第41話 回想③
京都観光を終え、僕ら家族はお父さんの運転する車で帰路についていた。お母さんが助手席で、僕はお父さんの後ろの席に座っていた。よく覚えている。トンネルに入った時、右手の窓に映った泣きそうな自分の顔を。帰ったらまた稽古が始まる。家族との時間が楽しかっただけに、帰りたくて仕方がなかった。憂鬱な気分に沈みつつ、流れる景色をぼうっと眺めていた。
そんな僕の雰囲気を察してか、あの時お母さんお父さんも、いつもより口数が少なかった気がする。車内には、僕を中心にして重苦しい空気が流れていた。
「せきちゃん。明日の稽古はお休みにするよう、お父さんに相談する?」
顔を前に向けたまま、母親はミラー越しに関介へ言った。泣きそうな少年を優しく慰めるような、落ち着いた声が静かな車内に響く。気を利かせた父親が、ラジオの音量を下げた。当時流行っていた曲で、関介もよく聞いていた。ただ気分の乗らない今、その音楽は無機質なメトロノームの音と同じだった。高速道路は丁度京都を出る所だった。
母親は関介の言葉を待つように、それ以上何も話さなかった。重たい空気がより一層関介の心を暗くする。オレンジ色の日差しが窓の中に差し込み、関介の横顔に暗い影を作った。関介は窓の外を眺めたまま、吐き捨てるように呟く。
「いいよ、僕は大丈夫だから」
「せきちゃん……」
母親の心配そうな声すらも、今の関介にとって苛立たしく感じた。関介は不貞腐れるようにシートに顔を埋めた。胸の奥がチクリと痛む。母親に心配をかけてしまった。父親に気を遣わせてしまった。そんな罪悪感から、胸の傷がジュクジュクと広がっていく。黒いシートにジワリと染みが広がった。
「関介は頑張り屋さんだよ。全国大会で勝つまで、凄く努力したよ。お父さんもお母さんも知ってる。もちろんおじいちゃんだって」
「そんなの嘘だよ。おじいちゃんきっと、僕の事が嫌いなんだ」
掠れた声は、どこか諦めたような色をしていた。全国大会で優勝して、きっと祖父に褒められるだろう。そう思っていた関介を待っていたのは、祖父の容赦のない叱責だった。期待は失望に変わり、今では諦めに変わってしまった。隠そうとしていた涙は、いつの間にか止めどなく流れ、シートに押し殺した嗚咽が小さく響いた。ハンドルを握る父親の手が強くなる。口を開こうにも、今の関介にどう接すれば良いのか分からなかった。
母親も父親も、今更ながら後悔した。剣道を祖父に全て任せていた事を。全国優勝を目の当たりにして、同年代と比べ我が子がどれほど強いのかを再確認した。そしてその努力の量も。それで関介が普通の子と違うのかと言われれば、決してそうではない。剣道が特別強いだけで、関介の本質は素直で泣き虫で思春期に差し掛かった、何処にでもいる一人の少年だった。両親はその成長の過程に向き合えていなかった。
唇が気持ちの重さに押され、上手く開かなかった。車内には時間の止まったような空気が溜まっているが、確かに車は高速道路の上を時速百キロ以上で走っていた。
静かな時間がどれだけ経っただろうか。このまま家へ帰るのだろうかと三人ともが思っていた。だがその時、何処からともなく金属のぶつかり合う音が響き渡った。母親はキョロキョロと辺りを見渡し、父親も気になったようでルームミラーを何度も確認した。
その時重たい腰を持ち上げ、音の鳴ったそれを拾い上げたのは関介だった。ただ関介自身も驚いた様子で、目を丸くしてそれを見つめた。それは鈴のついた御守りだった。赤い布の表に長寿という文字が縫われた、シンプルな作りである。
「おじいちゃんのお土産、僕のポケットに入ってたんだ」
「せきちゃんが渡すって、嬉しそうに持ってたじゃない。もう、びっくりしたんだから」
そっかと呟いた関介は、さっきまでの沈んだ顔が嘘のように、ぱぁっと明るい笑顔を見せた。その瞬間、暖炉に火が灯ったかのように、関介を中心に車内が暖かな空気で満たされた。
「関介が選んだもんな。きっとおじいちゃんも喜ぶよ。明日渡すの楽しみだな」
うんっ! とびきりの笑顔で頷く関介。お守りを胸に抱き、口元を綻ばせた。お土産を手渡された祖父の顔を想像すると、面白可笑しくて思わず吹き出した。関介にとって憂鬱で仕方なかった明日が、いつの間にか待ち遠しく思えるようになっていた。明るい明日が来る。それを信じて疑わなかった。
父親の運転する車は、暫くの間高速道路を快調に進んでいった。だが今追い抜いた看板に、この先二十キロ渋滞と表示されており、確かに心なしか車の進みも遅くなっている気がする。垂れ流していたラジオは、いつの間にか天気予報に変わっていた。お天気キャスターは、心地よい透き通った声で、明日の雨予報を伝えた。頭上では分厚い雲が空を覆っていた。
「なんか、中々動かないね。外の景色も見飽きちゃったよ」
「ああ、見ての通り渋滞だよ。この調子なら後一時間はかかるかなぁ。まぁ夏休み期間だから仕方ないな」
そっかと呟くと、遠くまで連なる車の群れを、焦れたっそうに見つめた。最初こそ動かない車が新鮮で、まるで移動式のテントみたいと楽しんでいた。ただやはり楽しいのはものの数十分で、すっかり手持ち無沙汰になってしまった関介は、靴を脱いでつまらなそうに足をぶらぶらとさせた。
ゴールの見えない移動は、退屈から段々と苛立ちに変わっていった。関介は駄々っ子のように手足をジタバタさせた。
「ねえ、いつサービスエリア着くの! もう僕お腹ペコペコ!」
「せきちゃん、後ろのバッグの中にお菓子あるから、何か好きな物食べていいわよ……って、もう食べてるわね」
母親が言い終わる前、既にバッグを漁っていた関介は、見つけたお菓子の袋を手あたり次第開けていった。スナック系やチョコレート系など、色々なお菓子が混ざり合った匂いが車内に充満し、前の二人はそれだけでお腹いっぱいだった。ただ関介は目前に広がるお菓子に目をキラキラ光らせ、一人パーティを楽しんでいた。
ポリポリ、ボリボリお菓子を頬張る音を聞いていた父親が、あっと小さく声を上げた。母親もその横顔を見て気が付いた。車が完全に止まった事を確認し、二人して関介の方へ振り替える。
一心不乱にお菓子を喰らう関介は、二人の視線に気が付いていない。ポロポロとカスをシートの上に溢し、油まみれの指であちこちをベタベタと触っていた。両親は互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。この車は、父親がつい最近購入した新車だった。
動かない車の中に、いつの間にか静寂が訪れていた。父親はひっそりと母親に耳打ちする。
「関介はどうだ、寝たか?」
「ええ、ぐっすりよ」
口元に食べかすをつけたまま、微かに寝息を立てていた。とろっと幸せそうな寝顔に、二人の心にジーンと温かい何かが溢れた。
「ほんと可愛らしい顔ね。私たちには勿体ないくらい良い子に育ってくれたわね」
「そうだな。逞しい子に育ったよ。まぁ甘えん坊で子供っぽいところはあるけどな」
「お母さん……おとう……スースー」
二人の肩がビクッと大きく上下に揺れた。それが寝言だと気が付くと、胸をほっと撫で下ろし、二人そろって笑った。
「ふふっ、せきちゃんったら、涎垂らして。あ~あ、せきちゃんも大きくなったら、お母さんなんて嫌いって言いだすのかなぁ。そしたらお母さん泣いちゃうかも」
「それが成長なんじゃないか? 俺たちで見守っていこう、いつまでも」
「そうね、せきちゃんが大きくなるまで、ずっと。大人になって、可愛いお嫁さん連れてきて」
「ふっ、そしたら俺たちの下から離れていくんだろうな」
「そうかもね。ならその日まで、私はせきちゃんと一緒に居られる今を大切にしたい。私ね、今すっごく幸せだなって思うの。せきちゃんと一緒に過ごすこの時間が、本当にかけがえのない時間だって思えるから。私は――」
母親が言葉を続けようとした時、表情が固まり一瞬の内に絶望の色に染まった。母親のただならぬ気配を感じ、父親はその視線の方へ振り返った。父親は声も出なかった。その目前に迫っていたのは、巨大な鉄の塊だった。金属がひしゃげる音、そして骨や肉が押しつぶされる音が、燃え盛る炎の中で囂々と響き渡った。
その日のニュースはとある交通事故が大々的に取り上げられた。高速道路の渋滞で止まっていた乗用車に、対向車線の大型トラックが、中央分離帯を破って衝突したという事件だ。犠牲者は大型トラックを運転していた五十代の男性。そして、乗用車に乗る夫婦だった。だが報道機関が取り上げたのはそこではなかった。
大事故から救出された奇跡の少年。そんな見出しが新聞の一面を飾った。幸い少年の心情を配慮してか、氏名は発表されず、それ以上マスコミから追及されることはなかった。
僕がこのニュースを知ったのは、病院のベッドの上で見た新聞だった。言葉が出なかった。その新聞を見た時から、退院するまでの記憶は、モザイクがかけられているかのように不明瞭だった。だけど退院の日、病院に駆け付けた唯一の肉親である祖父が言った言葉だけは、一言一句覚えている。
「関介、帰ったら稽古だ」
どこまでも冷淡で、感情の見えない表情でそう言った。
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