第35話 助ける者は

 連れてこられたのは、生ゴミや人の糞尿の匂いが立ち込める廃屋だった。足を踏み込んだ瞬間、ツンとした激臭が鼻の奥へ入り込み、胃液が喉の先まで込み上げる。およそ人が住めるような建物ではなく、大通りから少し離れた裏路地のような場所に建てられていた。普通の人なら足を踏み入れないであろう暗がりで、悪党にすれば身を潜める格好のアジトだろう。

 男たちは廃屋に入るや、僕の身体を太い柱へぐるぐる巻きにして、奥の部屋に消えていった。少し体を動かしてみたけど、この紐を自力で解くことは出来なさそうだ。今はおとなしくしているのが得策だろう。男らが何を目的に僕を監禁しているか分からない以上、無駄な動きは禁物だ。逆上させて、その場で殺されるかもしれないんだ。

 つい油断すると泣きそうになる。こんな場所に助けが来るとは思えないし、そもそも今この国で僕を助けてくれる人なんて一人しかいない。承芳さん……どうして僕の手を……。

 雫がホロリと頬を伝って床に落ちる。僕はその雫を拭う事も、止める事も出来なかった。


 「おいガキ、逃げようと考えて、ふんっ、そんな気力も無さそうだな」


 僕の腕を掴んだ男が、奥の部屋から姿を現した。さっきまでより口調が荒く、悪党の顔がより濃くなっている。薄暗い廃屋の中で、蝋燭の火に照らされた男の顔が、ニヤニヤと不気味に揺れる。抵抗する様子をみせない僕に満足そうな表情だ。取り合えず今すぐ殺されるわけではなさそうだ。


 「どうして僕をこんな……」


 「誰が喋っていいと言った?」


 ざらざらした声が、汚い壁に反響した。喉元にナイフを突きつけられたような感覚を覚え、咄嗟に次の言葉を引っ込めた。男はギラギラした眼光で僕を睨みつけると、床を軋ませながら近づいてくる。

 

 「ひひっ、可愛らしい顔してんじゃねえか。いくらで売れるか楽しみだなぁ、なぁお前ら!」


 男の呼びかけに、さっきまで奥の部屋にいた三人が姿を見せた。無理やり髪の毛を掴まれ、ぐいと顔を三人の方へ向けられる。男たちは僕の顔を見るなり、気持ちの悪い下品な笑い声を上げた。一人は、僕の全身を舐めるように見つめては舌なめずりをし、もう二人も御馳走を前にする獰猛な肉食獣のように、荒い息遣いで見つめてくる。

 ゆらめく蠟燭の明かりに映し出される男たちは、皆焦点の合わない視線を僕に向けている。上気した顔、荒い息遣い。そこで僕はようやく気が付いた。この人たち、僕に発情してる。このままだと確実に犯される!


 「皆さん、ちゃんと僕を見てください! 僕は男です!」


 「何を意味の分からないことを。なぁに安心しろ、痛くないようにするからなぁ」


 ふらふらとした足取りで男の手には、刃先が錆びてボロボロになった小刀が握られている。そんな物騒な物で、一体どうする気なんだ。

 小刀の刃先が目の前まで迫ってくる。まずいまずい、この人たち完全に気が触れてる。犯されるどころか、殺されてもおかしくない。手が痙攣するように震え、ようやく見つけた紐の解き目が掴めない。不意に袴の股間部に温かいものが勢いよく広がる。それは腿を伝い、床に大きな染みをつくっていく。

 下半身全体に広がる不快感なんか忘れるくらい、頭の中は恐怖で一杯だった。後ずさる事も、手で顔を隠すこともできない。身体の自由を奪われ、汚らしく失禁し続ける事しか出来なかった。

 キュッと目を閉じると、瞼の裏に様々な走馬灯が、何枚も何枚も映し出される。家族の思い出、承芳さんに出会った時の事。こんな危機状況の中でも、映し出された走馬灯は、可笑しいほど鮮明だった。


 「おいお嬢ちゃん、その綺麗なお肌をみせてくれよぅ」


 僕の襟元を切り裂き強引に破ると、白く華奢な肌が露わになり、男たちの間に大きな歓声が沸く。ただ僕は男だ、勿論胸の膨らみはどこにも無い。見ると男の中の一人が、明らかに落胆のため息を吐く。こいつら、まだ僕の事を女だと思っているのか。


 「ふふんっ、胸が小さいが、まぁ顔は上物だし文句は無いな。高く売る前に、少しでも楽しませてくれよ」

 

 男の手が僕の胸部を強引に弄る。全身に悪寒が走るのと同時に、男の身体から放たれる異臭に強烈な吐き気を催す。抵抗したいのに全く力が入らない。テレビで強姦事件のニュースを目にしたことを思い出す。あの当時、子供ながら酷い事をするなと思った一方で、何処か違う世界の話のように感じていた。あのニュースの被害者の女性は、こんな気持ちだったんだ。男に襲われるって、こんな怖くて、気持ち悪くて、惨めなんだ。


 「ひゃわっ!」


 思わず女の子みたいな悲鳴を上げると、男の唇が一層不気味に歪んだ。僕の肌を弄る指は、胸、へそ、そして遂に秘部に到達する。まずいと思ったが、もう遅かった。袴の中をゴソゴソと探す男の手に、僕の秘密の突起物が触れる。その瞬間、先ほどまで浮かれていた男の表情が一転し、怪訝そうに僕の顔を覗き込んでくる。


 「おい、ガキ。お前まさか……」


 「どうしたんだよ鉄男。やらねえんだったら俺によこせよ。最近ろくな女捕まえられんくて、溜まってんだよ」


 後ろの男が不機嫌そうに急かす。逸る気持ちが抑えられないのか、その場で足をばたつかせて感情を出している。そのせいで無数の土埃が僕の顔目掛けて舞ってきて、目の前が一瞬茶色く染まった。

 

 「うるせえ! それよりこいつ見ろよ! こんな女みてえな成りしてるくせに、男のもんぶら下げてんだよ!」


 鉄男と呼ばれる男が叫ぶと、他三人は動きを止め目を丸くして僕の方を見つめる。その視線の先は、勿論僕の大事なところに注がれている。さっきまでの、男たちの興奮した鼻息が嘘のように静まり返り、暫くの間室内に沈黙が続いた。

 この沈黙を破る声が何処となく聞こえる。殺せ、そう聞こえた気がする。男たちの目つきが明らかに違う。熱に浮かされ、とろんとした目から、怒りに充血した荒々しい狂人の目をしている。


 「ガキが、俺らを騙しやがってよ。女なら高く売れたが、男となりゃ話は別だ。俺らの顔も見られたし、生かす理由もねえ」


 事態が思わぬ方向へ進んでしまった。他の者もそうだと首を縦に振り、怒りに任せ腕を掲げる者もいた。

 まずい、もう僕にはどうしようもない。身体を縛られ身動きは取れない。それに相手は武器を持っていて、僕は丸腰だ。もう立ち向かう力すら湧いてこない。最後に承芳さんの顔が脳裏をかすめた。だけど、それは砂埃となって消えていった。ここで僕は死ぬんだ。


 生きる事を諦めて下を向く。小さな希望は、僕の直ぐ足元に転がっていた。あっ! と声を挙げそうになるのをなんとか抑え、顔を上げ男たちを見上げる。多分少し笑っていたと思う。


 「僕は言いましたよ、自分が男だって。聞いてなかったのはそっちじゃないですか」


 不思議と冷静になれてる自分がいた。怖いけど、何とかなりそうな確信がある。僕は勇気と床に落ちていたある物を後ろで握り、激昂する男と対峙する。


 「んだとガキぃ!」


 男は今にも飛び掛かってきそうな剣幕で、小刀の先端をこちらへ向けてきた。そうだもっと怒れ。怒れば怒るほど、人の視界はずっと狭くなる。僕がさっきまで、恐怖で頭がいっぱいだったように、男の頭の中には怒りという感情で支配されてるんだ。感情に支配された人間はコントロールしやすい。


 「僕はここから逃げますよ。お前じゃ僕は殺せない。だってお前、馬鹿そうだもん」


 僕は嘲笑気味の笑みを浮かべ、わざとらしく鼻を鳴らす。僕の分かりやすい挑発に、男の我慢がとうとう限界を迎えた。小刀を握る手から真っ赤な血が滴り落ち、ゴミまみれの床の上に落ちた。次の瞬間、土埃を起こしながら男は高々に腕を振り上げた。先端がキラリと鋭利に光る。


 「死ねぇガキが!」


 怒りの籠った咆哮を上げながら腕を振り下ろす。これを避けなければ僕は死ぬ。だけど、冷静になれた僕には、男の動きが面白いほどゆっくりに見えた。

 突如としてガラスの割れる破裂音が室内に響き渡り、男たちは一瞬だけその音に気を取られる。意識外からの大きな音は、否応にも反応してしまう。瞬発力を長年鍛えられてきた僕にとって、その一瞬を見逃すわけがなかった。

 僕の手に握られているのは、出店で承芳さんに買ってもらったビードロだ。とはいっても、それは取っ手の部分から先は粉々に砕け散り、ただのガラスの破片と化している。だがそれでいい。不規則に割れたガラスの断面は鋭利で、即席のナイフには十分だ。


 床に思い切り叩きつけた瞬間、耳をつんざく音と共に、薄暗い天井に宇宙が生まれた。男たちは、ほんの一瞬だが、その鮮やかすぎる景色に酔いしれていた。仄暗い空に描かれる一つ一つの輝きが、承芳さんのくれた勇気の星だ。

 

 「こんな所で僕は死なない! 承芳さんの夢を守るために!」


 先の尖ったガラスで、僕をぐるぐる巻きにするロープを瞬時に切り裂く。男たちも僕の動きに気が付いたがもう遅い、男の振り下ろした小刀は虚空を切り、僕の後ろの柱に突き刺さった。右に避けた僕は、次に襲い掛かる男の脇の下をかいくぐった。床に転がり顔も髪も泥だらけにしながら、力の限り出口の扉へ手を伸ばした。

 微かな光が差し込み、外の空気が一気に中に入り込む。これで、これで……


 「逃がさねえよ」


 あと少しだった。扉の隙間を潜り抜けようとした瞬間、腕を掴まれ吸い込まれるように部屋の中へ連れ戻される。開きかかた希望の扉は無情にも、目の前で閉ざされた。


 「残念だったなガキ、もうお終いだぜ」


 希望から絶望に変わる。これ以上打つ手はないし、男たちに立ち向かう気力もない。おもむろに振り返ると、地獄の底から四人の鬼が手を振り、僕を引きづり込もうとしている。

 扉はゆっくりと閉まり、外の光が徐々に失われてゆく。この光が潰えた時、僕の命も……


 腐った木材が軋む音と共に、消えかかった光が一気に室内に降り注ぐ。全員が動きを止め、一斉に扉の方へ振り向く。そこには、一人の男が立っていた。逆光で見えにくいけど、その人はワクワクしたような笑みで、僕らの事を見つめていた。

 彼はポカンとする僕らを置いて、印象より少し低い声で、楽しそうに口を開く。


 「困ってそうだな少年。今儂が助けてやるぞ」


 目が慣れてきて、助けてくれると言う彼の顔がよく見えてきた……けど、この人は一体誰なんだ?

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