第9話 覚悟
「承芳、障子を閉めなさい」
誰かに聞かれては困るという事だろう。完全に締め切られた部屋の中に、ピリッとした空気が漂う。承芳さんと並列し雪斎さんの向かい合わせに座ると、更に心臓の鼓動が早くなった。
中に招き入れた張本人である雪斎さんは、中々口を開こうとはしなかった。暫く僕らの間に沈黙が訪れたが、しびれを切らした承芳さんが静寂を破った。
「和尚、私たちを呼んでおいて何故何も言わないんだ」
「いやすまんな、少し考えておったのだ。このような話、少なくとも軽率に話せるような内容ではない」
そんな話を僕も聞いていいのだろうか。少し不安になってきた。
「話してくれ和尚」
唾をのむ。一体何の話だろう。もしかして今川家の危機の話とか? それこそ僕に話しても意味がないと思うのだけど。
「では単刀直入に言う。氏輝様の死後、お前に今川家を継いでもらう」
「…………はっ?」
気の抜けた返事が隣から聞こえてきた。ただ僕も同じ気持ちだ。言い終えた雪斎さんを呆然と見やると、更に言葉をつづけた。
「氏輝様が死ねば、恵探との間で必ず後継者争いが起こる。我らはその日が来るまでに、備えなければならんのだ」
「待ってくれ和尚、一旦話を止めてくれないか。何故私が後継者になるんだ?」
「それは我らが、お前こそが今川を継ぐに相応しいと思っているからだ」
承芳さんが、今川を継ぐ。でもおかしいじゃないか。普通こういうのって年齢順じゃないのか? なぜ五男の承芳さんが。疑問は僕と同じだったようで、承芳さんは瞬時に質問を投げかける。
「正当な後継者ならば、彦五郎兄さんがいるではないか」
「あの病気持ちでは務まらん。それと四男の泉奘には既に言ってある。あ奴も後継者争いには加わらないとの事だ。まぁ元からあ奴を後継者にさせる気など無いがな」
「待って下さい。百歩譲って承芳さんが後継者は分かりました。でもだからって、承芳さんと恵探さんが争う必要は無いんじゃないですか? 二人で仲良くやれば済む話じゃないですか」
話がきな臭くなってきたところで間に割って入った。このままでは、本当に承芳さんはお兄さんと争いを起こさなければいけなくなる。多分それは承芳さんの本意ではないだろう。
だが雪斎さんは、そんな僕らの意に反して大きなため息を溢して首を横に振った。
「だから其方らは心に正直すぎるのだ。部下を率いる大将としては、確かに必要となる素質かもしれない。だが一度戦になればその素直さが命取りになるのだ」
そうだとしても、兄弟同士で争っていい理由にはならないじゃないか。それも承芳さんの気持ちを聞く前に。
承芳さんは拳を強く握りしめ、雪斎さんを睨みつけた。いつもの柔和な姿は消え、鋭利な刃物のような目線を向ける。
「和尚は、私に兄上を討てと言っているのだな?」
何も言わず、おもむろに首を縦に振ると、承芳さんの表情が更に険しくなる。机を力強く叩くとその勢いのまま叫んだ。
「和尚の命令とはいえ、それだけは従えん! 私に兄を討てなど、それが師匠の言う事なのか!」
「そうだ。その為に今まで周到に準備してきたのだ」
何かに気が付いた承芳さんは、ぎりっと唇を噛んだ。
「まさか武田との締約。あれは武田を私の後ろ盾とにする為のものか。私を兄上と戦わせるために」
「その通りだ。よく気が付くではないか」
あれは僕を試すためだと承芳さんは言った。つまり武田さんとの締約を承芳さんは知っていた事になる。だけどその本当の意味までは知らされていなかったんだ。それも部下のだれもが。全てこの雪斎さんが一人で用意していたんだ。
「他にも、岡部家、朝比奈家、鵜殿家等、重臣の殆どが我ら側に付くよう懐柔済みだ。殆どだがな」
「そうか、残りは福島という訳か」
「そういう事だ。発言力の強い福島家は、恵探を擁立して我らと対立する気だ。氏輝様が死ねば、いつお前を殺しに来てもおかしくはない。お前が素直に兄上だと慕っていた男に殺されるやも分からぬが、それでもそ奴と仲良くする気か?」
拳を床に叩きつける音が部屋中に反響して直ぐに消えた。指と唇から血が滴り落ち、床に血だまりが出来ていた。承芳さん、兄弟で争うなんて嫌に決まってる。
目の奥がかっと熱くなり、僕は身を乗り出して雪斎さんに向き直る。
「今からでも遅くないはずです、後継者争いを止めましょう。そんなの誰も望んでいないはずです。雪斎さんならきっと出来ますよね?」
「それは不可能です」
僕の力説は一蹴されてしまった。手の甲に熱い雫が落ちてきた。その一言で諦められる話ですか。承芳さんがあんなに悔しがっているのに。
「貴方は承芳さんの師匠でしょう!? だったら何故承芳さんの味方になってあげないんですか! どうして承芳さんにそんな酷い事をさせるんですか!」
「それが乱世だからです」
同じ家族同士、兄弟同士で争うと言うのに、どうしてこの人はそんな一言で片づけられるのか。どうして同じ人間でここまで冷酷になれるのだ。涙で雪斎さんの顔が揺らめく。肩を震わせどうにか耐えようとするけど、意志とは関係なしにとめどなく流れては頬を濡らした。
「うううっ……ひぐっ、そんなの、おかしいですって!」
「おかしいかもしれませんね。ですがそれでも戦うしかないんです。恵探を殺すか殺されるかの二択しかないのです」
優しい声なのに、内容は完全に常軌を逸してる。これが戦国時代なのか。これが現実なのか。思考回路は感情の渦でぐちゃぐちゃだ。
床を見ると、大きな水溜りに僕の顔が映った。殺すなんて漫画やアニメの中のフィクションのような言葉が聞こえてくるのに、やはりここは現実だった。その反射した顔も、次々と降る雫で直ぐに見えなくなった。
「承芳よ、恨むなら今川家に生まれた己の運命を恨め。だがどんなに恨んだところで、現世は変わらんのだ。ならば己の強さでその運命を乗り越えるしかないだろう。恨み言なら何時でも吐ける。必ず覚悟を決めねばならぬ日がやって来る。今はその日のために備えよ」
それだけ言い残すと、雪斎さんは部屋を後にした。足音が聞こえなくなった時。感情が一気にこみ上げ、声を上げて泣いた。
なんだよ覚悟って。なんだよ運命を恨めって。勝手に争いを起こすのは、お前たちの方じゃないか。
1536年 3月 10日
駿府に来てから3か月が経った。意外にも、あの日雪斎さんの部屋で話を聞いてから今日まで、拍子抜けするほど何も起こらなかった。恵探さんや正成さんが何かしてくるんじゃないかと身構えていたが、本当に何もなかった。むしろあの後一緒に蹴鞠をしたり、稽古を付けたりもした。因みに僕の剣の腕はこの世界でも通用するらしい。正成さんの腕は中々だったが、それでも僕の方が強かった。二人とも結構気落ちしていたのが何とも気まずかった。こんな日常が永遠に続くんじゃないかと思った。平和な毎日を送る中で、彼らも争いを起こす気など薄れているんじゃないかと願った。
それでも時は、刻一刻と移ろいでいるのだろう。縁側から外を見た時、いつの間にか植物は小さな芽をつけ、虫たちは一斉に産声を上げ始めた。季節は春に移り変わろうとしていた。
髪が少し伸びた。元々さっぱりとした髪型だったけど、今は後ろで少し結べるくらいになった。今度承芳さんに切ってもらおうかな。
もっと大きく変わったことがある。どうやら氏輝さんの容体が急激に悪化したらしい。熱海の温泉で湯治をしたが、あまり効果はなかったらしい。氏輝さんの死が近いと言う事は、来るべき日が近づいてると言う事だろう。それでも僕にできる事はあまりない。ただ少しでも承芳さんの力になりたい一心で、毎日の鍛錬だけは欠かさなかった。
「関介見てみろ、あれが今川館の全貌だぞ。それであっちに見えるのが田んぼで。あっちが市場だ」
「はぁはぁ、ちょっと待って下さいよ。此処まで登ってきて、なんでそんな元気なんですか?」
「ははははっ、関介は体力がないなぁ。本当にお前は剣の腕だけだよな」
うるさいなぁ。逆になんで貴方はそんな体力があるのか教えて欲しい。
現在何故か承芳さんに連れられ、とある山の頂上にいる。承芳さん、ちょっとした丘って言ってたのに嘘つきやがって。その辺の石に腰掛け上がった息を整える。
「僕をわざわざこんな処に連れ出して何の用ですか。登りたいだけとか言い出したらそこから落とします」
「怖い事言うなって。いや、関介に見て欲しくてな、此処からの景色を」
承芳さんに言われた通り、山の頂上からは屋敷や田んぼが見えた。ただ言ったら失礼だろうけど、何処をどう見ても普通の田舎の景色なんだよな。
「関介、今お前こんな景色大したことないとか思ってるだろ」
この人はエスパーかな?
「ソ、ソンナコトナイヨ」
承芳さんはぷっと噴き出すと、遠くを見つめた。
「そうだ、大した事のない景色だ。だから私はこの景色が大好きなんだ。私たちの住む屋敷、村民たちが田畑を耕す土地。そして商いで活気づく町。それらを一望できるこの場所が。この景色を見るたびに、駿府という国が好きになる」
「のどかですね」
「そうだろ? 駿府ではこれまで大きな争いもなく、皆穏やかな暮らしをしている。だが一度戦争となれば、その暮らしを全て奪ってしまう。そしてそれが今も日の本で起きている」
承芳さんは以前、平和な国を作ると言った。少なくとも、駿府だけ見れば十分幸せだと思える。だけど、日本中では今も戦争が起きているのが現状だ。
「関介、仮に私が今川の当主になった時、日の本を平和にすることができるだろうか」
「知りませんよ、そんなの」
「むぅ、意地の悪い事を言うなぁ」
「…………覚悟が決まったんですか?」
「あぁ」
覚悟、簡単に聞こえるけど、それを意味するのはとても辛い現実だ。僕はもう一度駿府の景色を見渡した。
「平和ですね、承芳さん」
「そうだな」
恵探さんや正成さんも、同じように平和を求めているはずだ。雪斎さんだってそうだ。どこで歩を違えたのだろうか。目的地は同じはずなのに。
ただそんな僕らの境遇にも関わらず、駿府の景色は平和一色だった。
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