第42話 回想④ 今を生きる
両親の葬式を終えた次の日、僕は一人部屋で丸くなっていた。涙が枯れ果てるまで泣いても、僕の心には分厚い雨雲がかかったままだった。窓の外から聞こえる無邪気な子供の声が、今の自分にとってあまりにも眩しく、カーテンごと閉め切った。テレビから流れる機械音も煩かった。いつの間にか部屋の中には、沈黙と暗闇だけが残っていた。
そんな閉じこもった空間を破ったのは師範だった。あまりに強引で無遠慮な手で僕の腕を掴むと、抵抗する間もなく部屋から叩き出した。そうして腕を引き僕を連れ出した先は、やっぱりいつもの道場だった。
道場へ着くや、相変わらずの仏頂面で、僕を冷たい床の上へ向かい合うように座らせた。暫く押し黙っていた師範は、手元に転がる竹刀をおもむろに掴むと、僕の目の前へ置いた。竹刀を持てと目が言っている。だけど、当時の僕は人生の全てに絶望していた。手元の竹刀を握りしめると、振り返って思い切り放り投げた。久しぶりの竹刀は、無機質で冷たくて、すごく重たかった。
「歯を食いしばれ」
向きを戻すと、怒りに血塗られた師範の顔が目の前にあった。師範の放った言葉が聞こえると同時に、右頬に重たい衝撃と鈍い痛みが響いた。口の中に鉄の味が広がる。泣きすぎて枯れたと思っていた涙が、どうしてか今になって溢れてきた。血だまりと嗚咽を吐き出し、血走った視線を師範に向ける。僕の反抗的な態度が癪に障ったのか、今度は左頬へ拳を振るった。骨が潰れる音が静かな道場に響く。燃えるような痛みに、赤く染まった床を睨む事しか出来なかった。だけど磨かれた床に映っていたのは、涙と鼻水に塗れた情けない僕だった。
「なんだ関介。そんな生意気な面をしてるくせに立ち上がれないのか? 親が死んだくらいでめそめそと、情けない」
「んなっ! くらいって何だよ、くらいって! きゃっ!」
血を飛ばして叫ぶ僕に、師範はもう一度拳を振るった。叫ぶ力も残ってなくて、息を大きく吐き出した。
「立てい、関介! 口答えする暇があるなら竹刀を握れ! お前のすべきことは地べたで泣くことではなく、ただひたすらに修練を重ねるだけだ!」
ミシミシと音を立て、師範が目前まで近づいてくる。左手には竹刀が握られていた。襟を掴み無理やり立たたすと、竹刀を体に押し付けた。何か心の底に引っかかる暗い靄が、竹刀を持つことを強く拒否していた。僕は声にならない泣き声を上げ、首をブンブンと横に振った。
それでも師範は、泣きじゃくる僕の肩を掴み声を掛け続けた。
「いいか関介。親を失った悲しみを乗り越えるには、それを跳ね返すだけの強さを持つしかないのだ。強くなれ、関介。今のお前は弱く脆い。自分の足で立つ事すらできない子供なのだ」
「僕は強くなんてなれないよ……弱いままだよ」
ぽたぽたと涙が落ち床を濡らした。足の裏の感覚がいつの間にか消え、どうやって立っているのかも分からなかった。本当に情けない事に、師範に掴まれていなかったら、その場に崩れ落ちていただろう。悔しいし腹が立つけど、師範の言う通り、僕は一人で立っていられない子供だった。
「泣くな関介、もう二度と。儂の見てる場所では」
稽古は次の日から始まった。僕はその日から、一日たりとも涙を見せる事はなかった。そう師範の前では。自室に戻った瞬間、糸が切れたように声を上げ涙を流した。そんな日々が、一日また一日と過ぎていった。
2021年 10月 関介(16歳)高校一年生
あの事故からもう四年が経った。
僕も高校生になった。だけどやっている事は変わっていない。師範の指導のもと、稽古に明け暮れる日々だ。そういえば、中学生で出場した公式戦では結局一敗もする事はなかった。中学三連覇なんて前代未聞。多くの剣道強豪校から声がかかった。だが僕はそれら全てを断った。強い高校で剣道をする。もちろん魅力的だし、全く行きたくないと言えば嘘になる。
この頃師範の体調が優れない。以前より頻繁に病院へ通うようになったし、見るからに年を取ったと感じる。足取りも危なっかしい時が多くある。遠くの学校へ通うとなると、家を離れることになる。その選択肢だけは無かった。
結局高校に上がってからも、僕は年老いた師範と二人で稽古をすることになった。高校生だし、今までより勉強だってしなければならない。剣道ばかりに時間を使う訳にはいかなかった。だから必然的に、稽古も軽くなっていく。当然そう思っていた。
だけど現実はそう甘くなかった。稽古は軽くなるばかりか、より苛烈になっていた。
「おい関介! 足が止まっているではないかっ! おい関介、聞いているのか!」
師範の怒号だけが響き渡る道場には、肌を引き裂くような緊張感が漂っていた。この日はいつもの筋力トレーニングの後、ひたすら打ち込みの日だ。既に一時間は竹刀を振り続け、もう何度振ったかも覚えていない。何だか目の前がぼやけて、ぐらっと視界が大きく震えた。師範の怒鳴り声は、どこか遠くに感じていた。
急に胃の中が暴れ、焼けるように熱い液体が喉を駆け上がってくる感覚を覚えた。竹刀を放り投げ口に手を当てた瞬間、肩が一度大きく跳ね上がった。それと同時に口の中に酸っぱい液体が満たし、手のひらに一気に吐き出した。指の隙間から流れ出た黄色いドロッとした液体がびちゃびちゃと床に落ち、僕はその場に膝を折って崩れ落ちた。ひたすらに込み上げる吐き気に抗う事も出来ず、吐瀉物の水溜りに吐き続ける事しか出来なかった。
「ふんっ、十五分休憩だ。それは片付けておけ」
そう言い残し、師範は道場を後にした。その間も僕は吐き続け、とうとう出る物もなくなり、軽く口元を拭った。鼻水と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔をタオルで拭くと、何故か涙が込み上げてきた。師範がいなくなった事を確認すると、タオルに顔を埋め声を殺して泣いた。
師範との稽古において、吐くことなんて日常茶飯事だった。休みなしで打ち込みを五時間続けたときは、生まれて初めて気絶を経験した。ただまあ直ぐに師範の冷たい水で叩き起こされたけど。
今思えば、異常ともいえるこの稽古から物理的にならば、逃げ出す事くらい正直できた。だけど当時の僕にとって、その選択肢は頭の中になかった。というか、師範がそうさせなかった。洗脳とも違うが、心身を極限状態まで追い込んだ毎日の中で、逃げ出そうとする力すら湧かなかったのだ。
吐瀉物で汚してしまった床を綺麗にしなければ。与えられた時間は十五分。これ以上泣いてる暇はない。掃除用具入れからバケツと雑巾を持ってくる。あらかたの吐瀉物は新聞紙で片づけ、残った汚れを雑巾で拭き取った。
十五分経ち、ようやく胃の調子も戻って来た。何度か竹刀を振るい、手のひらの感覚を取り戻す。吐くまで稽古をさせられても、治れば直ぐに竹刀を持ってしまう。もう既に剣道は僕にとって生活の一部となってしまっていた。
師範が帰ってくるのが遅い。外に出てもう三十分は経つ。あの厳格な師範だ、十五分と言えばきっちりその時間に戻ってくるはずなのに。何だか嫌な胸騒ぎを覚えた。いつの間にか心臓が激しく運動し、呼吸が浅くなっていた。
気が付いたときには道場を駈けていた。外履きを履くのも忘れ、裸足のまま外へ飛び出した。降りた際、地面に敷かれた砂利が足の裏に突き刺さる。痛いけど、胸打つ心臓の痛みの方が気持ち悪かった。
「おじいちゃん……おじいちゃんっ!」
道場の前にある池。昔よく師範と遊んだ思い出がある。思えば、稽古に明け暮れる日々を送る中で、近づくのは久しぶりだった。池の手前、見知った背中が横たわっていた。師範の背中、思い出の池。こんなにも小さかったんだ。
師範は脳卒中と診断された。直ぐに救急車を呼んだことで一命こそ取り留めたが、予断を許さない状況だとお医者さんは言った。だけど不思議と悲しい気持ちは湧いてこなかった。あの背中を見て、もう先が長くないんだなって気づいてしまったから。僕が子供だと言った本当の理由が分かった気がする。自分の背丈も分からなかったんだから。やっぱり僕は、一生師範に勝てる気がしなかった。
それから師範の身体は、嘘のように弱っていった。竹刀を振るっていた腕は小枝のように痩せ細り、あれだけ厳しかった性格もかなり丸くなった。おじいちゃんの好きなお菓子を持っていくと、弱弱しく微笑んだ。おじいちゃんに死が近付いているのは明らかだった。現実を見たくなくて、僕はその場で足踏みをする毎日だった。
師範がいない今、どうしてか道場に足を運ぶ気にはなれなかった。毎日高校へ通い授業を受け、終わったら家へ帰る。殆どの学生にとってそれが普通の日常だけど、僕にとっては新鮮な毎日だった。だけどその日常はモノクロで、無機質に感じた。
ある日の学校帰り、僕は珍しく竹刀を持参して面会した。こうすればおじいちゃんも少しは元気を取り戻してくれると思ったから。病室のドアが開き、病室特有の匂いが廊下に流れた。おじいちゃんは僕の姿を捉えると、柔らかな微笑みを浮かべた。ふとおじいちゃんが僕の腰辺りを見ると、小さくあっと驚きの表情を浮かべた。
「それ、竹刀を持ってきたのか」
「うんっ。おじいちゃん、竹刀を見れば少し元気になるかと思って」
おじいちゃんは、そうかと呟くと、窓の外に視線を移した。気に入らなかったのだろうか、暫くずっと窓の外を見つめていた。ふと目をこちらに向けずボソッと言った。
「関介、お前最近稽古してないだろう」
図星で咄嗟に返事が出来なかった。慌てた様子で弁明しようとする僕を見て、ふっと笑った。
「別に怒ったりはしない。関介、もう少しこちらへ来なさい。大きな声を出すのは疲れる」
そう言われベッドの淵に膝をつき、ふかふかの毛布に体を寄せた。懐かしいおじいちゃんの匂いと病院の匂いが混ざってる。少し病院の匂いが強くなってる気がして、鼻の先がつんと痛んだ。
おじいちゃんの伸ばした手のひらが頬に触れた。ざらざらして硬かった。
「関介は、自分のご先祖様について考えたことはあるかい?」
「ううん、考えた事もないや」
僕は首を横に振って言うと、満足そうに頷いた。そして、枕元の小さなポーチからある物を取り出した。それはボロボロの巾着だった。元の色も分からないくらい布が傷んでおり、いたる所縫い合わせた後が残っていた。
「関介、手のひらを出してごらん」
「これは……金?」
巾着の口から飛び出し、手のひらにコロンと転がった小さな金塊は、外の光を反射しきらりと光った。ボロボロの巾着から出てきたとは思えないほど綺麗で、時間を感じさせない新しさがあった。
驚くことに、金塊の側面には精密に掘られた文字があった。”関” 僕の名前の一文字目と一緒だ。そしておじいちゃん、お父さんの名前にも入っている字で、何か妙な親近感が湧いた。
思わず歓声を上げる僕に、おじいちゃんは目尻にいっぱいの皺を作って笑った。
「我が家に代々伝わるお守りなんだ。関という字が彫られているだろう。我が家はこの関の字を受け継いできた。ご先祖様は、駿府を治める領主によく仕え、その母親に当たる人物からこのお守りを頂いたという。その領主が誰か分かるかい? 関介も聞いた事のある名前だよ」
「むぅ、分かんないよおじいちゃん。僕歴史が苦手なんだもん」
「ははっ、そうか。儂のせいで稽古ばかりであったからな。本当にすまなかったと思っている」
おじいちゃんは寂しそうに顔を伏せると、消え入るような声で呟いた。そうだ、おじいちゃんのせいで僕はろくに友達も出来なかったし、遊ぶことも出来なかった。アニメやドラマで見るような学校生活は少なくとも送れなかった。
だけど、それでもおじいちゃんから謝罪の言葉なんて聞きたくなかった。今までの辛い稽古の時間が、無駄な時間じゃなかったと確信しているから。
「おじいちゃんの稽古、いっぱい泣いたし、吐いちゃったけど、僕はやってよかったと思ってる」
「そうか……そう言ってもらえるとは嬉しいなぁ。関介は可愛いから、本当は優しくしてやりたかった。関介のお母さんとお父さんが亡くなった時、隣で慰めてやりたかった。いつまでも儂が守ってやりたかった。だが儂の命ももう長くはない。この世の中は残酷で、一人で生きていくには強くなくてはいけないんだ。だからこの命が尽きるまでに、何としても強くなって欲しかった。たとえ、関介に嫌われようともだ。だが関介は、そんな儂を憎むどころか、稽古をして良かった言ってくれた」
「当たり前だよおじいちゃん。お母さんとお父さんが死んだとき、もし優しい言葉をかけられてたら、僕は今も部屋で泣いてたと思う。おじいちゃんが、僕をあの部屋から救い出してくれたんだよ」
おじいちゃんの痩せてしまった頬を涙が伝い、白い布団に染みをつくった。こんなおじいちゃんの姿初めて見た。胸がギュッと締め付けられ、何だか僕まで泣きそうになる。
おじいちゃんは細い腕を伸ばし、僕の髪をそっと撫でた。おじいちゃんの手のひらはカサカサで冷たくて、僕の身体を覆ってしまうほど大きかった。くすぐったいよとはにかむ僕を、目を細めて見つめていた。
「それよりさっおじいちゃん、さっきの先祖のお話してよ。僕気になるよ」
「その話の続きはまた明日にしよう、今日はなんだか喋りつかれた。それよりその竹刀を渡してくれないか。たまには触っておかなければ、腕も鈍ってしまうからね」
「う~ん、わかったよ。それじゃあ明日また来るね」
ここで面会の時間が来てしまった。もっと喋りたかったけどまた明日会える。そしたら、今日話してくれた先祖の話をうんとしてもらおう。僕の家系のルーツを、おじいちゃんお父さんの受け継いできてくれたことを。
次の日おじいちゃんは死んだ。別れは唐突に来るのだとあの日知ったはずなのに。僕はまたサヨナラも伝えられないまま家族を失ってしまった。そして僕は一人になってしまった。
だけど僕はもう泣かない。おじいちゃんが鍛えてくれたから。おじいちゃんの葬式の次の日、僕は静まり返った道場に一人立っていた。少し埃っぽくなってしまった床を綺麗に掃除する。反射した床には、僕の顔が映っていた。押し寄せる感情を押さえつけ無理に笑ったような不格好な顔だった。
1537年 3月
「ん……んんっ……」
「おっ、ようやく起きたか。良く寝てたなぁ、関介」
目を開けると、毎日見る顔が直ぐ近くにあった。にかっと笑う口の隙間から、白い歯が見える。承芳さん、どうして僕の上に。というかどうして僕は承芳さんの膝の上に? 状況を飲み込めていない僕を、呆れたようにため息を吐きながら言う。
「なんだその間抜けな顔は。ったく、あれだけ飲み過ぎるなと言ったのに。ふらふらしながら部屋を出たと思ったら、廊下で寝てるなんて。そんな哀れなお前を私が介抱してやってたんだぞ」
そうだっけ? あんまり記憶にないや。まぁそれも飲み過ぎてしまったからだろう。確かに僕と承芳さんは数時間前、僕の部屋でお酒を酌み交わした。酔った間にそんな事をしていたんだ僕は。
眠っている間、何だか懐かしい夢を見た。僕がまだ現代で生きていた頃の夢だ。
「ってどうした関介、泣いてるのか?」
「へっ?」
頬を冷たい雫が流れた。どうして……僕は泣いてるんだろう。いやだこんな顔承芳さんに見せたくないのに。
だけど僕の意に反して、堰を切ったように涙が溢れだし止まらない。胸の鼓動が痛くて、震える唇を噛んだ。身体が熱くなる感覚を覚え、僕は思わず両手で顔を隠した。
承芳さんの手が僕の髪に触れた。柔らかくて温かくて、隣に寄り添ってくれる優しい手のひらだった。
「怖い夢でも見たのか? もし関介がどうしてもと言うなら、その……もう少しこうしててもいいんだからな」
恥ずかしそうに視線を外す承芳さんが妙に愛くるしかった。僕はもう一人じゃなかった。
現代から遠い過去の戦国時代で僕は生きている。過去の僕から見たら、今の僕は未来の僕なのだろうか、それとも過去の僕なのだろうか。分からない。だけどこれだけは言える。僕は今を生きている。
目を瞑ると、お母さんと見た景色を、お父さんと走った感覚を、おじいちゃんと稽古した経験を思い出す。
僕はもう一人じゃないよ。僕は強くないし、泣いてばかりだけど、ちゃんと生きてるよ。みんなの過去で、未来で、今で生きてるよ。
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