第11話 花倉の乱(1)
1536年 3月 25日
結局昨日の件以降、口をきかないまま今日を迎えてしまった。僕が起きた時、承芳さんの姿は既に無かった。心臓の音がやけにうるさい。そうか、僕は今一人なんだ。心の奥底で湧き出る恐怖心から逃げるように、肩を抱いて布団に潜った。
たった一人の僕は、やっぱり戦国時代で浮いた存在だ。現代では紛れもなく僕なのに、戦国時代では自分じゃないみたい。今に身体が透けだして消えてしまうんじゃないか、そんな恐怖心に思わず涙が滲んだ。そんな僕を救ってくれたのが承芳さんだった。
頬を軽く叩く。弱気になっちゃだめだ。布団を蹴飛ばすとその勢いのまま寝間着を脱いだ。まだ冷たい風が華奢な身体に打ち付けまた部屋の外に帰っていった。僕は袴の帯をきゅっと結ぶと、はやる気持ちで部屋を出るのだった。
氏輝さんと彦五郎さんが亡くなって一週間が経つが、屋敷の中には未だ浮足立った空気が漂っている。せわしなく通る人で、廊下の軋む音が絶えることは無かった。
その空気に当てられると謎の焦燥感に駆り立てられるため、僕はなるべく目線を下に落として廊下を歩いた。向かう先は、承芳さんがいない今僕の唯一心を落ち着かせられる場所である道場だ。
暗くじめついた部屋の前を通った時、そこが彦五郎さんの部屋である事に気が付いた。部屋の中からは、湿った空気を一掃するような凛とした声が聞こえてきた。
「これ、いつまで二人の死を嘆いているのです。二人はこの苦しみに満ちた浮世から解放されたに過ぎません。だからもう泣くのは止めなさい」
諭すように告げると、今度は男のすすり泣く声が小さく聞こえてきた。女は強いという言葉にすんなりと納得できた。
どこかで聞いたことのある声だ。この数日間激動の日々が続いて、駿府にやってきたのが遥か1年も前のように感じる。そのせいで前の事はあまり覚えていないし、そもそも声だけで人を当てられるほど聞き分けも良くなかった。
これ以上の立ち聞きも悪いと思い部屋を後にし、さっさと道場へ向かうことにした。
道場に入ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。道具の置いてある物置へ向かう途中、裸足で床を踏む気の抜けた音がやけに煩く感じた。
竹刀を握り大きく深呼吸をした。色々な事が起きたけど今は稽古に集中だ。竹刀の持ち手を強く握り頭の上まで大きく振りかぶると、そのまま勢いに任せて腕を振るう。これを百回ほど続けたころ、流石に腕に疲労が溜り一度床に置いた。背中がじんわりと汗ばんできたし、もう一セットで終わりにしようか。竹刀を拾い上げると同じように振りかぶった。
「きゃっ!」
その瞬間何かがはじけたような乾いた音が響いた。手元の竹刀を見ると、真ん中あたりに大きなひびが入っていた。どうやら寿命のようだ。
僕は急いで周りを見渡し、誰もいない事を確認するとほっと肩を撫で下ろした。竹刀が折れた衝撃で咄嗟に女の子みたいな声が出てしまった。僕が女の子と間違われるのはこういう所なのかもしれない。
使い物にならなくなったガラクタを投げ捨て、再び物置まで竹刀を取りに行く。今度はしっかりとした物を選ぼう。ただどの道具も年季の入った物ばかりだった。
使える道具を物色していると、道場の方で物音がした。人が来ること自体は普通の事なのだけど、物置の戸の隙間から見えたのは一人の女性の姿だった。女性が道場に居るのを見るのは初めてだ。僕は咄嗟に身を潜めその女性の姿を目で追った。
見覚えがあった。彼女は承芳さんの母親の寿桂尼さんだ。そして先ほど彦五郎さんの部屋から聞こえてきた声が彼女であることに、今更ながら気が付いた。
寿桂尼さんはふらふらとした足取りで部屋の中心まで歩いていくと、その場で膝を折ってしゃがみ込んだ。その姿はまるで余命を宣告された病人のようだった。
「…………竜王丸、彦五郎、どうして親を置いて先に逝くのです……」
何かに縋るような儚い声だった。さっきの部屋の凛とした声が嘘のようだ。
その時立て掛けてあった竹刀がバランスを崩した。しまったと気が付いたときにはもう遅く、道場内に木片と床とがぶつかる乾いた音が響いた。
「……そこに誰かいるのです?」
「えっと、あのう……盗み見してすみません!」
ばれてしまっては隠れ続けるわけにもいかず、物置から直ぐに出てきて頭を下げた。
「其方は……芳菊丸の……」
「関介です。その、寿桂尼さんですよね? 承芳さんのお母様の」
おもむろに首を縦に振った。赤く腫れた目で僕の方を見据えるも、やがて目を伏せ乱れた服を丁寧な手つきで整え厳かに立ち上がった。姿勢の良さは、まさに品位の高さを表していた。
「見苦しいものを見せてしまったな。稽古中のようなので、直ぐに退くとしよう」
「まっ、待って下さい!」
「何だ? 恵探の事であったら、わらわから申し上げる事は何も無いぞ」
ぐぬぬっ、流石に鋭い。承芳さんのお母さんなだけある。だけど今はその方が話も早くて好都合だ。
「まさにお兄さんの事についてです。貴方の息子さんの争いの事は知っていると思います。貴方の方から言えば、この争いも」
「申し上げる事は無いと、わらわは言ったが?」
静かだけど威勢がある声に苛立ちの色が見えた。当たり前だ、どこの馬の骨かも分からない人に、しかも二人の息子を亡くした傷心中にだ。だけどこの人が動けば、この争いも止められるんじゃないか。いや、もはやこの人にしか止められないと思う。
「貴方にしかできない事なんです! 二人の間に入って、この争いを止めてくれませんか!」
「穏便に事が進むよう恵探の方には既に伝えた。まぁ返答は察しの通りだったがな」
ふっと嘲笑気味に鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
自分の短絡さに唇を噛んだ。母親が口を出していない訳が無いことぐらい分かっただろう。自分の事で一杯になるあまり、周りが見えていなかった。
「すっ、すみません……それでは、争いはもう止められないんですね」
「初めから分かっていたことだ、二人の間で争いが起こる事は。こうなってしまっては、芳菊丸が恵探を討つ外ない」
「寿桂尼さんは、承芳さんの味方をするんですか? 恵探さんだって息子さんですよね?」
「あの子、恵探は庶子だ。実の子ではない。嫡子の芳菊丸の味方することは当然であろう」
だからか。やけに恵探さんが承芳さんに似ていないと思っていた。勘の鋭さも承芳さんの兄弟にしては鈍いなと感じていた。
実の子だから、先に生まれたからとかで兄弟間で差が生まれる事は、戦国時代の普通なのだろう。それがこの時代の常識だとしても、それはすごく淡泊だと思うしやっぱりおかしい事だと思う。
僕は一歩前に出て強い口調で迫った。
「そういう煩わしい考え方のせいで、承芳さんはこの争いに巻き込まれてると思いますよ」
寿桂尼さんは何も返してこなかった。ただ寂しげな、切ない目を向けるだけだった。
「寿桂尼さんは……」
「待ちなさい。其方の顔、もっとこちらに見せてくれんか」
道場を後にするのかと思ったら、急にこちらへ歩み寄って来てずいと顔を近づけてきた。心底不思議そうな瞳で僕の顔を覗き込んだ。
余りに急な展開に、ドギマギして動けなかった。こんな美人の顔がすぐ近くに。
「其方の顔、あの子に似て……いや気のせいか。気分を害したなら申し訳ない」
「にゃっ、にゃにがですか?」
思い切り上ずってしまった。自分の顔に熱が帯びるのを感じる。ただそんな僕を気にも留める事なく、寿桂尼さんは道場を後にしようとしていた。
「ちょっ、寿桂尼さん! あの子って誰ですか!? それにまだ話は終わってませんよ!」
「どうかいつまでも芳菊丸の味方であってくれ。私が口を出せる事はこれだけだ」
寿桂尼さんは振り返ることなく道場を後にした。その後ろ姿を見送ると、気が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。ぼうっと壁を見ながら、あれこれと考えを巡らせる。考える事が増えてしまった。
ただ考えていても何も変わらない。承芳さんの後継者争いの足音は、ゆっくりと確実に近づいてきている。
稽古の気分は完全に失せてしまい、その後直ぐに自室に戻ってきた。いつの間にか部屋の中央では、戻ってきた承芳さんが真剣な眼差しで本を熟読していた。まぁ春画なんだけどね。
「関介、一体何処に行っていたのだ」
「ちょっと道場までですよ」
真剣に読んでるのかと思ったら気づいていたのか。承芳さんはこちらを横目でチラチラと見ている。どうせ自分から謝るのが恥ずかしいとかそんなところだろう。小さなため息をつくと、この小心者の隣に腰掛けた。
「えっと、その、昨日はごめんな……」
「昨日はすまなかった!」
へっ? 承芳さんは僕の言葉に被せるように早口でまくし立てた。
「ふっふっふっ、これで私の方が先に謝ったぞ。これで私の勝ちだ、ってどうした関介!」
「うるさいっ」
僕は承芳さん目掛けて思い切り抱き着くと、彼のお腹に顔を埋めた。袴や本がめちゃくちゃだけど、そんなのどうでもいい。
「急に抱き着いてきてどうしたんだ。私はてっきり脛を攻撃してくると思ったんだが」
「うるさいっ」
「本当にどうしたんだ?」
うざいけど、イラッとするけど。それ以上に、自分がちゃんとこの時代に生きている実感が沸いてほっとした。承芳さんの隣はすごく暖かかった。
1536年 5月 24日
この日館の中に衝撃が走った。今まで玄広恵探と名乗っていた恵探さんが、今川良真と改名したらしい。僕にはどうまずい事か分からなかったけど、自分こそが今川の当主にふさわしいというアピールとのことだ。
そしてそれは戦争が近い事を暗に示しているらしい。もう仲良くは……出来そうになかった。
雪斎さんから、明日には善得寺というお寺に避難することを告げられた。僕らもこうなっては従うしかなかった。もう僕らにできる事は残されていない。
それでも僕は楽観視していた。争いが起こると言われもう何日も経っていた。心の奥底で、本当は戦争なんて起きないのではとさえ思っていた。
だけど戦国時代は、そんな甘い世界では無かった。
1536年 5月 25日
今日の未明。僕の睡眠を破ったのは、屋敷中に響き渡る地鳴りのような怒号だった。
何かが起きていることは直ぐに分かった。もしかして……頬に嫌な汗が伝った。直ぐに状況を掴みたかったけど、人口の灯りの無い部屋では、すぐ目の前すらも見えなかった。
「承芳さんっ! 雪斎さんっ! 何が起きているんですか!?」
慄く声で呼んでも返事は無かった。
その時閉まり切っていた障子が、破れそうな勢いで開け放たれた。明らかに承芳さんではない、乱暴な足取りで部屋の中に踏み入ってきた。姿を現したのは灯りを手にする男とその隣には、すらりと伸びた日本刀を握る屈強な男だった。二人とも目が血走り尋常じゃない様子なのは直ぐに分かった。
「だ、だれですかっ! 承芳さんの護衛の方ですか?」
「今承芳と言ったな! こいつ承芳の味方だ、殺れ!」
灯りを持つ男が叫び散らかすと、日本刀を持つ男が乱入してきた。
この人たちは敵だ!
「やっ、やめて!」
「死ねぇ!」
男が日本刀を振りかざす動きが、何故かやたらスローに見えた。
木材を引っ搔くつんざく音が目の前で聞こえた。後ずさる僕の股の間に、日本刀が突き刺さっていた。
「あっ、あぁぁ……」
袴に熱いものが広がった。怖い。その感情に頭の中が全て塗りつぶされた。
「ちっ、逃したか。だがこれで……がはっ!」
男の喉元に刀が。そう思った瞬間血飛沫が宙を舞い、世界が赤く染まった。
「お怪我は無いですか関介殿!」
「やめてっ、もう怖いことしないで!」
「安心してくだされ! 私は貴方の味方です!」
「やだっ! 離してっ! 助けてっ、承芳さんっ!」
「落ち着きください関介殿! あぁ、直ぐにでも敵が押し寄せて来るというのに」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い………………助けて、承芳さん。
「そんな泣いて、どうした関介」
真っ赤な世界に一滴の透明な雫が落ちた。声の聞こえた方へ振り返ると、そこには承芳さんが僕の顔を覗き込んで笑っていた。
「しょうほう……さん……」
「すまんな、隣にいてやれなくて。だが謝るのは後にさせてくれ、今は敵から逃げるのが先だ」
「承芳様、どうして此処に!? 雪斎殿と共に先に避難したのでは」
「関介を置いて我先に逃げられるものか。それより親綱殿、後を任せても良いか?」
「何をおっしゃいますか、その為に私が来たのです。早く関介殿を連れて外へ!」
強く手を引かれて無我夢中に走った。背中に浴びせられる怒号や悲鳴が耳の奥で何度も反響した。真っ白に塗りつぶされた頭の中で、湿った袴の気持ち悪さは喧騒の中に消えていった。
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