第31話 鏡の正体
1537年 3月 14日
腐食した床の軋む音が、静寂な本堂に反響して襖の外に逃げていった。つま先で足元を確認しながら、ゆっくりと進んでいく。ふと足の裏にひんやりと気味の悪い感触を覚え、恐る恐る覗いてみる。いつのかも分からない動物の糞がつぶれており、ガクッと肩を落とした。ちゃんと掃除してくれよ。
「その辺り、ネズミの糞が沢山落ちてるから気を付けて歩けよ」
「もう少し早く言ってほしかったね」
足の裏の糞を払い除け、苛立たし気に床を蹴ると、建物全体がゆらりと揺れた。この建物、台風とか来た時大丈夫なのだろうか。
関四郎さんは窓枠でぽけっと外を見ながら頬杖をついていた。上の空で、僕の声なんて届いてい無さそうだ。雲を見ているのかな、僕も雲を眺めるのが好きだから。考えが纏まらないとき、何も考えたくないとき、空に浮かぶ雲を眺めるのだ。目的もなくフワフワと浮かぶ、僕の頭の中と同じだ。彼と僕が似ているなら、彼の好きなものまで一緒だといいな。
「なんでまた来たんだよ」
ポツリと呟く。それが僕への拒絶の言葉では無い事くらい、その声を聞けばすぐに分かった。期待が籠った上ずいた声色は、まるで僕が承芳さんに向けて喋っているみたいだ。僕と似ているのなら、きっと彼も寂しがり屋なんだろう。鏡に映った自分は、ただの女の子みたいだった。サラサラの綺麗な髪があればの話だけどね。
そんな恥ずかしがり屋に僕は、わき腹をくすぐるように言った。
「関四郎さんに会いたくなったからですよ」
「うへぇ、気持ち悪いな。でも、まぁ嫌ではないけどな」
関四郎さんは、くすぐったそうにそっぽを向いた。知ってる。これはツンデレってやつだ。まさか自分の声で聞ける日が来るとは、いやはや夢にも思わなかった。少し気持ち悪いかも。
彼が嫌がっているなら直ぐにでもお暇しようかと思ったけど、歓迎してくれてるみたいで良かった。
「なんだよ、俺の顔に何かついてるのか?」
「いやぁ、べっつに~。関四郎さんも、可愛いとこありますねっ」
彼の顔がみるみるうちに上気していく。完熟したリンゴのように綺麗な紅色に染まりきった顔で、こちらを鋭く睨みつけてきた。窓を背後に、じりじりと近づいてくる関四郎さん。指を鳴らす乾いた音と腐った床の軋む音が、四角形の建物の中に反響する。まずい、これは少し弄りすぎたか。
「何だ関介、俺を揶揄いに来たのか!」
そう言いながら、こめかみをぐりぐりしてきた。い、痛い。頭が割れそうだ。雪斎さんの拳骨も物凄い衝撃だが、彼のぐりぐりも中々のものだ。雪斎の拳骨が雷だとすれば、彼の攻撃は地震だ。脳に振動が……ううぅ、脳が揺れる。
「ごべんなざぁい、もう許じでぇ」
「ったく、二度と生意気な口を利くんじゃねえ、分かったか!」
十秒くらいぐりぐりされた後、ようやく解放された。両方のこめかみがひりひりする。関四郎さん、本当に容赦がないというか、加減をしらないというか。文句でも言ってやりたいけど、自分の軽口から始まった事だし、もうこれ以上余計な事を言うのは止めよう。
話が大分それてしまった。まぁ半分以上は僕のせいなんだけど。僕の用事は勿論じゃれ合いなんかではない、明確な理由があってこのお寺まで足を運んだんだ。
ドッペルゲンガーの話を読んだことがある。彼らは理由もなく、本人の目の前には姿を現さない。本物を殺すとか呪うとか、そういう理由が無いと、目の前には現れられないんだ。僕はもう一度、関四郎さんの顔を見る。鏡合わせの僕らは、どっちが本物でどっちがドッペルゲンガー何だろう。きっとどちらも本物だ。だけど、他人の空似だけでは理由にならない繋がりが、僕らの間にあったとしたら。やっぱり僕らは、出会うべくして出会ったんだと思う。
「それで? 俺に何の用があるんだ? まさか、本当に用もなく……」
「用ならあります。僕は聞きたいんです。関四郎さん、貴方の事を。僕は自分の仮説が正しいかどうかの証明がしたい」
訝し気な表情を浮かべていた関四郎さんも、面食らったように目を見開いた。だがそれも一瞬で、直ぐにきりっと神妙な面持ちに戻る。まるで僕からこの疑問をぶつけられることを、あらかじめ予感してたかのように。
「なるほど。関介がここに来た理由は大体わかった。法菊丸、若しくは寿桂尼様か」
「良かった。話しは早い方がいいですからね」
僕が口を開こうとすると、自分から喋ると手で制されてしまった。別に順を争っているわけではない、ここは彼の意志に従おう。きっと彼の喋りたいタイミングというのもあるだろう。それに自分の過去を曝け出すんだ、進んで喋りたい人なんているはずがない。
暫く黙り込み、口を開こうとしない。床と僕の顔と交互に視線を移し、何から話そうか思案しているようだ。大丈夫、僕はゆっくり待つから。
僕の気持ちが伝わったのか、強張った彼の顔が僅かに綻んだ。
「関介は既に知っているかもしれないが、俺の口から言いたい。俺は寿桂尼様の実の息子だ。そして次の年に生まれたのが法菊丸、俺の弟だ」
やっぱり。寿桂尼さんが話した僕と似ている息子、それが関四郎さんだったんだ。これだけ似ているのに、直ぐに僕へ声を掛けなかったのは、幼少の頃しか関四郎さんを見ていなかったから、そして関四郎さんを捨ててしまった後ろめたさもあったのだろう。
「寿桂尼さんから聞きました。僕とそっくりな息子がいると、そしてその子がまだ幼い時に捨てたという事も」
「寿桂尼様は、他に何か仰っていなかったか?」
視線を落としポツリと呟く。湿った木の匂いがやけに鼻にまとわりついて鬱陶しい。彼はこの薄暗い空間で、十年以上も暮らしているんだ。僕だったら気が狂ってしまいそうだ。そうして必ず、自身の生まれを呪うだろう。
「後悔していると。言葉では無いですけど、寿桂尼さんの表情を見てそう思いました。きっと今でも、関四郎さんの事を気にかけていると思いますよ」
「…………そうか」
これは僕の勝手な想像だけど、関四郎さんは自分を捨てた寿桂尼を恨んではいないと思う。そうで無ければ、こんな穏やかに喋られないはずだ。関四郎さんは、とっても優しい人だ。自分を捨てた寿桂尼さんの悪口を一切口にしない。それどころか、彼女の身体の心配までしていた。そんな人が、優しくないわけがない。
「一つだけ質問をいいですか? 関四郎さんは、どうして寿桂尼さんが母親だと知っているんですか? 二歳から此処で過ごしているのなら、その情報を知りようがないと思うんですけど」
「寿桂尼様は俺を産み二歳まで育てたのち、遠い親戚の元へ俺を預けた。その後俺が十歳になった時、自身の生い立ちを義父から聞かされたんだ。始めこそ寿桂尼様、そして氏親様を呪ったさ。だが、俺は今もこうして生きている。それだけで、十分有難い事だって気が付いたんだ。それに」
思い立ったように窓際から離れ、本堂の奥の戸棚で何やら探し始めた。小さな仏像や古びた卒塔婆が見え隠れしているけど、あんな狭いところに押し込んで大丈夫なんだろうか。既に廃寺になっているから気にしてはいないんだろうけど。
「あった、これだ!」
いきなり部屋の中に反響するような声で叫ぶ関四郎さん。右手には、大事そうに赤い布のようなものが握られており、見た事ない無邪気な笑顔でこちらに向かってきた。それほどまで大事な物なのか、だったらあんな狭いところに詰め込まなくてもいいのに。
「何を見つけたんですか?」
「これはなっ、寿桂尼様自らが俺の為に作って下さった御守りなんだ! 寿桂尼様もこれと同じものを持っていて、俺と今川を繋ぎとめる唯一の宝物なんだ」
それは赤い巾着袋だった。僕には見覚えがあった。後継者争いの後、お酒の場で寿桂尼さんが持っていたものと同じだ。彼が寿桂尼さんの息子であることは、疑いようがなくなった。彼は巾着袋の紐をそっと解き、中に入った何かを手にした。
それが視界に入った瞬間、僕の頭の中は真っ白に染まった。ありえない、そんなはずはない。何で彼があれを?
「巾着の中には金塊が入っていてな、俺の関の字が刻まれている……って、どうした関介?」
「そんなはずないんです……それは僕の……」
不思議そうに見つめる関四郎さん。赤い色の巾着なんて、探そうと思えばいくらでもある。だけど、あの金塊はそうじゃない。寿桂尼さんが、自分でか職人に頼んだかは知らないが、彼女が関四郎さんの為に作った世界で一つだけの御守りなんだ。
だったら何故…………何で祖父の形見の巾着の中に、同じく関の字を彫った金塊が入っていたんだ。
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