第58話 武田の覚悟

 「多恵は上手く追い出せたか? はぁ、男勝りな性といい、あの負けん気といい、まさに武田武者だな。どんな美しい娘だとしても、親の血は争えんという訳か」


 呆れたようにため息とともに愚痴を吐き出した雪斎さんは、直ぐに正面へ向き直った。雪斎さんが見やる先には、唇を噛み黙り込む晴信くんが座っていた。

 

 「はい、多恵さんは自室へ戻りました。その時、雪斎さんへと伝言を頼まれました」


 「ほう、何でしょうか」


 「どうなっても知らない、と」


 多恵さんは別れ際、その一言だけを残すと、踵を返してゆらゆらと自室へと帰って言った。感情を失ったような表情と、冷たく鋭利な言葉。彼女の後ろ姿には、何か心を凍り付かせるような、得体のしれない不安感が纏わりついていた。その背中に、僕と承芳さんは一言も言葉をかけることが出来なかった。

 伝言を聞いた雪斎さんは、不気味にほくそ笑むと、女は怖いですねえとカラカラ笑った。


 「和尚、さっさと話しを進めてくれ」


 「話をするのは私ではない。晴信殿、さあ続きを」


 促された晴信くんは、真っ青な顔で小さく頷いた。緊張からか一言喋ろうと口を開きかけては閉じ、開きかけては閉じ、唇をパクパクと震わせていた。そうすると、結局俯いたまま喋らなくなってしまった。

 しびれを切らした雪斎さんが、急に机を強く叩き、唐突な重低音が密室に響き渡った。部屋の中の緊張感が一気に高まった。僕の心臓はバクバクと高鳴り、背中から汗が噴き出し始めた。だがそれ以上に過剰に反応を示した晴信くんは、獲物に見つかった草食動物のように、肩をびくつかせ、慌てて顔を上げた。泣き出してしまいそうな、いや既に瞼に涙を溜め、震える晴信くんの顔が見えた。


 「晴信は、晴信は……」


 ごにょごにょと口籠る晴信くんに、厳しい視線を向け続ける雪斎さん。間に入って助けたいけど、それをさせない雪斎さんの背中があった。


 「はっきりと申しなさい。父親を殺すその時まで、貴方はそう思い悩むのですか」


 「……やはり、晴信に暗殺など」


 「姉君に失望されるのが、言いつけを破る事がそれほど怖いですか?」


 はっとした顔で、雪斎さんの目を見る晴信くん。


 「もし晴信殿が清廉潔白を望むのならそうしなさい。さすれば信虎は、貴方より優秀な弟君を跡取りに選ぶでしょう。そして、争いの火種に成りうる貴方を、必ずや抹殺するでしょう。私たちがそうしたように」


 承芳は苦い表情をつくる。かつて僕らは、承芳さんのお兄さんと、骨肉の争いをしている。今でもあの血生臭さを鮮明に思い出せる。兄弟同士の殺し合いほど、悲惨な出来事は無い。

 それでも俯く晴信くんに、雪斎さんは深いため息を溢した。刑事ドラマの取り調べみたいだ。威圧的な雪斎刑事と、その剣幕に押される晴信容疑者だ。


 「本当は、晴信が父上を暗殺しようと言い出した訳じゃないんです。最初は追い出すだけだと。でも、家臣の皆がそれでは民衆の怒りが収まらないと。それなら暗殺しかないという流れに」


 「誰が言い出したとか関係ありません。初めに決断を下し、それから自ら指揮を取る。そうして起こった事象の全ての責任を取る。それが主なのです。晴信殿、その覚悟があるのですか?」


 覚悟か。何年か前、承芳さんと出会ったばかりのある日。氏輝さんが亡くなる直前に、承芳さんは今川家の当主となる事を決めた。そして僕は、この人について行くんだと心に決めた。承芳さんと晴信くん。互いに似た境遇で、覚悟を決めるタイミングも同じだった。

 晴信くんは逡巡していた。頭を抱え、苦しそうに呻き嘆いていた。やっぱり、暗殺を決めたのは晴信くんじゃなかった。あの気の弱い晴信くんだ。家臣の人たちに後押しされ、引くに引けなくなっているのだろう。


 「雪斎さん、何もそこまで詰めなくても。晴信くんにだって、色々と思う事があるでしょう」


 「関介の言う通りだぞ和尚。多恵の取り乱す声を聞いた晴信殿の気持ちも、少しは汲み取ってやってくれ」


 僕らは互いに机に身を乗り出し、二人の間に入るようにして、雪斎さんへ詰め寄った。その瞬間、雪斎さんは思い切り机を両手で叩いた。僕と承芳さんの動きが同時に止まる。


 「お前らは何もわかっていない!」


 雪斎さんの怒号に、部屋の中がビリビリと震えた。こんな大きな声初めて聞いた。いつも冷静沈着で、感情を腹の中に隠しているような雪斎さんが、全部を曝け出すような迫真の表情で僕らを睨みつけた。彼のどす黒い双眸が僕らを捉え、今にも飲み込んでしまいそうだ。


 「分かってないって。和尚、教えてくれ。武田と今川の間で蠢く姿の見えない陰謀は、全て和尚の企てなんだろう?」


 「黙れ、これ以上私を苛立たせるな」


 承芳さんは、それ以上何も言えなかった。ガタンと机を揺らした雪斎さんは、大きな息を吐きだした。眉間に寄せた皺はいつもより深く刻まれていた。

 こんな空気になって喋り出そうとする人が、僕ら三人の間にいるはずもなく、永遠と感じる数秒の間、重たい沈黙が部屋の中を支配した。その空気を断ち切るように、すっと立ち上がった雪斎さんの表情は、いつもの穏やかな様子に戻っていた。


 「声を荒げて申し訳ない。私は席を外す。後は若いもの同士、積もる話もあるでしょう」


 それではと、軽く頭を下げ部屋を後にしようとする雪斎さんの背中を追いかけるように、晴信くんが腰を浮かせて声を上げた。


 「お待ちくだされ、雪斎殿!」


 「心配なさるな晴信殿。既に全ての手筈は整っております故、後は私の指示をお待ちください。詳細は決行日近くにはお伝えします」


 晴信くんの動きを手で制すと、それだけ言って部屋を去っていった。ポカンとした様子の晴信くんは、力なくその場にへたり込んだ。火山の噴火のように怒ったかと思うと、急に冷静に戻ってしまった。雪斎さんの新たなる一面を覗いてしまった気がする。

 呆然と残された僕らは、どうしようもなく気まずい空気の中、互いに顔を見合わせた。積もる話とか言われても、こんな状況でどう楽しくお喋りしろと。


 「あー、酒でも持ってこようか?」


 「あっ、えっ……なら、お言葉に甘えて」


 晴信くんが遠慮がちに答えると、すぐさま立ち上がりぱたぱたと廊下を駆けていった。

 遂に晴信くんと二人だけになってしまった。第一声は何が正解なのか、頭を捻って逡巡していると、不意に晴信くんから声を掛けられた。僕から話しかけようとばかり考えていたから、「ひゃいっ!」と変な声が出てしまった。晴信くんは一瞬驚いた様子を見せたが、直ぐに硬くなっていた表情がほぐれ、にへらっと今日あったばかりの笑顔を見せた。


 「関介殿もお酒を飲まれるのですか?」


 「あっ、うん。飲めるには飲めるんだけど、一度それで失敗したことがあって。それ以来、承芳さんからは加減するよう釘を刺されちゃってね」


 「どんな失敗したんです? 晴信気になります」


 ぐいっと顔を近づける晴信くん。目をキラキラと輝かせて、興味津々と言った様子だ。人のお酒の失敗がそんな気になるのか。何故か引くに引けない雰囲気になってしまい、観念した僕は、以前犯してしまったお酒の失敗談を話すことにした。

 ちょっと前に承芳さんたちと宴会を開き、ついそこでお酒を飲み過ぎてしまった。詳しい記憶は残っていないのだが、どうやら僕はそこで粗相をしてしまったらしい。二十歳を超えて粗相するなんてと、承芳さんに呆れられてしまった。

 とそんな失敗談を赤裸々に話すと、誰にでも失敗はありますよと、晴信くんは顔を引きつらせて笑った。自分から聞いておいて、引くのは酷いんじゃないかな。

 僕がにじり寄ると、あははと誤魔化そうとする晴信くん。僕は恥ずかしい話をしたんだから、晴信くんも失敗エピソードを話してくれないとフェアじゃないよね。顔の近くまで詰め寄ると、バランスを崩した晴信くんは、情けない悲鳴を上げ後ろへ倒れた。袴を乱し、あられもない姿を見せる晴信くんの上に馬乗りになると、彼のわき腹を思い切り擽った。


 「やぁ、やめて関介殿、あははっ!」


 「僕の恥ずかしい話を聞いたんだから、晴信くんも何か言うべきだよね? 何もないってどういう事?」


 笑い声を上げながら足をばたつかせて抵抗するが、僕は攻撃の手を一切緩めない。彼が恥ずかしいエピソードを吐くまで続けるんだ。 


 「おーい、酒を持ってきたぞ……って、お前たちは何をしているんだ」


 後ろで承芳さん呆れた声が聞こえたが、僕は手を止めることなく、こちょこちょ攻撃を続ける。必死に逃れようとする晴信くんの泣きそうな顔を見ていると、何か淫らな気持ちが湧いてくる。すっごい、これは沼りそうだ。

 だが僕がこの沼の底に落ちる手前で、承芳さんが引き剥がしてくれた。危ない、新たな性癖に目覚める所だった。

 冷静さを取り戻し、はっとして晴信くんを見やると、肩で息をし、袴をぐちゃぐちゃにはだけさせ、涙を溜めた目で僕を見つめていた。力が入らないのか、仰向けのまま、蕩けた表情で言う。


 「ぐすっ、関介殿、酷いです。けだものです」


 「関介、お前やはり男色に興味が」


 「ちちっ、違いますからね! 誤解を招くような事言わないで下さい!」


 何故か晴信くんはいまだ立ち上がる事をせず、顔を真っ赤に染め、恍惚の表情で僕を見上げている。もじもじと指を弄りながら、どこか僕を誘惑するような仕草に見えた。背中にゾワりと悪寒が走った。もしかして僕、晴信くんの新たな性癖を目覚めさせてしまったか。


 「お前らに酒を飲ましたら、男同士何をするか分らん。今日は止めだ」


 「だから誤解なんだって! って、晴信くんも早く何か言ってよ!」


 その後やっぱりお酒を飲もうと、この三人で初めての宴会を開いた。晴信くんは僕と違いかなりの酒飲みだった。僕がお猪口をちびちびと一杯飲んでいる間に、一升瓶が空になってしまった。しかもそれでケロッとした様子で、またお酒を注ごうとしており、流石に二人で全力で止めた。ざるどころか、底の無い筒だ。

 三人いい感じに酔いが回って来て、口が大分軽くなってきた。愚痴を言い合い、しょうもない下ネタで笑い合った。それでもやっぱり、暗殺の話題は一度も上がらなかった。示し合わせたわけでは無く、三人のだれもがその話題を無意識に避けていた。三人で飲むお酒はいつもより美味しかったし、とても楽しい宴会だった。

 決行日まで晴信くんは今川館で過ごすらしい。この情報は、信虎さんには伝わっていないはずだ。晴信くんの今川館での生活が幾日か経ったが、未だ多恵さんとは会えていないらしい。まぁ、事態が事態なだけに、今はむしろ合わない方がいいかもしれない。落ち着いた後、しっかりと話して、晴信くんが武田家当主として甲斐へ戻るときに会ってもらおう。

 激しい戦闘が落ち着き、信虎さんが駿府へ赴くという情報が伝えられたのは、六月に入ってからだった。駿府は不気味なほど平和だった。

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