第30話 似ている顔は
1537年 3月 10日
承芳さんらと別れた後、何故かとある人物に呼び出されてしまった。理由も聞かされていないんだけど、一体何の事だろうか。ふざけて障子におっきな穴をあけちゃった事かなぁ、それとも床の間に飾られた掛け軸を破いた事かなぁ。候補が多すぎて分かんないや。
僕を呼びつけた伝令係は、心なしか声が震えていた気がする。僕の事を呼びつけた人物は、それだけ怒ってたということだろうか。ふふっ、もう今川館から脱走しようかな。それなら手紙くらい残していった方がいいかも。
そんな馬鹿な事を考えながら廊下を歩いていると、僕の向かう部屋が見えて来た。足が甲冑を履いたように重くなり、足の裏は汗まみれでぴちゃぴちゃと水音が聞こえる。飲み込んだ生唾が喉の奥でつっかえ、危く息の仕方を忘れるところだった。白い息を大きく吐き出す。このまま煙となって空気に溶けてしまいたい。そんな気持ちを無理やり押し殺し、僕は所定の襖を遠慮しがちに三回叩いた。
「入ってよいぞ」
その深くて厳かな声で、僕の背筋を氷漬けるには十分だった。この声の主には心当たりがある。承芳さんのお母さん、寿桂尼さんだ。これで少し安心材料が増えた。一つは僕を呼んだ人物が、少なくとも僕の知っている人であった事。そしてもう一つが、彼女の声に怒りの感情が見えない事だ。後者に関しては、元々感情を表に出す人ではないため、僕の読み違いの可能性は十分にある。ここはあまり自分の感覚を過信しないでいこう。
ゆっくりと、手の動きが止まりそうなほどのスピードで襖を開けていく。だって怖いんだもん。
「早く入ってこんか!」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
凛とした声に、思わず襖をピシャリと開けた。これまでの人生の中で、一番背筋が伸びたかもしれない。こんな所で剣道の稽古の成果が出るとは。
部屋の中には、腕を組み床をトントンと鳴らす寿桂尼さんがいた。怒っているというより、苛立っているように見える。どうしたんだろう、更年期かな? そんなこと言ったら火に油だし言わないでおこう。
「ったく、其方は……法菊丸に似たのか、それとも」
「ううぅ、すいません。その、遅れてしまって」
僕のつま先から頭の先っちょまで、見極めるように鋭い眼光を向けてくる。脂汗がダラダラ流れ、心臓の音が間近に聞こえる。何だろう、品定めでもしてるのだろうか。もし品質が悪かったら捨てられるのかな。
すると、彼女の眉間に深く刻まれた皺が消え、ふっと微かに笑った。拍子抜けというか、緊張感が一気に溶けた。どうやら説教では無いようだ。
「くくっ、別に怒ってなどいない。其方の反応が可愛くてな、それになんだか懐かしいというか……いや、なんでもない」
よく寿桂尼さんは歯切れの悪い言い方をする。小骨が喉に刺さった時のような違和感。でも彼女が無理に言葉を押さえつけているようには見えない。言いたい気持ちと理性を天秤にかけ、冷静に言葉を選ぶような上品さがあった。だけどその上品さは、子供の僕には違和感にしか見えない。大人が必死に隠しても、子供は直ぐに見破ってしまう。僕はまだ子供だから。
「あのぅ寿桂尼さん? 間違ってたら申し訳ないんですけど、以前から何か僕に隠している事がありますよね?」
確信はない、だからこそ僕は賭けに出た。彼女が僕に隠し事をしているかどうかなんて知りようが無いし、それを今問いただしても意味が無いことは分かっている。だけど僕は、その小さな違和感の正体が気になるんだ。それはほんの些細な事でもいい。僕の顔が女の子みたいとか、子供っぽいとか、そんな事でいいんだ。
僕の思考を見透かすように、彼女は僕の目を見据えた。彼女の瞳、承芳さんとそっくりだ。
「どうせはったりだろう? そんなものよい、いずれ話そうと思っていた」
寿桂尼さんは、一切動揺する素振りを見せない。彼女の言葉に嘘が無いというわけか。それに、僕が彼女の言葉に気になっていたことを、彼女は初めから認識していた。それでも僕に言わなかったのには、何か理由があるんだろう。
「寿桂尼さん、教えて下さい。貴方が隠している事を」
彼女は一度息を吸うと、そっと目を伏せた。頭の中の言葉の羅列を、彼女なりに組み替える作業をしているのかもしれない。ふっと息を吐くのと同時に、彼女はおもむろに瞼を開け、神妙な面持ちで言った。
「名前は伏せる、その理由は教えてやれんが。其方の顔を見た時わらわは、心臓を掴まれるような気分だった。其方の面影が、息子とそっくりだったからだ。ただその後、其方が法菊丸の供だと知り、他人の空似であると自らを思い込ませた。ただ無理だった。どうしてもわらわには、其方と息子を重ねてしまう」
彼女は自嘲気味に微笑み、僕から視線を離した。窓の外に目を移し、遠い日の事を思い出すように目を細める。
「わらわは、まだ小さいその子を捨てたというのに。まことに身勝手な話だな」
寿桂尼さんの息子、つまり承芳さんの兄弟。それも、血のつながった兄弟だ。そんな人と僕が似ている。氏輝さんが死んだ後、稽古場でのあの言葉。そういえば、僕の違和感はあれから始まった。
”あの子に似ている” あの日彼女ははっきりそう僕に言ったのだ。そして今、その子はまだ幼いころに捨てられたという事実を聞いた。
一人だけ頭に浮かぶ人物がいる。それを裏付けるように、その人物はしっかりと僕の目の前で寿桂尼さんの名を口にした。
頭の中のピースが、音を立てて一つの絵になろうとしていた。だけどやっぱり、僕にはこの謎を今此処で解くことは出来ない。これ以上寿桂尼さんの心の中に踏み込んで行けるほど、僕は無神経な人間じゃない。
「ありがとうございます。おかげで、引っかかっていた違和感が取れました」
「そうか、なら話してよかったよ」
軽く頭を下げ、部屋を後にしようと背を向けた時、背後から呼び止める声が聞こえた。それは地を這うように、ゆらゆらと首元を絡める声だった。振り返りたいのに、身体が言うことを聞かない。目を開けた状態の金縛りなんて、生まれて初めてだ。
「なんだ、其方はわらわと世間話をするために呼ばれたと思っているのか?」
「いやぁ〜、僕が寿桂尼さんに呼ばれる理由なんて分かんないですよ」
彼女は何も言わずに、床の間の方へ歩いていき、そこに落ちているなにやら紙のような物を拾い上げた。彼女が大事そうに抱えるぶつを見て、僕は全てを悟った。それは見覚えのある掛け軸だった。
「これを見て、まだ思い出せんか?」
これはあれだ、僕が取るべき行動は一つしかない。
「すいませんでしたぁ!」
そう土下座だ。額を畳に思い切り押し付けて、誠心誠意の謝罪の意を見せる。古今東西どの場面でも使える最強の方法だ。まぁこの状況を見て、天国の祖父は泣いてるかもしれないけど。
僕の頭の上から注がれる鋭い視線は中々止まなかった。ようやく寿桂尼さんがは、重たい口を開いた。
「この掛け軸の価値を教えて欲しいか?」
顔を上げる。価値か、見るからに高そうな掛け軸だけど。現代の値段なら百万か、二百万かそれくらいだと思う。祖父と一緒によくお昼の番組を見ていた。掛け軸ならそれくらいだったと記憶しているけど。
「僕にはなんとも……」
寿桂尼さんは、僕の耳元に顔を近づけ、ぼそっと呟く。一瞬目の前に宇宙が広がった気がした。そして、徐々に自身の顔の血が引いていくのを感じる。僕は自分が取り返しのつかないことをしていた事に、ここでようやく気が付いた。後悔してももう遅い。彼女いわく城が一つ建つらしい。うん、どうしようもないっ!
その後、三日間の雑用を任せられた。たった三日かと内心喜んでいたけど、現実はそう甘くなかった。多分その三日間で数キロは痩せたと思う。もう二度とふざけはしないと心に誓った。
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