバーは、完全に折れてしまっている。


 「関介殿、手綱を引くのです! 顔を上げ馬と向き合わなければ、操る事は出来ませんよ!」


 「分かってるけどっ! きゃあっ!」


 視界いっぱいに広がる青空がやけに綺麗だった。自分が馬から投げ出された事に気が付いたのは、地面に背中が衝突した時だった。その衝撃は、次に全身への痛みに変わり、僕は声にならない悲鳴を上げた。息が吸えない。赤ちゃんみたいに身体を丸め、胸を押さえのたうち回る事しか出来なかった。痛みから無意識に涙が溢れだした。複数の足音が近づいてきて、ぼやけた視界の中に三人の顔が映った。あの長教くんでさえ、顔を歪めて心配そうに僕を見ている。親綱さんが何度も僕の名前を呼ぶが、僕に返事をする力は残っていなかった。

 やっぱり僕には無理だ。情けない気持ちと、恥ずかしい気持ちで、もう起き上がりたくもない。多分承芳さんは優しい言葉をかけてくれるし、親綱さんも気の利いたフォローをしてくれるだろう。もうそれでいい。これ以上迷惑をかけるくらいなら、ずっと誰かの背中でいい。

 そんな僕の思いは、何者かの拳によって叩き潰された。


 「早く起きろ馬鹿者、いや小心者」


 顔を上げると、呆れ顔で拳を握る承芳さんがいた。その腕を僕の頭の上に持っていく。思わずキュッと目を閉じたが、彼の拳はこつんと僕のおでこを叩くだけだった。おもむろに目を開けると、やっぱり呆れ顔の承芳さんだ。


 「馬へ乗れるようになりたいと、私を護りたいと言ったのは、関介じゃないか。馬など私でも乗れる。関介が乗りこなせないはずがないだろう」


 「でっ、でも……」


 見ていたでしょう、僕には無理ですよと続けようとしたが、承芳さんは僕の肩を持って強引に立ち上がらせると、またしてもおでこをこつんと叩いた。見ると唇を尖らせ、頬を膨らませ言った。


 「長教は十の時には一人で馬に乗れていた、なぁ長教」


 突然話を振られた長教くんは、面食らいながらも、頬を掻きながら照れくさそうに言った。


 「まぁ、父上に早く一人前と認めて貰いたかったから。って長教の話は別にいいでしょ! それより義元様、長教には関介が馬を乗りこなせるようには見えないのですが」


 「それでも乗るんだよ。おい関介、私がいつまでも甘やかすと思ったら大間違いだからな。お前は何が何でも馬に乗るんだ。そして戦場で私を護るんだ。いいな!」


 僕の顔の前に指を突き出すと、直ぐに身を翻し馬に飛び乗った。けたたましい鳴き声を上げる馬の背に跨る承芳さんは、悔しいけど一人前の武士に見えた。地面に這いつくばる僕は、目をそらしたくなるくらい惨めで恥ずかしかった。

 馬上で振り返った承芳さんは、ソワソワと両肩を揺らし、早く早くと僕を急かした。馬もその場で足踏みを繰り返している。ご主人様と共に駆けたくてうずうずしているのだろう。僕は立ちあがる。背中はまだ少し痛いけど、歩けない程じゃない。僕はもう一度馬に跨った。親綱さんが、心配そうに大丈夫ですかと尋ねてきたが、僕は無理やり笑って気丈に振舞った。まあ簡単に見破られたけど、親綱さんはそれ以上何も言わなかった。ただ温かな目で、そうですかと呟いた。

 大きく深呼吸をする。やっぱりまだ怖いけど、それ以上に切迫する何かが、僕の背中を突き動かした。僕が手綱を握った時、長教くんが駆け寄って来て、僕を見上げて悔しそうに言った。


 「義元様からの言葉、長教が代わってやりたい。だが、それを義元様は良しとしないだろう。なぜなら、義元様はお前の事を……関介、長教はお前が羨ましい」


 それだけ言うと、長教くんは手近な馬に飛び乗り、館の方角へ駆けていった。それに続けて親綱さんも馬に乗る。すれ違いざま、苦笑いしたままぺこりと一礼し、すぐさま長教くんの背中を追いかけていった。

 野原には、また僕と承芳さんだけになってしまった。承芳さんは何も言わず、馬をゆっくりと歩かせた。僕の乗った馬は、何も指示することなく、前の馬のお尻について行った。多分普段からそうやって躾けられているんだろう。前を行く承芳さんは相変わらず何も喋らなかった。


 「承芳さん、怒ってますか? 僕が諦めようとしたから」


 「別に、それはいつもの事だろう。関介は、直ぐに己には無理だと言うからな。読み書きは出来ん、夜中に一人で厠に行けないと」


 返す言葉もない。僕が黙りこくっていると、承芳さんは手綱を軽く引き、馬の歩行速度を緩め左に逸れた。直ぐに隣に追いついた。承芳さんは別に怒ってはいなかった。唇を尖らせ、ぶすっと拗ねた様子だ。


 「何が言いたいんですか、承芳さんは」


 「私はな、どうせ初めから関介が馬に乗れなくて、直ぐに弱音を吐くと思っていた」


 「なっ、別に弱音を吐いては」


 「いーや、馬から落ちた時泣いてたじゃないか。どうせその後泣きながら、もう無理ですとか言うつもりだったんだろ」


 図星だった。また何も言い返せなかった。ふふんどうだと、胸を張ってどや顔を浮かべる承芳さん。む、むかつく。さっきから言いたいだけ言って。


 「承芳さんだって、武士の癖に剣の腕はからっきしじゃないですか。いくら教えても上達しないし」


 「ふんっ、人には得手不得手があるんだよ。それに私は当主だから、前線で戦ったりしないから、剣の腕など不要なのだ」


 そんな暴論な。だったら僕だって乗馬は不得手だ。だから僕は馬に乗れる必要なんてない。あれ、でもそうすると、いざ戦場で僕はどうやって承芳さんを護るんだ。自分で馬にも乗れない僕が、戦場で彼を護れるのか? 頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。あれこれ考える僕を見て、承芳さんは急に噴き出したと思うと、大笑いを始めた。何がそんなに面白いんだ。


 「関介、着いて来い!」


 鞭の乾いた音の直後、馬の悲鳴が地平線にとどろいた。地面を蹴る蹄の音がもっと大きくなる。承芳さんの馬が物凄い速度で走り出したかと思うと、その背中を追うように、僕の乗る馬まで駆け出した。僕は何も指示を出してないのに。だけど不思議と、今回は怖くなかった。風をきるってこういう気分なのか。爽やかな風を切り裂くように、馬はどんどんと加速していく。やっと承芳さんの隣に追いついた。横を向くと、承芳さんも僕の方を向いて笑っていた。


 「乗れてるじゃないか関介。ふふっ、何だか武士らしくなったな」


 「うっさいです。承芳さんが無理やり……」


 「そんな事はもうどうでもいい。関介、風が気持ちいいなあ」


 今日の承芳さん、何だかテンションがおかしい気がする。いやそれはいつもかもしれないけど。でも承芳さんの言う通り、身体にぶつかる風が気持ちいい。僕はそうですね適当に返事をしておいた。


 「このまま何処までも行こう」


 「いやいや、それは困りますよ。そろそろ暗くなってきましたし」


 「嫌だ。まだ関介と走りたい気分なんだ。今日はとことん付き合ってもらうぞ」


 結局館に帰ったのは、辺りがすっかり暗くなった後だった。二人して雪斎の説教を受けた。承芳さんのせいだと弁明したが、問答無用と思い切り殴られた。

 それと、僕の馬への恐怖心はすっかり消えてしまった。まぁ何だかんだ承芳さんのおかげだ。でも彼はそんな事、一切思っていないだろう。ただ一緒に走りたかっただけなんだと思う。戦場で、そして天下へと駆ける道の上で。

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