第12話 花倉の乱(2)
意識を自分で操れるようになった時、ようやく自分が馬に揺られていることに気が付いた。ほぼ無意識の状態でも馬から落ちていないのは、人間の生きる事への執念なのだろう。必死にしがみつく背中は細いけど逞しかった。
いつの間にか辺りは明るくなり、起きたての太陽に反射した朝露が無数の光を映していた。シャワーで流した後みたいな爽やかな朝だけど、僕の心にはどす黒い染みが流れることなくこべりついていた。
段々と馬の動きも緩やかになり、前方を見るとお寺らしき建物が見えた。あれが雪斎さんの言っていた善得寺なのだろうか。そうでなくても、この馬が目指している場所が明らかに前方の寺なので正直どうだってよかった。この重たい身体を休められる場所なら何処でも良い。
「関介、着いたぞ。善得寺だ」
いつもと変わらない緊張感のない声で言った。だけど僕には承芳さんの言葉に返す力も無かった。せっかく僕を元気づけるために声を掛けてくれたのに、ちくりと罪悪感で胸が痛んだ。
馬の脚が完全に止まっても降りようとせず、僕は承芳さんの背中に顔を埋めて待ち続けた。その内観念したのか、子どもを宥めるように僕の頭を優しく撫でた。
「恐らく和尚もいる、他の仲間もいるはずだ。もう大丈夫だ」
「…………うん」
子どもみたいにこくんと首を振る。承芳さんの言葉が温かかった。体を包まれるような安心感に抱かれて、僕は暫く背中に顔を埋め続けた。
本堂の床に自分の素足が触れた瞬間、自分が生きているのだと再確認できた。生命の危機の現場に立ち会う機会なんて、現代では生涯に一度あるかどうかだろう。そんな体験をしただけに、今の今まで生きた心地がしなかった。
雪斎さんたちは既にお寺で僕らの帰還を待っていた。何時敵に襲われてもいいように臨戦態勢を敷いており、張り詰めた空気に肌がひりついて痛かった。
僕らを隠すためだろう、本堂を二回り小さくした倉のような建物で待機するよう指示を受けた。通された倉に到着すると、ひんやりと冷たい空気を全身に浴びた。普段は使われていないのか埃っぽい匂いが鼻についた。
「ふぅ、やっと落ち着けるな関介。そうだこれ、関介顔や髪が血で汚れているからそれで拭いてくれ」
受け取った布で顔を拭うと、心の奥から不快に思う触感が手のひらに広がった。それは人間の血液だった。目の前がぐにゃりと歪み思わず頭を押さえて視線を落とした。脳裏にこべりつくのは、喉を刀で貫かれて血しぶきを上げる人の姿だった。非現実的な光景なのにやけにはっきりと思い出せるのが、それが現実だと僕に突き付けてくるようだった。
「落ち着いたらでよいから、その、此処に着替えを置いておくからな」
少し言いずらそうに口籠り、苦笑いを浮かべる。承芳さんの腕の中には一着の袴が抱えられていた。
「私もこの戦が初陣だ。不安だし今も心の中は恐怖で一杯だ。だからその、なにも可笑しい事じゃないからな」
そこでようやく自分が粗相をしたことを思い出し、一気に現実へ引き戻された。首元から頬、耳が徐々に火照っていくのを感じ、袴をひったくると直ぐに後ろを向いた。自分の袴の股間部分を改めて確認すると、そこには立派な地図が広がっていた。恥ずかしさと情けなさが同時に襲い、つい涙が溢れそうになった。
腕の中の袴が異様に重たく感じる。今になって膝が自らの意思に反してガタガタ震え始め、僕はその場にしゃがみ込むと腕の袴に顔を埋めた。
「怖かったです。死にそうになりましたもん。こんな経験、生まれて初めてですよ」
「関介は大層怖がりだからなぁ」
承芳さんはからからと笑いながら言った。人を嘲るのではなく、背中をそっと押してくれるような優しさがあった。だけどその優しさが、僕の罪悪感の穴をより広げていった。
「でもそれよりも、何も出来なかった自分が情けないんです」
「私だって関介と逃げるのが精一杯だったさ」
「今まで僕は助けられてばっかりなんです! 皆の邪魔をするのはもう嫌なんです! 皆の足手まといになるくらいなら、死んだ方がましです!」
言葉を吐き出しているうちに心の奥底に眠っていた感情が呼び起こされ、忘れていた涙がやっと込み上げてきた。室内に響き渡る自分の甲高い叫び声こそが、僕の心の弱さの塊だった。こんなに僕は弱いのかと自己嫌悪に沈み、今にも自らの弱さに支配されそうになっていた。
その時僕の頬に柔らかな手のひらが触れた。それは承芳さんの木漏れ日のような温もりだった。おもむろに顔を上げると、承芳さんの視線とぶつかった。
「死んだ方がまし、そんな寂しい事言わないでくれよ。此度は私が助けたから、次は関介が私を助けてくれ。そうやって私と関介で痛みも悲しみも半分こしよう」
「半分こ……ですか?」
「一人で背負う重たい荷物も、二人なら軽くなるだろう?」
暗く沈んだ空気を吹き飛ばすように、いつもの調子でにかっと笑いかけてくれた。カーテンを開け放った早朝のように、眩しい光が僕の頭の上に降り注いだ。
「ふふっ、承芳さんらしいですね」
自然と口から笑い声が漏れるのと同時に、瞼に溜まっていた泉がひたひたと床に落ちた。折角貰った袴は、僕の涙や鼻水で濡れてしまった。視界がぼやけて僕は堪えきれない嗚咽を漏らした。胸の中のさざ波は、いつの間にか凪いで澄み渡っていた。
恵探さんの軍によって、館が一時占領されたと聞かされたのは同日の夜だった。夜襲に対応できずあえなく本拠地を奪われてしまったそうだ。僕らが逃げるのを助けてくれた親綱さんは無事らしく、胸を撫で下ろしてほっと息を吐いた。ただ予断を許さない状況にある事は間違いない。承芳さんのお母さんである寿桂尼さんが未だ館にいるからだ。
善得寺の本堂では、承芳さんに味方する武士さんによる会議で賑わっていた。賑わいと言っても、怒号が飛び交うそれはまさに修羅場だった。例の如く僕もその会議に呼ばれたが、隅っこで承芳さんの陰に隠れて小さくなっていた。
「今日にでも今川館を奪還すべきだ! 我らだけでも兵を起こし、福島を追い払おうぞ!」
「馬鹿垂れ! 今むやみに兵を出しても、被害が大きくなるだけだ! 今は時を待ち、北条の兵と共に攻め込むべきだ!」
「それでは遅すぎる!」
「いいやっ、今攻め込むは時期尚早だ!」
ああ怖い。絶対関わらないでおこう。承芳さんも今回の件は当事者とあって、真剣な視線を向けていた。皆の視線の先、本堂の中央に置かれた机には大きな地図が広げられており、文字が読めない僕には勿論さっぱりだ。
「雪斎殿はいかがするおつもりで?」
「慌てる必要は無い、と考えておる。阿呆の恵探といえど、寿桂尼様に手を出すほど愚か者でもないはずだ。それに岡部殿の兵の被害もそれほど大きくないだろうし、直ぐに今川館を奪い返すことは出来るだろう」
「その後どう追い詰めるかが重要なのだな?」
「そうだ承芳。ほう、少しはましな顔つきになったではないか」
「今更四の五の言っていられないからな。今の私にとって、兄上はただの敵だ」
承芳さんの横顔には微塵の迷いも感じられなかった。あぁそうか、もう覚悟を決めたんだな。なら僕もその気だ。情けは捨てなくては。それに僕にを恥をかかせた恵探さんへの恨みは絶対に忘れない。
その時がしゃがしゃと鎧を鳴らせて、一人の武士さんが本堂に上がり込んできた。
「報せに御座います! 今北条氏康様の軍勢が到着したようです!」
途端に部屋中が歓喜の声に沸いた。多分これで勝てる……のか? 僕にはよくわからないのでいまいち喜びにくい。承芳さんに聞いたところ、北条さんは関東ですごく力を持っているようで、僕らの味方になってくれれば恵探さんくらいけちょんけちょんに出来るらしい。恐るべし北条家。
「親綱殿が今川館を奪還さえすれば、後はゆっくり追い詰めるだけだ。孤立無援の福島勢がどう動くか今から楽しみだなぁ。あぁ、考えるだけで酒が進むわ」
出たブラック雪斎さん。口の端を吊り上げて、ニタニタと笑う姿はまるで悪の組織のラスボスだ。心強いかどうか怪しいところだ。勿論味方……ですよね?
「恵探兄さん、私は貴方を…………」
承芳さんの呟きは、会議の賑わいの中に消えた。この争いに勝てば、恵探さんは……
それは承芳さんが受け入れたことなんだ。僕がどうこう言う事じゃない。胸に残るしこりを、無理やり胸の奥にしまい込んだ。
1536年 5月 26日
雪斎さんの言った通り北条さんの力を借りた親綱さんは、僅か一日で館を取り返した。態勢を崩された恵探さんの兵は、恐らくどこかの城に立て籠もって僕らを迎え撃つだろうと雪斎さんは言っていた。ただこちらには北条さんという、お隣の国の方々もいるらしく九割がた勝てるだろうとの事だ。
遂に最期の時も近い。承芳さんはどう思ってるのだろうか。ただ一つ、承芳さんの満足の行く最期を迎えられたらと思う。それだけが僕の望みだった。
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