第33話 視察

 1537年 3月 17日


 「承芳さぁん! こっちこっち! ……むぐっ」


 「私の名前を叫ぶな馬鹿! 正体がばれたらどうするんだ大馬鹿!」


 ごつごつした温かい掌が僕の口を塞ぐ。突然の事に思わず息を止めてしまい、頬を膨らませて出てきかけた言葉を飲み込んだ。承芳さんの手の匂い、毎日筆を持っているのか墨汁の匂いがする。ごつごつした指も、頑張ってる人の指だ。彼が毎日夜遅くまで起きて、職務を全うしていることも知ってる。彼が今日の外出をすごい楽しみにしているのも知ってる。

 だからこそ、朝から高鳴る胸が抑えられない。承芳さんが僕とのお出かけを楽しみにしてるっていう事が、心の底から嬉しくてたまらない。


 「ぷはぁっ、んもう、承芳さん苦しいってば。それに馬鹿って言う方が馬鹿なんですよぉだ。だからこの理論で行くと、本当に馬鹿なのは……」


 「あん?」


 「ご、ごめんなさい……調子乗りました」


 すごい睨まれた。しゅんと首を垂れると、承芳さんはおもむろに手を伸ばしてきた。殴られると思い、きゅっと目を閉じ握る手に力を入れる。調子乗りすぎた罰だ、それに承芳さんの起こる理由も分かっている。こんな場所でも浮かれてしまう、僕の悪い癖だ。

 だけど、頭に降りかかったのは拳骨ではなく、優しく頭を撫でる掌だった。


 「怒ってるわけではない。私だって、関介と外へ出かけるのは楽しみだったさ。だからこそ、面倒な事が起こっては、折角の外出の時間が勿体ないではないか」


 「承芳さん……はいっ! 楽しみましょう! それじゃあ承芳さん、美味しい食べ物買ってください!」


 にかっと笑うと、承芳さんも柔らかな笑顔を向けてくれた。ふと漂ってきたのは、鼻孔をくすぐる砂糖醤油の焦げた甘い香り。屋台のおじさんの活気ある掛け声と、パチッと弾ける火鉢の音。

 ここは国内一の大市場。しかしそれは駿府のではない。現在三河を脅かす織田の領地。僕たちは尾張国の市場にいる。


 何故僕らが尾張の市場にいるかというと、雪斎のとある提案によるものだった。


 昨日


 「お前たち、尾張へ視察に行ってみないか?」


 「視察を、私たちがか? 尾張は織田の支配下ではないか、幾らなんでも危なすぎな気が……」


 すると、雪斎さんの目がスッと細くなり、その表情から笑顔が徐々に消えていった。なんだその目はと、承芳さんが怖気づきながらも尋ねる。因みに僕は、承芳さんの背中に隠れて、事の顛末を見守っていた。こっちに飛び火しても嫌だし、怒られるのは承芳さんだけでいいだろう。


 「私を出し抜いておいて、まさか全て好き勝手出来ると思っているわけではあるまいな? 外出は許可する、ただ好きな処へ行って良いわけではない」


 そうキッパリと言われてしまい、承芳さんは大きく肩を落とした。この人、京都にでも旅行に行く気だったのだろうか。それくらいの落ち込みようだ。

 すると、承芳さんがこちらを振り向き、恨めしそうな表情を向けてきた。そんな視線を向けないで欲しい、まるで僕が原因みたいじゃないか……いやまぁ、その通りなんだけど。

 そもそもの原因とは、僕が壺に入った雪斎さんの水飴を全てたいらげてしまった事にある。あの時は後先なんて考えられず、ただ目の前に現れた水飴を蟻のように本能で口にしていた。とはいえ、どんなに事情があったとしても、人の物を勝手に食べるなんて、現代なられっきとした犯罪だ。反省はしているし、何かお返しをしようとは考えている。

 尾張への視察か、丁度いいお返しになるかもしれない。


 「雪斎さん、その役僕が引き受けます。もし承芳さんの身が危険だと言うなら、僕一人でもやります。それで雪斎さんの水飴のお返しが出来るなら、僕は喜んで任されますよ」


 雪斎さんは少し驚いたように目を開くが、直ぐに満足そうに頷いた。食べ物の恨みは恐ろしい、僕はそれを身をもって知っている。逆にここで解消できなければ、雪斎さんの事だ、この先ずっとこの弱みに付け込んでくるだろう。


 「いいじゃないですか尾張、ねえ承芳さん」


 「お前、敵地に赴くことの危険性を本当に理解してるのか?」


 ジトっとした目を向ける承芳さん。それくらい分かっているつもりだ。北条さんとの戦争で、戦国時代の敵対関係は、殺すか殺されるかの極限状態にある事を知った。そこで甘い考えを捨てた。僕は戦国時代で生き抜くことを決意したんだ。

 僕が危険性を理解していないかだって? 承芳さんは何を言っているんだ。そんなの簡単な話じゃないか。


 「承芳さん、僕と一緒に行きましょう。貴方と二人なら、どんな危険な場所でも大丈夫です。それを今まで証明してきたじゃないですか」


 「なっ……そ、それは」


 承芳さんにとって意外な切り返しだったのか、たじたじと言葉を返せずにいる。それを見た雪斎さんは、大仰にため息をつき、肩の横でやれやれと手を振る。


 「やはり承芳、お前の慧眼も随分と錆びついてきたな。どうだ、今度眼球を研いでみてはどうだ?」


 怖い事を言う。ただ雪斎さんならやりかねないのが怖いところだ。ほら承芳、寝てる間にくり抜いておいた眼球だぞ。とかありそうだ。これからは眠ってる間も気をつけなければいけないな。

 承芳さんは、難しい顔をしてまだ悩んでいるようだ。外出を承芳さん自身の口から言い出した手前引くに引けない、だからと言って僕を危険な目に合わせる事はしたくない。どうせそんなとこだろう。


 「僕をその気にさせたのは承芳さんじゃないですか。ねぇ承芳さん、僕と一緒に行きましょう、ねっ?」


 「んむう、関介がそこまで言うなら……」


 煮え切らない返事に、頬を膨らませて睨みつける。ここまで僕に言わせて、何を悩むことがあるんだ。


 「承芳さん…………」


 「そ、そんな目で見るなって。分かったよ、行けばいいんだろ。ただし、危険だと思ったら直ぐに駿府へ戻るからな、それでいいだろ」


 唇を尖らせ思い切り不満そうな表情をする承芳さん。直ぐに拗ねる承芳さん、いくつになっても子供なんだから。とまぁ、僕が言える事でもないだろうけど。


 「ったく、それで和尚、護衛はどれだけつけてくれるんだ?」


 「護衛? 何を言っとるんだお前は。大人数で行けば、それこそ不審に思われてしまう。お前ら二人で行くに決まっておるだろ」


 「へっ?」


 承芳さんの間抜けな声だけが、部屋の中に木霊した。当たり前の事をと、雪斎さんは手を広げて首を左右に振っている。


 「それでは、もし織田の者に見つかった時はどうしろと言うつもりだ?」


 大噴火の前触れのようにふるふると肩を震わせながら、怒りに満ちた声で呟く。雪斎さんは、その様子をニタニタと面白がっていた。この人の底意地の悪さに若干引きつつ、僕は一歩離れて現場を窺った。


 「そしたら逃げればいいではないか」


 これは大噴火だな。怒った子供を揶揄えばどうなるかくらい、大人の雪斎さんなら理解できたはずだ。この人、やっぱり性格が悪い。


 「ふっ、ふっ、ふざけるなぁ!」


 3月 17日


 というやり取りが行われて、今に至るという訳だ。承芳さん、朝からずっと不機嫌だったから機嫌が戻って良かった。


 「それにしても和尚のやつ、私と関介二人で視察など、危険にもほどがあるぞ」


 「まだ言ってるんですか、もういいじゃないですか。それより早く美味しい物でも食べましょうよ、僕お腹ペコペコで」


 承芳さんの腕を引っ張って、逸る足で道を進む。後ろで文句を続ける承芳さんだけど、振り払ってこないし、きっと彼も市場の雰囲気を楽しんでいるんだろう。そうだろう、やっぱり出店とか屋台は、その場所にいるだけで心が躍る。三歩進めば人にぶつかる賑わいに、肌に感じるこの異国の感じがたまらない。

 波をかき分けて、どんどん前へ進んでいく。人の背中がほんの一瞬見えなくなった隙間を見つけて、道の脇に飛び込む。そこで僕の目についたのは、色鮮やかに彩られた扇子や櫛、ビードロだった。透明な水に絵の具を溶かしたようなビードロは、現代でも見るはずなのに、何か神秘的な美しさを魅せている。思わず一つ拾い上げ、顔の前で色々な方向から見てみる。角度を変えるたびにビードロの表情が移り変わり、感情豊かなどっかの誰かさんの顔を思い浮かべた。


 「なんだ関介、それが欲しいのか? びーどろ? って言うのか、すごい綺麗じゃないか」


 「いえ別に、欲しいわけでは……あっ、そうだ!」


 ビードロを置いてパンと手を叩と、ビクッとした承芳さんに、急に驚かすなと頭を叩かれてしまった。思わず声を挙げたのは、僕にしては素晴らしいアイデアを思いついてしまったからだ。


 「これ多恵さんのお土産にしましょう。きっとすっごく喜びますよ」


 ビードロ越しの承芳さんは、何とも言えない苦々しい表情をしている。僕のナイスアイデアに、何か不満でもあるというのか。ビードロをひょいと投げる。ナイスキャッチをしてみせた承芳さん、ジッと見つめた後、やっぱりなぁと唸りつつビードロを手渡してきた。


 「あの多恵が喜ぶとは思えんけどなぁ……」


 「そんなことないですってぇ。もしかしたら、もっと仲良くなれますよ。それに承芳さんだって、多恵さんの喜ぶ顔見たいでしょ?」


 僕の説得でなんとか購入することになった。多恵さんの分、寿桂尼さんの分、そしてついでに僕の分も買ってもらった。因みに、多恵さんのは白色の中に紫の絵の具を溶かしたようなビードロだ。寿桂尼さんは赤で、僕は青色のビードロを選択した。

 出店を出る直前、僕の視線の端にとある品物が映った。赤、青、緑に黄色と様々な装飾のされた巾着だった。関四郎さんの見せた赤い巾着を思い出す。あれは間違いなく僕と同じ物だった。だがどうだ、店頭に並んでいる巾着も、僕の記憶の中の形見と似た形をしている。


 「僕の勘違いなのかな」


 「んっ? 今なんか言ったか?」


 何でも無いですよと首を振る。きっと僕の思い違いだろう。そんな事より、今は承芳さんとのお出かけ、もとい視察に集中しなければ。僕の頭の片隅にあった小さな違和感は、市場の人混みの中に紛れ消えて言った。

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