第59話 武田の行く末
1541年 6月
今日は六月というのに、空にかかった分厚い雲のせいか、身体に当たる風はいつもより肌寒く感じた。だけどそれは、気候のせいだけじゃない。緊張から背中に汗が滲み、ぶるっと肩を震わした。生唾を飲み込み、隣で一緒に立つ承芳さんの袖を思わずぎゅっと握った。承芳さんはちらりと僕の方を見て、耳元で小さく「大丈夫だ」と囁いた。心の中に温かいものがじんわりと広がり、身体の震えは煙みたいに消え去った。
今日信虎さん暗殺計画が実行される。どんなに理由を飾り付けようと、どんなに正当性を主張しようと、人が人を殺す事実だけは変わらない。僕は晴信くんが信虎さんを暗殺する事を、英断だとは決して思わない。ただ、彼が覚悟を決めたのなら、その力になりたい。それだけだ。
「そろそろ来るぞ。みな所定の場所についてくれ」
僕と承芳さんは、雪斎さんの隣に立って信虎さんを待つ。国境付近の宿場に設置された馬屋が、信虎さんとの待ち合わせ場所だった。馬屋の軒下は、昼にも関わらず日が入らずかなり薄暗かった。信虎さんの視野を奪うのに丁度いい場所だ。親綱さんと親永さんは、近くの草むらに隠れ、いざという時に備えている。
そして、今日の主役の晴信くんは僕らが待機する馬屋のすぐ後ろに隠れている。懐には二本の日本刀が。一本はもちろん信虎さんを斬るため。そしてもう一本は、彼の首を刎ねるためだ。生気を失った生首が宙に舞う光景を想像し、うっと吐き気が込み上げてきた。想像しただけでこんな調子で、生で見て卒倒しなければいいけど。
「雪斎どのぉ、関介殿だけでも晴信の傍に」
「五月蠅い。のこのこ顔を出すでない、関介殿も向かおうとしない。はぁ、黙って各々決められた場所で待っておれ」
ぴしゃりとそう言われてしまい、晴信くんはしゅんと顔を引っ込めた。僕も釘を刺されてしまった。へーいと気の抜けた返事を返すと、雪斎さんはもう一度大きくため息をついた。すると承芳さんが肘で僕をつつき、ジトっとした視線を向けた。
「何ですか。承芳さんまで説教ですか。ふんっ、言われなくても分かってますよ」
「そうではない。私らが手を貸したとなると、武田の中に少数だが残っている反今川の連中から恨まれかねんだろ。私らはあくまで傍観者。武田の家中争いに偶然目撃しただけにすぎんのだ」
「そんな建前、直ぐにばれちゃいますよ」
「その建前が重要なのだ。例えどれだけ嫌疑をかけられても、建前があれば戦の理由は立たない。道理の無い戦を仕掛けるほど、阿呆な者は武田にはいないだろう」
そう説明してくれた雪斎さんに、「分かってますよ」と、小声で返した。本当に分かってるのかと言いたげな表情の承芳さんも、直ぐに正面を向いて真剣な面持ちをつくる。
馬の蹄が土を踏みしめる音が、遠くの方から幾つも聞こえた。武田家当主、信虎さんのお出ましだ。
「いやぁ、こちら側見る富士の山も悪くはないのう。そういえば、こちらでは表富士と言ったか?」
僕の全身を舐めるように見ながら、信虎さんはしゃがれた声で言った。随分昔の話を掘り返すじゃないか。獰猛な捕食者のような視線が僕の体中に突き刺さる。以前で会った時の僕なら、鋭い視線に耐え切れず、慌てふためいて変な言葉を口走っていた事だろう。
「やはり表からの景色が別格です。折角このような辺鄙な地まで赴いてくださったのですから、表からの美しい景色でも旅の土産にしていってくださいね」
僕がそう笑顔で返すと、ほうとつまらなさそうにあごひげを弄り、直ぐに視線を雪斎さんに移した。ただ僅かだが、信虎さんの表情が不愉快そうに歪んだのを見逃さなかった。良く言ったと承芳さんと肩をぶつけ合った。
「雪斎よ、久しぶりだな。隣の生意気な当主様も、中々立派に育っているではないか。これなら私が死んだ後も武田と今川は安泰ですな。なあ信繁よ」
「はい、父上」
信繫さん。晴信くんの弟で、彼より何もかも優れていると噂の人物だ。父親に呼ばれた信繁さんは、威勢の良い返事をし、器用に馬を誘導して前に出てきた。やっぱり晴信くんとよく似ている。ただ眉毛がやや吊り上がって、目つきも力強く感じる。へらっと笑う晴信くんと比べて、より凛々しく猛々しい武士の風格を感じる。
「父上が隠居した後は、私が武田家当主となり、より強い国にしてみますよ!」
ドックンと心臓が高鳴り、目を見開いて信繫さんの顔をまじまじと見る。承芳さんも呆然としていた。まさか信繁さん、既に信虎さんの手の中なのか。
「それと雪斎よ、私が気が付いていないとでも思っていたのか? 晴信、どうせ後ろに隠れているのだろう、さっさと出てこい」
「父上……全部、分かっているのですね」
やっぱり信虎さんを出し抜くことは出来なかったんだ。馬屋の裏からゆっくりと姿を見せた晴信くんは、両肩を抱き、恐怖からガタガタと全身を震わせていた。信虎さんは、僕らの全ての計画を掴んでいた。そしてそれが意味するのは。こんな僕でも、震える晴信くんと、悔しそうに唇を噛む雪斎さんの姿を見れば直ぐに理解できた。
「信虎貴様、何処でその情報を」
「ふはっ、雪斎のその悔しそうな顔に免じて、特別に教えてやろう」
馬から降りた信虎さんは、信繁さんにも馬を降りるよう促し、軽快に飛び降りた彼の頭を撫でながら言った。
「信繁は利口だった。私に反対する勢力が、暗殺を企てている事にいち早く気が付き、それを私に知らせた。分かるか晴信。信繁は愚鈍なお前ではなく、この私を選択したのだ」
信虎さんの高笑いが、甲斐と駿府の国境に響いた。そんな馬鹿な。雪斎さんの計画が失敗するなんて。だけど、雪斎さんの焦っている顔を見て、それが現実だと知る。
信繁さんが信虎さんの味方という事は、二人とその背後にいる多くの家臣たちは、今僕らの敵という事になる。信繁さんが刀を抜くと、それが合図だったのか背後に構える武士たちも、一斉に刀を抜き始めた。
「申し訳ございません雪斎殿」
親綱さんの声だった。親綱さんと親永さんは、既に武田の家臣たちに囲まれていた。そこまで読まれていたのか。じりじりと僕らとの距離が詰められていく。もう後ろには退けない。こんな所で終わってしまうのか。
「おいお前たち、晴信だけは殺すなよ。生かし連れ帰り、反逆の徒として皆の前で磔にする。さすれば、この私に盾突こうなどと考える阿呆もいなくなるだろうからなあ」
「義元は私が殺しますので、父上はおさがり下され」
僕らの目の前に突き付けられた日本刀の切っ先がキラリと光った。洗練されたその日本刀なら、少し振るうだけで、僕の首など簡単に吹き飛ぶだろう。刀を握る信繁さんの狂気に塗り固められた表情が、戦国時代の非情さを物語っている。承芳さんが殺されたら今川はお終いだ。駿府は復讐と怨嗟の炎に焼かれ、みんなみんな不幸になってしまう。そんなの嫌だ。
ふと稲穂さんの顔が浮かんだ。彼女は今も、戦争を知らない平和な畑で、大好きな家族と農仕事に汗を流しているだろう。その次に、焼けた家の前で泣き崩れる稲穂さんの顔が浮かんだ。
ほぼ無意識のうちに体が動き、刀と承芳さんの間に割って入った。膝がガクガクと震え、言う事を聞いてくれないのに不思議な話だ。背後で僕の名前を呼ぶ声が聞こえたけど、それを無視して、僕は信繁さんの瞳を精一杯の威勢で睨みつけた。刀も持たない僕の、今できるだけの虚勢だった。
「貴方が関介殿ですね? 話は兄上から聞いてます。剣の腕は日の本一。情に深く、思慮深い。だが貴方は選択を誤った。勿体ない。愚鈍な兄についたばかりに、志半ばで命を落とす事となるとは」
「信繁さん、それが貴方の本音なんですか? 本当に晴信くんの事を愚鈍なんて思っているんですか? それが晴信くんが自慢し、愛した貴方なんですか?」
僕の問いに答える事は無かった。ゆっくりと歩み寄る信繁さん。ガシャっと刃とつばのぶつかる音が、鈍く心臓を抉るように響いた。つかを両手でがっちりと掴むと、頭の上まで振り上げた。雲間から差す薄い光に反射した刀身は、殺される直前というのに、不思議と美しいと感じた。
「やめろ信繁! 関介殿は関係ない。殺すなら、晴信を殺せぇ!」
それは、さっきまで後ろで小さくなっていた晴信くんの叫び声だった。目を見開き、信繁さんの目の前で両手を広げ、聞いた事も無い彼の絶叫だった。
「兄上……」
「信繁が父上に与するなら、晴信は止めない。甲斐の国がより良い方へ進むのならば、晴信の命くらい差し出すよ。それに、信繁に殺されるなら本望だ」
そう言いにへらっと笑った。こんな時でも、晴信くんは変わらなかった。
信繁さんは、振り上げていた刀を力なく下ろし地面へ突き刺した。唇を噛み、泣き出しそうな苦々しい顔で俯いていた。凛々しく大人びて見えた信繁さんのその表情だけは、晴信くんの顔とそっくりだった。
「何をしている信繁。晴信など気にせず、さっさと義元らを殺せ」
「ここまでにしましょう、父上」
「何ぃ?」
信繁さんの言葉に、信虎さんのさっきまでの余裕そうな表情は消えていた。あごひげを弄る手を止め、訝し気に信繁さんを睨む。僕と承芳さん、それに威勢よく信繁さんの目の前に飛び出してきた晴信くんまでも、ポカンと呆けた顔で信繁さんを見た。
その時、地を這うような不気味な笑い声が聞こえた。こんな意地汚く、腹黒い声を上げる人なんて一人しか知らず、僕らは同時に雪斎さんへ視線を移した。彼は手で顔を覆い、見世物小屋の前を通った金持ちのように笑っていた。
「くっくっくっ。貴様はまだ分らんか。信繁は私の命で貴様の味方の振りをさせた。元から貴様の周りに、味方などおらん。そうとも知らず貴様は」
信虎さんがびっくりする気持ちが痛いほどわかる。何故なら、僕も今知ったから。
「雪斎さん! どうして僕らに教えてくれなかったんですか!?」
「そうだ和尚! そのような大事な話、何故私たちに黙っていたのだ!」
「当たり前だ阿呆共。直ぐに口を滑らす承芳。腑抜けで泣き虫な晴信殿。そして、何処まで脇の甘い関介殿。お前たちに教えて、百の害あって一の利もないだろう」
さも当たり前のように吐き捨てる雪斎さんに、僕らはぐうの音も出なかった。反論の無い僕らの様子を眺め、満足そうに鼻を鳴らした雪斎さんは、直ぐに信虎さんの方へ顔を向けた。今にもスキップでもしてしまいそうな横顔に、雪斎さんの底意地の悪さが詰まっていた。
何だかいたたまれない空気の僕らに、信繁さんは気まずそうに声を掛けてくれた。
「これも父上を欺くため、どうかご容赦下され」
あっはい、もう今更なんでいいですよ。
「兄上、刀を向けた事、口汚く罵った事申し訳ございません。私は信じております。兄上こそが、武田を良き方へ導いてくれる当主になると」
「のぶしげぇ……晴信を信じてくれるのだな?」
信繁さんが力強く頷くと、晴信くんは勢いよく走りだし抱き着いた。胸に顔を埋める晴信くんの頭を、優し気な眼差しで撫でる信繁さん。どっちがお兄さんか分からないけど、それも晴信くんらしい。
「雪斎、貴様ぁ! 儂を嵌めたのか!」
「味方すら信頼しない、貴様らしい最期ではないか」
お前が言うな! ほぼ口元まで出かけた言葉を、すんでの所で堪えることが出来た。承芳さんも、首に青筋を立てて堪えている。
信虎さんの背後に整列していた家臣たちは、いつの間にか彼を取り囲うようにして刀を向けていた。これで形勢逆転だ。怒りに打ち震えながらも、現実を目の当たりにし覚悟を決めたのか、日本刀を地面につき刺し、曇天の空を見上げた。
「そうか、ようやくか……」
そう言った気がする。頭の良い信虎さんの事だ。もしかしたら、部下に裏切られることも想定していたのかもしれない。それがただの部下ではなく、実の息子というのは、信虎さんと言えど同情してしまいそうだ。
「晴信殿、貴方の手で父上を殺すのです。さあ前へ」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
雪斎さんに促され、上ずった声で前に出る晴信くん。カチャカチャと緊張に震える音が僕まで聞こえてきた。あんなへっぴり腰で、本当に信虎さんを斬れるのだろうか。
遂に信虎さんと晴信くんが対面した。この頃には、信虎さんの表情に怒りの感情は見えなかった。
「父上、申し訳ありません。ですが、これも武田の為です」
「晴信、お前はどのような治政を目指す? 儂と同じ恐怖か、人徳か、それともそれら全てを凌駕するほどの圧倒的な何かか?」
「私には、恐怖で人を従わせることも、徳で導くことも出来ませぬ。できる事と言えば、人を信じることくらいです」
「そうか。そうだな、晴信らしいな。ならば今後、何があっても人を信じ、人を大事にしろ。さすれば、甲斐の国も良き方へ向かうだろう」
今まで見てきた信虎さんの顔は、残虐で人を人とも思わない、非情な面ばかりだった。だけど、晴信くんに最期の言葉を伝える信虎さんの顔は、紛れもない父親の顔だった。幾つもの顔を演じられる信虎さんだが、僕にはあの表情が作り物には見えなかった。春の木漏れ日のような、温かさがそこにはあった。
晴信くんの頬に、大粒の涙がつたった。信虎さんを取り囲う家臣の中にも、涙を流す人が多くいた。戦国時代に本物の悪人はいないのかもしれない。信虎さんは、悪人を演じていただけなのかもしれない。甲斐の国を護るために。
「父上、お覚悟!」
晴信くんが刀を振り上げた瞬間、僕の視界の端に黒い影が映り込んだ。そしてその直後、信虎さんのしゃがれた悲鳴が響いた。
「どうして……お姉……」
信虎さんの足元には、真っ赤な血だまりが出来ていた。そして、般若のような形相で信虎さんの腹部に短刀を突き刺す、返り血に染まる多恵さんの姿があった。一瞬の出来事に反応できなかった。雪斎さんすら、呆然と多恵さんの背中を見つめていた。
「こんな事たろ坊にさせない! たろ坊は人を殺すような子じゃない! 全部お前のせいだ! お前がたろ坊をそそのかしたんだ!」
短刀を抜いては刺し、また抜いて力いっぱいに腹部へ突き刺した。その度に地面の血だまりは広がり、鮮血が噴き出し、白い着物を着た多恵さんを赤く染めた。それでも手を緩めず、涙を流しながら多恵さんは刺し続けた。
「やめて下されお姉! お姉!」
「離してたろ坊! 私がこいつを殺すの! 甲斐の国を壊した、こいつを!」
「お姉、既に父上は……」
はっとした顔をする多恵さんの視線の先には、既に生気は無く、こと切れた信虎さんの亡骸が転がっていた。短刀が地面に落ちる甲高い音と共に、多恵さんの言葉にならない叫び声が響き渡った。
背けたくなる現実がそこにはあった。見ないようにしていたけど、信虎さんの亡骸にどうしても目が行ってしまう。何度も刺された腹部からは、夥しい鮮血と、よく見ると臓器っぽいのが。その瞬間、こみ上げてきた胃液が口の中を一瞬で満たし、膝を折ってその場で吐き出した。吐き気が止まらない。グロテスクな亡骸を見たせいだけじゃない、この胸糞悪い展開全てが僕のお腹に重たくのしかかる。承芳さんがすぐに駆け付け、背中をさすってくれた。だんだんと涙で視界がぼやけてきた。
「ふん、最期の望みすら叶わんとは、信虎も哀れな男だな」
「最期の、望みですか?」
「ああそうだ。信虎の望みは、息子である晴信殿に己を殺めさせることだ。父をも越え、武田を導く者になって欲しかったのだ。とんだ邪魔が入り、信虎もさぞ無念だろうな」
「そんな……父上が」
「それと多恵。何故お前が今川に嫁いだか分かるか?」
「そんなの、私を手駒としか思ってないからに決まってるじゃない」
「違う。信虎は、お前を戦の絶えない甲斐に置いておきたくなったがために、戦の少ない今川に嫁がせたのだ。あ奴は父親として、多恵の身を常に案じておった」
「そんなの嘘よ! あいつは何も私にしてくれなかった!」
「信じなくともよい。既に骸となった今、もう二度とあ奴の口から真実が語られることは無いのだからな」
背中で聞こえる雪斎さんの声は何処までも冷淡で冷酷だった。血の匂いが充満した甲斐と駿府の国境に、多恵さんの慟哭がこだまし続けた。
弓取りよ天下へ駆けろ 富士原烏 @kakarasu
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