第56話 武田からの手紙
1541年 5月
「あったかぁい、ねっ。あったかいね、かんすけ」
とある日の昼下がりに、縁側にて、龍坊を膝に乗せ日向ぼっこしていた。龍坊も四歳になって、すっかり大きくなった。まだまだ拙いが、読み書きも出来るようになり、両親の愛情を一身に受け、すくすくと成長していた。過保護気味な多恵さんの子育てのせいか、それとも大事な跡継ぎで大切に育てられたからだろうか、少し甘えん坊に育ってしまったけど、膝の上で僕の方を見上げる龍坊の笑顔が可愛いから、もうこのままでいいやと思う。頭を優しく撫でると、繊細な髪の感触が手のひらに広がり気持ちがいい。龍坊もくすぐったそうに体をよじらせ、きゃっきゃと笑った。
このまま平和な日が続けばいいなと、心の底から思う。今年に入って、織田家の尾張侵攻はより苛烈になってきた。松平の勢力がいつまで持ちこたえらるか分からない。来たる戦争の日は、静かだが確実に近づいていた。
「かんすけ、外いこっ」
そう言うと龍坊は僕の腕を払いのけ、元気に廊下の床を蹴った。靴を履きなさいと僕が注意しようとしたころには、既に足の裏は泥塗れだった。残念手遅れだ。また多恵さんに、龍坊と一緒に説教されるんだろうな。以前部屋中が泥だらけになった時、承芳さんも引くぐらい説教をされた。ついでに僕まで。大泣きする龍坊の横で、危く僕まで泣きそうになった。龍坊が縁側に上がる時は、入念に足の裏を拭かねば。
「関介、こんなとこにいたのか、探したんだぞ。ったく、龍坊と遊んでるなんて」
「別にいいじゃないですか、今日は稽古も休みだし。あっ、龍坊! そんな汚い物拾っちゃだめだよ、またお母さんに怒られるよ」
生きた蛙を握りしめた龍坊は、真っ青な顔で僕を見つめたまま固まってしまった。早くその蛙を逃がして上げなさいよ。何とか龍坊の手の中から逃げ切った蛙は、歓喜の音色をあげて池の中へと消えていった。
「用件から話すと、武田から私宛に一通の文が届いた。関介は興味ないか?」
「武田って、晴信くんからです?」
「いや、違う」
勿体ぶるような言い方に、若干腹が立ちながらも、晴信くんじゃない誰からの手紙なのかは気になった。もしかして晴信くんの手紙の中でたまに登場する、彼より優秀な信繁さんかな。会ったことは無いため、晴信くんをもっと凛々しくしたような顔を勝手に想像してみた。うん、なかなかの男前だ。
一番最近の手紙に書かれた内容では、どうやらお父さんである信虎さんの、信繁さんへの偏愛が以前よりも強くなっているらしい。もしかしたら殺されるかもとも。流石にそれは……いや、戦国時代ならあり得ない話じゃないのが怖い。
それにしても、信虎さんの話は最近よく聞く。多恵さんの耳にも届くようで、憎悪の籠った愚痴を聞かされるのだ。なんでも、近隣国との戦争が長期化しているようなのだが、信虎さんは戦争を止めるどころか、更に兵力を増やしているらしい。もちろんそれによって困るのは庶民たちだ。いまや甲斐国内は、疲弊と憎しみで溢れかえっていた。
「晴信くんじゃなきゃ、一体誰からの文なんです?」
「あの腹黒男だ」
それはびっくりだ。内容は分からないけど、絶対にろくでもない手紙だという事はわかる。信虎さんの薄気味悪い笑みが容易に想像できた。
「内容は何ですか?」
「まだ読んでいない。和尚と関介と一緒の方がいいと思ってな。和尚には話してある、早く私の部屋へ来い」
そう言い残し、パタパタと足早に去っていった。早く僕も背中を追おう。庭先で遊んでいた龍坊を呼ぼうと視線を向けると、既にそこには龍坊の姿は無かった。まずい、見失ったか。
「かんすけ、こっちこっち!」
振り返ると、思わず目を塞ぎたくなるような光景が広がっていた。その場で無邪気に足踏みを繰り返す龍坊の足は、外で遊んだばかりで、どろどろに汚れていた。その汚れがあちこちに飛散し、床や障子を汚していた。全部綺麗に片付けようとしたら、床を水拭きし、障子を張り替える必要がある。今からやっても、数時間かかる。どうしようか。
「お前たち、そこで何をしている?」
吹雪のような声が背後から聞こえ、背中が急激に冷えていく感覚を覚える。背中に鋭利な刃物を突き付けられているような、鋭い痛みを感じる。振り返りたくないけど、そのまま立ち去ろうものなら、躊躇いなく背中へ、その鋭利な刃物を突き刺すだろう。そんな静かな殺気を感じていた。
おもむろに振り返ると、本当に刃物を右手に握る多恵さんがいた。しかも。一人殺してきたのか、刃物の先端に深紅の血液が付着していた。あっ、これは殺されるな。
「台所から外の声が聞こえて、嫌な予感はした。一度は見逃してあげたけど、二度目となるともう容赦はしない。覚悟はいい?」
ヒュンッと、障子に血飛沫が広がった。思わず身震いを起こす。見逃すって多恵さん、あの折檻で見逃したつもりなのか。だとしたら、二度目の今回は本当に刺されるかも。
すると僕の背後で隠れていた龍坊が、この恐ろしい空間に耐えられなくなったのか、脱兎のごとく逃げ出そうとした。
「龍王丸、何処へ行く!」
彼女の鋭い一言に、龍坊の足がぴたりと止まった。一瞬時が止まったかと思うと、龍坊は肩を震わせ、その場にしゃがみ込み、顔を両手で覆い泣き始めた。龍坊の甲高い鳴き声が廊下中にこだました。
「貴方は泣かないの? まぁ今回は、どんなに泣いても許さないんだけどね」
狭い独房のような部屋に押し込められ、彼女の折檻は一時間くらい続いた。あまり覚えてないけど、龍坊の鳴き声だけは耳に張り付いたまま離れなかった。
「おお、やっと戻ったか。どうだ、多恵の折檻は」
「別に、大したことなかったですよ」
「目、真っ赤だぞ」
もうそっとしておいてください。あの恐怖を思い出したくない。
「承芳はいい嫁を貰ったのう。情けない当主を支えるには、まこと頼りになる強い女だ」
へらへらと笑う雪斎さんは無視し、目の前の手紙に視線を向ける。直ぐに分かったのは、かなり高価な紙が使用されているという事だ。わざわざそんな勿体ない事をするなんて、流石何を考えているか分からない男、信虎さんだ。
「そんな事より和尚、早く文の中身を見よう」
手紙を広げると、当然にょろにょろ文字で書かれているのだが、最近読み書きを勉強しているお陰で、少しだけ読めた。意味的には、今度駿府に行くからそこで会えないかと。何処で会うのかは読めなかったけど、大体そんな意味の文章が、簡潔に二行で書かれていた。うわぁ、絶対罠だろこれ。承芳さんも同じ考えだったようで、怪訝そうな表情で手紙を見つめていた。
一方雪斎さんは、なるほどと小さく呟くと、ニヤリと意味ありげに笑った。
「晴信殿も成長したのう。遂に親を飲み込むか」
意味深な事を呟く雪斎さん。この信虎さんからの手紙、晴信くんとは何の関係があるのだろうか。それに、親を飲み込むとは一体。気になったのは承芳さんも同じようで、何度も質問をぶつけたが、全部上手にはぐらかされてしまった。いつだって雪斎さんは、僕らの知らないところで何かを企んでいるんだ。
「雪斎さん、どうせ裏でコソコソ暗躍してるんでしょ? 僕は知ってるんですよ、こういう時は大抵、後から僕らも巻き込まれるんです。だったら先に教えてくれた方が、僕らも心の準備が出来るじゃないですか。そうでしょう、雪斎さん!」
「関介の言う通りだ! 和尚、私たちに隠してる事全て吐け! これは当主権限だ!」
二人同時に雪斎さんの袈裟にしがみつき、ジッと彼の目を見つめた。僕らの勢いに、いつも余裕そうに構える雪斎さんも、気圧され数歩後ずさりした。すると、袈裟の胸元から、ぽろっともう一枚の手紙が落ちた。その瞬間、雪斎さんの表情に明らかな焦りの色が映った。拾おうとする雪斎さんの腕を咄嗟に掴み、その隙に承芳さんが手紙を拾い上げた。
「これが和尚の隠したがっていたものだな?」
「ちっ、小癪なガキどもめ。もうよい、全て教える。どちらにせよ頃合いを見て伝える心算だったが、まあそれが早くなるだけか」
諦めたようにため息をついた雪斎さんは、僕らのせいで乱れた襟を整え、一度大きく咳ばらいをした。落ち着きを取り戻した雪斎さんは、すぐさま承芳さんから手紙を奪い取ると、勢いよく机の上に広げた。
それは晴信くんからの手紙だった。でも何故晴信くんが、雪斎さん充てに。そんな疑問も、手紙の内容を読み進めるうちに、何処かへ飛んで行ってしまった。それほどまでに、手紙の内容が衝撃的だった。承芳さんも、口に手を押さえ、あり得ないと言った様子で呆然としていた。ただ雪斎さんだけが、満足そうに頷いていた。
「雪斎さん、本当に晴信くんから送られてきた文なんですよね?」
雪斎さんは何も言わず頷いた。全身に悪寒が走り、思わず身震いを起こした。確かに、以前僕の下へと送られた手紙の文字と同じだ。本当にこれを晴信くんが。気弱で今にも泣きだしてしまいそうな彼の顔からは想像もつかない、そんな内容だった。
「晴信殿も、大きな決断を下しましたね。子が親を喰らう、それもまた戦国の性なのでしょうね」
信じたくなかった。晴信くんから届いた手紙には、はっきりと書いてあった。暗殺という二文字が。
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