第29話 武田晴信のお悩み
1537年 3月 10日
とある部屋に、僕と承芳さんの他、親綱さんや泰能らの武士さんらが集められた。勿論招集をかけたのは雪斎さんだ。そこまで広くない部屋に、僕含め十人ほどの人が向かい合い、息の詰まるような空気が漂い始めていた。襖も全て締め切り外部と遮断されたこの部屋にいると、時がゆっくり進んでいるような感覚に襲われる。
右隣の承芳さんの顔をちらっと盗み見ると、いつもの軽薄さはなく、緊張で顔を強張らせていた。当主として立派になった安心感を覚える一方、遠くへ行ってしまうようで寂しくもある。ただ最近は、承芳さんの背中がよく見える気がする。僕もこの戦国時代に身体が慣れてきたのかもしれない。それが良いのか悪いのかは別として。
「皆に集まってもらったのは他でもない。今川家の今後の事だ」
今川の今後。つい最近北条さんに攻め込まれたし、先の事を考えるのは凄く怖い。もしかしたら武田さんが裏切るかもしれない、北条さんが更に兵力を増して攻めてくるかもしれない。そんな事を考えるだけで、鋭い鎌を持った死神に命を狙われているような恐怖心に襲われる。
「和尚、私から話させてくれないか? 私は今川の当主なのだ、いつまでも和尚に任せられん」
部屋の中の視線を一身に受けても、承芳さんは顔色一つ変えず毅然とした態度で立っている。その瞬間、心臓をぎゅっと掴まれるような痛みが走った。承芳さんの立派な姿を見せられて、はやる気持ちが抑えられない。僕も彼の隣に立ちたい。そんな気持ちが、僕の身体全体を震わせた。
雪斎さんは、授業参観の父親みたいな優しい瞳を向け、すっと後ろへ下がりその場に座った。弟子の成長を喜ばない師匠などいるはずがない。表情には出さないけど、きっと当主の自覚が芽生え始めて嬉しいに違いない。
「北条を退けたとはいえ、いまだ緊張状態には変わりない。また我らの情勢を見た尾張の織田家が、三河の松平に圧力をかけているとの事だ。三河は西進における重要な拠点となる。織田の動きをより重視するよう」
すごい承芳さん、よくもそんなスラスラと喋れるな。それだけ当主への思いが強いんだろう。
承芳さんは一度咳払いし、手のひらを口元に当てる。傍目から見て何も不自然な動作には見えない、だけど僕はその一瞬を見逃さなかった。手のひらで器用に丸めている紙に、何やら文字が見えた。それは明らかなカンニングペーパーだった。そこで、承芳さんの自信満々な表情の理由を理解し、肩の力がどっと抜けた。
承芳さんと目が合うと、彼はしてやったりとニヤリと笑った。やっぱり承芳さんは承芳さんだった。
会議はその後、不正を働く承芳さんの元でつつがなく進んでいった。雪斎さんですら見破れないなんて、無駄なところで器用なんだから。全く、見直した僕が馬鹿だったよ。
がらんと静まり返った自室に戻り、取り合えず承芳さんの話した内容を頭で反芻してみる。北条さんとは今も危ない関係である。織田さんが怖い。あとは遠州地方で堀越さんや瀬名さんという、以前まで味方だった家の方々が、どうやら北条さんと手を繋いでいたらしい。今川家も一枚岩とはいかないようだ。色んな考えがある中で、同じ道を進むというのはやっぱり難しい。
一人の考えには限界がある、というか僕一人で何かしようという気にはあまりならなかった。文殊とまではいかなくても、二人で知恵を絞れば、まぁ僕一人よりは建設的な案が出るだろう。という訳で、僕は畳を叩いて承芳さんの待つ部屋へ向かう事にした。
開け放たれた襖から、廊下を超えて庭にまで響くような金切り声を耳にする。その声を追いかけるように、情けない男の慌てた声が聞こえる。僕には両者どちらの声も聞き覚えがあった。そして彼らの部屋こそ、僕の向かう先だった。
「だからその、多恵は少し厳しいというか……」
「だから言ってる! たろ坊を甘やかしてはいけないって!」
「むぅ、受け取ってしまったものは仕方ないではないか。それに、もうこうして読んでしまったし……」
「だから届いたときに、あれほど捨てろと言ったんだ! この大馬鹿者!」
床をバンバンと叩きながら声をあげる多恵さんと、蛇の前の蛙のように縮こまる承芳さんがいた。わざわざ足を運んであげたのに、何故僕は夫婦漫才を見せられているのだろうか。このお二人仲がいいのか悪いのか、顔を出せばいつも喧嘩してる気がする。
僕はわざとらしく咳払いすると、ほぼ同時に振り返る。ほら、仲良しじゃないか。
「折角の夫婦水入らず、お邪魔してすいません」
夫婦息の合ったツッコミには耳を塞ぎ、ジトっとした視線を二人に向ける。バツが悪そうにお互い見つめ合うと、直ぐにそっぽを向く。息の合った夫婦芸夫はもう見飽きたよ。
承芳さんが右手に持つ紙には、墨で描いたにょろにょろ文字が並んでいる。彼らの会話から察するに、あの手紙で喧嘩していたのだろう。それにたろ坊と聞こえたし、武田さんも少なからず関わっているのだと思う。周りが敵だらけの今、武田さんまで妙な動きがあっては目が回ってしまう。
「承芳さん、その手紙は?」
多恵さんは口を開きかけたところで諦めたようだ。般若のような視線が突き刺さる。余り刺激しない方がいいだろう。
彼女はこの手紙を捨てたがっていたし、その前には晴信くんを甘やかさないでとも言っていた。よく意味は分からないけど、手に届いてしまった以上、内容を読まないのは良くないだろう。
承芳さんは、落ち着かなさそうにチラチラと多恵さんの顔色を伺いながらも、僕の質問に答えていく。
「ああ、武田晴信殿からの書状なのだが、なにやらあちらで困ったことがあったらしくてな。関介に助けて欲しいと催促があったのだ」
「僕に……ですか?」
これは意外だった。承芳さん、若しくは多恵さんなら理解できるけど、まさか僕充てにとは。彼らではだめで僕へ、というのには何か理由があるのだろうか。まぁそのあたりも実際に手紙を読まなければ分からない。にょろにょろ文字が読めない僕に代わって、承芳さんは僕らに聞かせるようにゆっくりと読み始めた。
「関介殿、出来ればこの書を手に取った時、姉上の目の届かないところでどうかお願い致します。何故私が書をしたためたのかと言いますと、とある悩みからでございます。私には四つ下の信繁という弟がいるのですが、どうやら父は信繁をいたく寵愛しているようなのです。信繁は私と違い文武に長け、武士らしく強い信念を持っております。これほど立派な弟に私が敵うはずもなく、このままでは私、父上に捨てられてしまうのではと怯え夜も眠れないのです。どうか関介殿には、こんな私に知恵を授けて欲しいと思っています。だからと言って、私が信繁を憎んだり恨んだりしているわけではございません。こんな情けない私の事を、彼は幼少の頃から慕ってくれているのですから。どうか父上に認められるための知恵を、関介殿から頂ければと思っているのです」
こんな感じの文章が、ずらりと並んでいた。眉根を寄せて泣きそうな晴信くんの顔が思い浮かぶ。実はもっと長いのだが、承芳さんが読んでるうちに、多恵さんの白い顔がみるみるうちに紅くなっていくものだから慌てて読むのを止めたのだ。甘やかすという意味が大体わかった。多恵さんと晴信くんとの約束。彼はあの日、泣かないと約束した。だけどこの手紙に書かれている内容は、誰の目から見ても泣き言にしか映らない。晴信くん、変わってなくてなりよりだよ。
「たろ坊、武田の次期当主とあろう者が、こんな情けない書を。これではあのクソ親父が見放すわけよ」
多恵さんは呆れた様子で額を手で覆う。彼女からしてみれば、晴信くんとしたあの約束は何だったのかと、憤る気持ちは十分に分かる。
「でも多恵さん、晴信くんも次期当主としての責任感があって、今はその少しだけ弱気になっているだけだと思うんです。甘やかすのは良くないとは思いますけど、相談に乗るくらいは……」
「うるさい、小姓のくせに出しゃばって来ないでくれる?」
じゃあどうすればいいんだ。多恵さん、なんだか意固地になっているだけな気がするんだけど。
「手紙を受け取ってしまったものは仕方がない。それに、この書の通り晴信殿が実際に信虎どのに追われることがあるかもしれない。多恵だってそうなっては嫌だろう?」
まだ納得していなさそうだけど、拗ねたように唇を尖らせてこくっと頷いた。厳しくするのも晴信くんの為を想っての事だ。あの弱気な晴信くんの事を想うと、心配にはなるけど、彼だってゆっくりと成長しているはずだ。約束は約束だけど、ずっと一人じゃなくてもいいはずだ。励ましの言葉を欲しくなる日があってもいいと思う。
「僕から返事をしておきます。それと多恵さん、一言でいいので晴信くんへの言葉を書いてあげてください。そしたら、すごい励みになると思いますよ」
「貴方たちに言われなくたって……私だってたろ坊を……」
ごにょごにょと何か喋ってるけど上手く聞き取れない。
「何て言いました?」
「うっ、うるさい!」
彼女が何を書いたかは知らないまま、返書は晴信くんの元へ送られた。詮索するなんて野暮な事はしない。どうせ弟思いの優しい彼女の事だ、晴信くんを気遣う言葉を書いているに違いない。まぁ、多分かなり厳しい口調だと思うけど。
この手紙で、晴信くんが勇気を貰えたら嬉しい。遠い甲斐の国で、今頃この手紙を読んでくれてるといいな。
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