第57話 武田からの来訪者
「和尚説明しろ。何故晴信殿からの文に、信虎暗殺の意が記されているのだ」
「それは晴信殿とあった時、直接聞けばよいだろう。私とて、人の心の奥底までは分らぬ。一つ確かな事は、信虎より晴信殿の方が都合がよいという事だ」
意味が分からないと言った様子で、ポカンとする僕らを置いて、言いたい事はそれだけと、満足そうに部屋を後にしようとした。この人はいっつも言葉足らず過ぎる。雪斎さんの腕を掴むと、今度は彼の方がポカンとした表情で僕の顔を見た。だから、そんな顔したいのは僕らの方なんだって。
雪斎さんの言う都合とは何だ。言葉のニュアンス的に良い意味ではなさそうだけど。
「和尚、ここに来て隠し事はもう無しだ。早くその黒い腹の下のものを全て出せ」
「ほほう、言うようになったじゃないか。ただ、私から言える事はもう何も無いのだがなぁ。こればかりは、本人の口から直接聞いた方が早いだろう」
「本人から?」
承芳さんが訝し気に尋ねると、平然とした顔でそうだと呟いた。晴信くんから直接聞けと。でも彼はたった今、甲斐の国にいるわけだし。というか、聞いた話だと、信虎さんは隣の国と戦争中らしい。ならば当然晴信くんも、いまごろ戦場にて指揮をとっているころだろう。
「雪斎さん、晴信くんから何か聞いているんでしょ。隠さず全部教えて下さいよ」
「だから先ほどから言っているでしょう。私は、晴信殿から暗殺の援助を頼まれただけですよ」
少しだけイラっと来た。僕はそうゆう事を聞いたんじゃない。雪斎さんお話を聞いて、理解できていないことが何個もあった。先ずは何故晴信くんが、お父さんである信虎さんを暗殺をしようとしているのか。雪斎さんははぐらかし続けているが、きっと彼ならそれくらい見ぬいているだろう。
二つ目は、雪斎さんの都合の良いという発言だ。もし仮に信虎さんが暗殺されれば、武田を継ぐのは、もちろん息子の晴信くんだろう。それのどうして都合がよくなるのか、僕には理解が追い付かなかった。
三つめは、何故晴信くんは、暗殺の手伝いを雪斎さんに頼んだのかという事だ。当主暗殺に今川がかかわったとなれば、武田と今川の間にある同盟関係にも大きな影響を及ぼしかねない。さいあく、かつての戦争状態に戻ってしまうかもしれないというのに。
「聞きたい事はたくさんあります。どうせこれ以上聞こうとしても、雪斎さんは全部受け流すでしょう。だから一つだけ、僕からの質問に答えて下さい」
「はぁ、仕方ないですねえ。可愛い関介殿の頼みですから、一つぐらいなら答えてあげますかね」
馬鹿にしやがってこの腹黒男。でも今文句を言って、やっぱり無しとなっては元も子もない。屈辱的な子ども扱いを何とか耐え抜き、心に決めた一つの質問をぶつけた。
「晴信くんは、今元気ですか? それだけ答えて下さい」
僕の問いかけに、雪斎さんは面を喰らったように目を見開いた。雪斎さんの予想を裏切れたようで、何だかこそばゆい。
僕の気の抜けた質問に、真剣になるのが馬鹿らしくなったのか、雪斎さんは顔を隠して大笑いし始めた。隣の承芳さんも、何を言い出すんだと、笑いながら肩を小突いた。
「ほほっ、誠に関介殿らしいですね。そうですな、関介殿の想像する最悪の事態にはなっていません、と言えば伝わりますかね。ただ最近は、弟の信繁への寵愛が目に余るとの事ですので、暗殺へと踏み切ったのは、そういった事情もあったのやもしれませんね」
取り合えず、ほっと胸をなでおろした。晴信くんの身に危機が差し迫って、という緊迫した状況で無ければ安心だ。信虎さんならきっと、たとえ長子でも、裏切るようなら躊躇いなく殺してしまうだろうから。
やっぱり暗殺と聞くと怖いし、あのオドオドした晴信くんと結びつけるのは、何だか不思議な気持ちになる。だけど、最後に決断したのが晴信くんで、そうしなければならない理由があるなら、僕は晴信くんを応援したい。戦国の価値観に置いて、暗殺が正当化されるかどうかは置いといて、僕は晴信くんの味方でありたい。
タイムスリップしたばかりの僕なら、暗殺なんておかしいと憤慨し、どうにか止めるよう説得していたかもしれない。だけどこの数年間で、僕は何度も命の危機に陥って来て、僕の中の価値観もかなり戦国に染まってきた。残念だけど、暴力でしか解決できない場面は必ず存在する。必要悪だと割り切るしか、この戦国では生きていけない。
「それで和尚、信虎暗殺の日時、決行する場所は決まっているのか?」
「ああ、日時は来月の中旬。場所は甲州往還の国境付近だ。ふっふっふっ、それにしても楽しみだ。あの腹黒男の死に際、ああ今からでも目に浮かぶわ」
恍惚の表情を浮かべる雪斎さん。貴方は腹黒どころか、全身真っ黒ですよ。承芳さんも呆れた様子でため息をついた。引き気味の僕らをよそに、下卑た笑い声を上げ続ける。
「雪斎さん、手紙のやり取りだけで、本当にうまくいくんですか? 不意打ちとはいえ、相手は何を考えているか分からない信虎さんですよね? もしかしたら、計画を察知して、護衛を連れて僕らを迎え撃つ気かもしれませんよ」
「大丈夫です、計画を察知していたとあれば、既に晴信殿は殺されていますよ。まあその事については、もう暫くすれば……」
その時、締め切られた障子の奥で、何者かが盛大に転がる音が聞こえた。何だ敵襲かと呟く承芳さんに、こんな騒々しい敵襲がいてたまるかと、すかさずツッコミを入れる。どうせ長教くんか、わんぱくに育ちすぎてしまった龍坊だろう。
見てこいと承芳さんに背中を押され、渋々障子を開く。
「外で騒いでるのは誰です……って、ええっ!?」
「あっ、関介殿。ご無沙汰しておりました」
なんとそこには、廊下で尻もちをつき、僕の顔を見上げ笑っている晴信くんがいた。へらっと呑気な笑顔を向ける晴信くんを前に、色々な思いが浮かびすぎて、直ぐに言葉が出てこなかった。聞きたい事は沢山あるけど、それより先に身体が動いていた。
「晴信くんっ、久しぶり! 晴信くんが元気でよかった!」
「ちょっ、関介殿!? うぅ、苦しいですって」
いつの間にか僕は、倒れている晴信くんに覆いかぶさるように抱き着いていた。久しぶりに会えたのが嬉しすぎてつい身体が動いてしまった。成人男性に馬乗りになる成人男性という、青年誌でも攻めた構図になっている事に気が付き、反射的に晴信くんの身体から離れた。お互い真っ赤に染めた顔を見合わせ、気まずそうに笑い合った。遅れて顔を出した承芳さんは、赤面した僕らを見て、不思議そうに首を傾げた。
「晴信殿、思いのほか到着が早かったですね」
「わわっ、雪斎殿。此度は晴信の我儘に付き合って頂き、誠に有難うございます」
雪斎さんの姿を見るや、姿勢を正し、深々と頭を下げる晴信くん。僕の時とは大違いの反応だ。雪斎さんも、優し気な視線を向け静かに頷いていた。久しぶりに会い、その成長ぶりに驚く親戚のおじさんのようだ。
「晴信殿、どうして駿府に? 武田は今隣国との戦をしていると聞いたが」
「ああそれは、父上にお前は留守でもしておけと言われたからです。晴信には兵の指揮の才が無いので、代わりに弟の信繁が戦場に向かいました」
そう言い頭の後ろを掻いて、あっけらかんと笑った。何だか開き直っているようにも見える。普通次期当主になる事が決まっていて、父親からここまで蔑ろにされたら、落ち込むどころではないはずなのに。承芳さんも、複雑そうな表情で頷いた。晴信くんの現状と、かつて五男として仏門に入った自分を重ねたのだろう。
少し間が空いて冷静になると、思い出したように、晴信くんへの疑問が幾つも思い浮かんだ。そうだ聞きたい事は山ほどあるんだった。
「そうだ晴信くん、君に聞きたい事が沢山あるんだ、いいかな?」
「はい関介殿っ、晴信が答えられる事なら、何でもいいですよぉ」
「暗殺計画を立案したのは、本当に晴信くん? それとも、他の誰かが君に提案したのかな?」
ニコニコと僕の質問を待っていた晴信くんの表情から徐々に笑顔が消え、戸惑いの色へと変わった。瞳が左右にグラグラと泳ぎ、僕と目を合わせようとしなかった。
「関介殿とこのような話をしたくはありませんでした。本当は雪斎殿にのみ、助力を得ようと思っていたのです。ですが、それも虫のいい話でしたね」
さっきまでの緩い雰囲気ががらりと変わった。悲しそうに顔を伏せ、床に向かって話す晴信くんは、直ぐに壊れてしまいそうな、かつての中学生時代の自分のように映った。
「父上の暗殺を始めに考えたのは晴信です」
吐き捨てるように呟いた言葉は、信じられないくらい乾ききっていた。まるで晴信くんの言葉じゃないみたいだ。
「晴信殿、詳しい話は中でしましょう。此処は明るすぎます」
頷き立ち上がる晴信くん。前まで僕と同じくらいの身長だったのに、会わないうちにすっかり追い抜かれてしまった。僕の目の前を通り過ぎる時、晴信くんは控えめに微笑んだ。身長差のせいなのか、随分大人びて見えた。僕よりか弱い存在だと思っていた晴信くんは、もっと先を歩いていたんだ。それはそうだ。戦国時代の次期当主であり、父親を暗殺しようとしている人だから。
「ちょっと待って!」
この声は。振り返ると、必死の形相の多恵さんが、こちらを鼻息荒く睨みつけていた。乱れた着物の衿も気にせず、床を蹴って詰め寄って来た。
「たろ坊、教えて。暗殺ってどういう意味なの」
「不味い人に聞かれてしまいましたね。晴信殿、先に中へ。承芳は多恵を上手く取り払っておけ」
詰め寄る多恵さんを無視し、雪斎さんは晴信くんの背中を押して、さっさと部屋の中へ消えていった。承芳さんは、多恵さんの両肩を手で押さえ、部屋の中へ入れないように必死だった。それだけ、多恵さんの勢いはすさまじかった。
「私に話せない事ってなに!? ねえ、教えてよ。たろ坊!」
「多恵、後で必ず話すから。今は落ち着いてくれ。頼む」
「たろ坊は、暗殺なんて卑怯な真似はしない。そんな事言うはずがない。誰かに操られてるに決まってるの」
「多恵……」
ふっと力が抜けたかと思うと、多恵さんは膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「たろ坊は……いい子なんだから……」
虚ろな声で呟くと、指の間から透明な雫がぽたぽたと落ちた。あまり感情を露わにしない多恵さんは、僕と承芳さんの見守る前で、声にならない嗚咽を漏らした。
承芳さんは優しく頭を撫でる。それでも、多恵さんの嗚咽が止むことは無かった。いつの間にか、空には分厚い雲がかかっていた。多分甲斐の国の空にも。
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