第36話 光の先に
肥溜めのような世界に、眩いほどの光が充満し、僕は思わず目を瞑った。光と同時に、この暗澹とした状況には似つかわしくない軽やかな声が聞こえる。僕は一瞬、承芳さんかと思った。心がすっと楽になる感覚を覚え、小さな期待と希望が心の底で生まれた。ただ僕へ救いの手を差し伸べたのは、見ず知らずの男性だった。
僕を助けると言った男の出で立ちは、失礼だがとても強そうには見えなかった。腰に日本刀を刺しているから武士なんだろうけど。背丈は僕よりも随分と高いが、ひょろりとした体躯で風に吹かれれば飛ばされてしまいそうだ。顔付きも武士のような鋭さや勇ましさは無く、だぼっとした服装と相まって、まさに冴えない男といった印象だ。この人が僕を助けられるとは思えない。
だけど一つ気がかりなのが、彼がどうして僕の居場所を知る事が出来たのかということだ。僕らの後を付いてきたのだとしたら、あまりにも助けるのが遅い。そうで無いとしたら、こんな路地裏のぼろ屋に目がいくはずもない。初めからこの家に来るつもりでしたと言われる方がまだ納得できる。だとして、彼が初対面の僕を助ける義理も無いし、そんな危険を冒すメリットもないはずだ。助けてくれるという甘言に、思わず釣られそうになったけど、僕を攫った男たちの仲間の可能性が無いとも言えない現状で、頭から彼を信用するのはあまりにも危険だろう。
「どうした少年、早く手を伸ばせ。そこは其方のいる場所ではないだろう」
光の先で見ず知らずの男が手を伸ばしている。だけど、頭の隅に浮かんだ僅かな不信感を拭えないでいる。怪しめば怪しむほど、男の笑みがまるで道化のように見えてくる。
この人の雰囲気、どこかで感たことがあると思ったけど、やっと思い出した。甲斐の国へ行ったとき、門の前で出迎えてくれたあの男の顔を。屈託のない笑顔には、素朴さや温厚さすら見えた。だけど、彼は紛れもなく武田家の当主だった。部屋に入った途端感じたあの緊張感、そして僕らへ向けた鋭い眼光に隙の言葉。胸を鷲掴みにされているような恐怖は、今も脳裏に焼き付いている。光の中で手を伸ばす男から、武田信虎さんと同じ匂いを感じる。内に秘めた鋭い爪を研ぎながら、表の顔で人を油断させる。一瞬の隙を伺う捕食者のように。
この男を信じて手を取るか。はたまた、手を払い除けてこの暗闇に沈むのか。実は答えなんて最初から持っていた。僕が戦国時代に来てから、自分の心に嘘を付いたことは一度もない。素直に正直に、自分が決めた選択肢を信じるだけだ。
確かにここは僕の居場所じゃない。僕の居場所は、いつだってあの人の隣なんだ。
「おじさんが誰か知りません。だけど、僕の心は貴方を信じたいと言っている。だから、僕は貴方を信じます。僕を、助けてください!」
「そう来なくてはな。さぁ早く、儂は気が短いんだ、気が変わってしまわぬうちに手を伸ばせ」
底なし沼から手を伸ばし、おじさんの手のひらをしっかりと掴む。承芳さんと違って、血が通っていないのかと驚くほど冷たく、全身に妙な寒気を覚える。手触りが、この人の発している妙な雰囲気が、僕の心を荒波のようにユラユラと動かす。今更だけどちょっと不安になって来た。
おじさんは思い切り手を引き、その胸の中に吸い込まれる。顔を見上げると、さっき感じた不安を払拭するような、柔和で温かみのある微笑みを浮かべている。だけどその顔が、僕には笑顔だと思えない。分からない、この人の本心が。やっぱり信虎さんと一緒だ。表情からも態度からも、彼の本性が少しも見つからない。空っぽの器に、人間として動くための中身が詰められただけのブリキの玩具のようだ。
「おいお前ら! なにぼさっとしているんだっ! あの野郎もガキの味方だろ、早く殺せ!」
僕の疑念をよそに、慌てた様子の男たちが、各々武器を片手に襲い掛かって来た。もう誰が怪しいとか言ってる場合じゃない。今すぐに逃げないと。殺気だち血走った男たちの目を見て、さっきまでの恐怖を思い出す。頭に浮かぶのは、肌を弄ぶ男たちの狂気の表情だ。背筋に冷えた汗が伝うと同時に、次のとるべき行動が脳から直接体に伝えられる。
一歩踏み出そうと、下半身に力を入れる。だけど逃げようにも身体を預けている今、自由に動かすことは出来ない。僕を抱くおじさんは、何故かこの場から離れようとしない。そればかりか、向かってくる男たちを、変わらない笑顔で対峙している。
ふとおじさんが、焦燥と恐怖で顔の引きつった僕を見下ろして、へらへらと笑いながら言った。
「どこへ行こうとする、此処でじっとしてろ」
「どうして、早く逃げないと! おじさん!」
何を言っているんだこの人は。まさに敵に襲われている最中で、おじさんは余裕の表情を浮かべている。徐々に恐怖から苛立ちに変わり、おじさんのつま先をこれでもかというほど踏みつける。なのに、痛いなと笑うだけで、手を離す素振りすら見せない。
リーダー格の男は、直ぐ目の前まで迫ってきている。腕を伸ばせば届いてしまう、だけど今駆け出せばまだ逃げられる。それなのに、おじさんはその場に留まる選択を取った。
「なぁに、直ぐに終わるさ」
そう呟いた瞬間、僕の視界は僅かな間ブラックアウトする。体の横を何か速いものが駆け抜ける感覚を覚え、思わず目を瞑る。目を閉じてから開けるまで三秒も無い。目の前に映った光景を、声を上げずただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
目の前に迫っていた男は、地に伏し大量の血を流していた。一体何が起きたんだ。考えるより先に、直ぐに答えは出た。僕を左腕で抱き、その反対の腕には鋭く光る日本刀が握られていた。ぽたりと、一滴の深紅の水滴が地面に落ちる。
「先ずは一人だな」
大きく刀を振ると鞘に戻した。まるで映画の一場面を見ているようだ。脳が勝手に、無数に飛び散る鮮血をフィクションだと認識したがる。赤い染みは血のりで、今倒れている人は役者でこの後直ぐに立ち上がる。違う、頭の中で叫んでも脳まで届かない。戦国時代にやって来て一年以上が経つ。大きな戦を経験した。目の前で人が死ぬ経験も、大事な人が突然いなくなる経験も、悪党に侵されそうになる経験もした。それでも、死と隣り合わせのこの血なまぐさい戦国の世には、未だ慣れる気がしなかった。
「関介!」
声が聞こえた。絶望と隣り合わせの戦国の世を、真っ二つに切り裂くような、優しくて眩しい僕の一番求めていた声が。
振り返ると、袴はぐちゃぐちゃにはだけ、肩で途切れ途切れの息をする承芳さんがいた。足元を見ると、裸足で泥だらけ、指の間から赤黒い血が滴っている。それだけ見て、彼が僕を見つけるためにどれだけ走ったか、どれだけ探したか理解できる。承芳さんに出会えた安心感と、それだけ僕を大事に想っていてくれたことへの嬉しさで、僕の涙腺は簡単に崩壊した。
「承芳さん……しょう、ほうさん……なんで手を離したんですか……僕寂しかったんですよ?」
いつの間にか、おじさんの腕は解かれていた。僕を襲ったやつらは、リーダーが殺されたのを見て一目散に逃げていた。所詮悪党と言ったところだ。そんな事はどうでもいい。やっと出会えた、やっと手が届く。僕はまだ暗い絶望の海の中にいた。それは一人だったから。本当の光は、目を瞑る程眩しくなんて無かった。優しく包み込む、木漏れ日のような光だった。
「お前が離したんだろ馬鹿者。でも、やっと見つけられた」
「怖かったです承芳さん。もう貴方の隣から離れません! ずっと、ずっと隣ですから!」
承芳さんは、大きな手で僕を抱擁した。ああ、承芳さんの匂いだ。承芳さんの心臓の音だ。やっと帰って来れたんだ、承芳さんの隣に。
僕の涙が止まるまで、承芳さんは受け止めてくれていた。ついでに鼻水も少しかんでおいた。すごく嫌そうな顔をされたけど、僕の手を離したんだ、それくらいいいだろう。ふと気が付くと、さっきまでいたはずのおじさんの姿が消えていた。承芳さんもお礼がしたかったと残念がっている。僕だってどれだけお礼をしても返せない。彼がいなかったら、僕はきっとあの場で殺されていただろう。
周辺を探したが、おじさんの姿は見つからなかった。近くの人におじさんの居場所を聞いてみても誰も知らないと、それどころかそんな人物この辺りでは見たことが無いと言われてしまった。僕らは互いに顔を見合わせ、首を傾げる。おじさんは、まるでその存在が嘘だったかのように、忽然と消えてしまった。
不意に、誰かの視線を感じた。辺りを見渡すもそれらしき人物はいない。承芳さんは不思議そうな顔をして、疲れているからだろうと言った。でも僕には気のせいだとは思えなかった。何か監視されていると感じる。まるで、僕らを品定めするかのように。
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