第37話 井の中の蛙
1537年 3月 20日
「おお、お前たち生きて帰って来られたか」
駿府に到着し早速挨拶へ来たところ、とんでもない言葉が返って来た。首の後ろを掻きながら、手元の書から目線を移そうとしない。尾張へ向かう事になった元凶は確かに僕にあるのだけど、やっとこさ駿府へたどり着いた僕らに、労いの言葉一つくらいかけてくれてもいいのに。というか、せめて視線くらいこっちに向けてほしい。
旅の土産にと、僕が悪党に襲われた時の話をしたところ、それにはノリノリで食いついて来た。僕がお小水を漏らしたことを承芳さんがばらすと、大口を開けて笑っていた。うん、サイコパスかな?
「私も大変心配していたのだぞ。早く水飴を……ごほんっ、お前たちの顔が見たいとな」
薄っぺらな言葉を並べてへらへら笑う雪斎さんは、早速僕の買ってきた水飴を指につけて、美味しそうに頬張っている。まあ逆にこの人が本気で心配していたら、その方がよっぽど怖いけど。僕がさり気なく手を伸ばすと、ぺしっと手の甲を叩かれてしまった。ギラっと鋭い視線が突き刺さる。顔が怖いです、雪斎さん。
「おい和尚、私たちは命がけで尾張まで行ったのだぞ。和尚の下らんお使いのせいでな」
「そうだそうだ~」
文句を言う承芳さんの背中に隠れて、囃し立てるように拳を掲げる。雪斎さんが心配していようがしていまいが、僕が殺されかけたのは事実なのだ。雪斎さんほど頭の良い人なら、僕らに及ぶ危険くらい予感して僕らを送り出してもいいはずだろう。だけど彼が僕らを見送る時、助言一つもくれなかった。
雪斎さんがゆらっと立ち上がると、僕らは臨戦態勢をとる。これは調子に乗りすぎたか。じりじりと近づいてくる雪斎を前に、僕は承芳さんを盾に身を隠した。何をしてると振り返る承芳さん。犠牲はあなた一人でいいんだ。
「うるさい馬鹿共」
石のように硬い拳骨が二つ落ちて来た。一発は僕の上に、もう一つはすぐ隣に落ち、ゴツンと鈍い音を立てた。やはり雪斎さんに口答えするのは止めよう。ヒリヒリ痛む頭を押さえながらそう思った。
「それでお前たち、私を呼んだのがまさか土産を渡すためだけではないよな?」
話を変えるよう、声のトーンを少し落として言った。時代劇で見る、お主も悪よのうとか言う悪徳商人みたいだ。
というか、僕はお土産を渡して終わりだと思っていたんだけど。隣で頭をさする承芳さんは、雪斎さんの言葉を受けて真剣な面持ちで頷く。僕らが尾張に行ったのって、お土産を探しにじゃなかったっけ? どうやら、二人と僕とでは何か考えていることが違うらしい。
三人の中で、明らかにポカンとする僕を見て、呆れた様子で承芳さんが肘で突いてくる。
「関介、お前は飯の事しか考えてないから気楽でいいよな」
「なっ、失礼な! もっと他にも考えてますよ、ほら…………まぁいろいろと」
二人そろって特大のため息をつく。そういう所で息を合わせなくてもいいから。
「視察へ行けって言われたろ馬鹿。ったく、団子食べ過ぎて頭が馬鹿になったか」
とんでもなく失礼だけど、言い返せないのが悔しい。二人して手を仰ぎ、やれやれと鼻で笑う。こいつら馬鹿にしやがって。
話しを戻そうと、雪斎さんは承芳さんの方へ向き直り、再び真剣な表情を浮かべる。
「承芳よ、尾張に行ってどうであった? 何か気になったことはあるか?」
ムムムと唸る承芳さんは、考え込むように腕を組んだ。なるほど、それが雪斎さんの聞きたかった事か。それならそうと先に言ってくれればいいのに。尾張に行って気になる事か……お団子が美味しかった。そんな事言ったら、また馬鹿にされることが目に見えている。
「私は、あまりに外の世界を知らなすぎたのかもしれぬ。この駿府という国が東海一、いや日ノ本一豊かな国と、今の今まで信じてやまなかった。だがどうだ、活気づいた尾張の市を見て、私は足元が揺らぐのを感じた。あのような活気、最期に見たのは京都以来、若しくは初めてかもしれん」
井の中の蛙というやつか。スマホ一つで世界中の情報が手に入る現代ならば、いかに自分がちっぽけな存在か直ぐに理解できるだろう。だが戦国時代はそういう訳にもいかない。簡単に手に入るマップなど無いし、直ぐに情報を伝えてくれる電波も飛んでいない。僕も実際に体感しているからわかる、戦国時代がいかに情報の手に入りにくい時代なのかが。まして、承芳さんのような本家の子供となれば尚更だ。格式高い家であればあるほど、自分の世界は狭まるだろうし。
尾張への視察は、承芳さんに辛い現実を突きつける機会になってしまったのかもしれない。自分の知らない世界があるという事は、とても受け入れがたいことのはずだ。そうで無ければ、天動説から地動説に移り変わる際、あれほど揉めなかっただろう。雪斎さんはそれを分かったうえで、わざと尾張へ向かわせたのかもしれない。承芳さんに、もっと広い視野を持って欲しいから。そうだとしたら、とんでもない荒療治だ。
「傷ついたか? 己の小ささを、己の常識の狭さを突きつけられて」
静かだけど圧倒されるような声で言った。口元を不気味に吊り上げ、試すような形相で承芳さんを詰める。やっぱり、雪斎さんは分かっていたんだ。駿府が周りの国と比べて弱い事を。それをこんな回りくどい形で承芳さんに伝えたんだ。なんて意地の悪い。というか、この人はその事実を既に知っていたことになる。彼の頭の中の白地図は、一体何色に塗り分けられているのだろうか。改めて雪斎さんの明晰さには驚かされる。
承芳さんは中々答えない。もしかしたら、深く傷ついているのかもしれない。でも僕は、それが正解なんだと思う。承芳さん、それに僕だって、もっと広い世界を知らなきゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、承芳さんとの約束は絶対に叶いっこないんだから。
「それでもお前は、日ノ本を平和にすると言えるのか?」
「言えます!」
驚いているのは雪斎さんだけじゃなかった、承芳さんも顔を上げ、僕の顔を呆けた表情で見つめている。なんだその阿保みたいな顔は、情けない。僕は承芳さんの肩に抱き着き、彼の代わりに雪斎さんを睨みつける。
「ほう、関介殿。それほど強く言うからには、何か考えでもおありですよね?」
「ぐ、ぐぬぬ、考えなら……って承芳さんも何か言ってくださいよ、そんなとこでいじけてないで!」
「いじっ、いじけてなど無い! そうだ、そうだぞ和尚、私も何かよい策がないか考えておったのだ! 自分の視野の狭さに傷ついていたわけでは無いぞ!」
僕の勢いに押されて、承芳さんも気が乗ったようだ。行き当たりばったりで無策の僕らだ、あの約束の解決策なんて思いついても無い。でも、今回尾張を視察し、自分の立ち位置を把握できたおかげで、約束までの距離感が分かった。正直気の遠くなるような場所にあるけど、今の僕らには関係ない。
「やはりお前たちは、どうしようもない馬鹿のようだな」
そう言う雪斎さんの表情はいつの間にか、先ほどの厳しいものから、いつもの優しい顔に戻っている。言葉とは裏腹に、その表情から僕らを馬鹿にするような意図は感じられなかった。僕と承芳さんは顔を見合わせ、ふふっと照れくさそうに笑った。
用が済み部屋から出ていこうとした雪斎さんが、ふと思い出したように襖から顔を出し、僕の方へ視線を向ける。そういえばと前置きして、顎を掻きながら言う。
「関介殿、野党共に襲われた際、助け出してくれた男がいたと言いましたよね。その男の印象はどうでしたか?」
印象はどうと言われても。あの時は必死だったし、あまり覚えていないのが正直だ。それに、その男の風貌に取り立てる程の特徴が無かったのだ。強いて言えば、ひょろっとして背が高いくらいだろう。その事を正直に雪斎さんへ伝えると、少し考え込んだのち、難しい表情で言った。
「もしその男に再び会った時関介殿、決して心を開いてはなりませぬ。貴方は大変無防備だ。卑劣で残忍な毒手は、貴方のような心をいともたやすく溶かしてしまう。決して、気を許してはなりませぬぞ」
雪斎さんの意図が全くつかめない。あの男は、危険を冒してまで僕を助けてくれたんだ。そんな人が悪い人なはずは…………
あの日、無我夢中で取った男の手の感触を、何故か今になって鮮明に思い出す。震える手のひらの中に、不気味に笑う男の顔が映っていた。あの人は一体。
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