第17話 武田家

 1537年 2月 1日


 暦の上では春らしいが、まだまだ冬の寒さは健在だった。二月の旧暦は如月。この前承芳さんに教えてもらったのだけど、この如月の語源は”衣更着”という漢字から来ているらしい。残寒を耐えるために、衣服を更に重ねるから衣更着。それはただの駄洒落じゃないのかと突っ込みたくなったが、語源なんて大抵はそんな言葉遊びなんだろうと自分を納得させた。

 二月の寒空の下、小柄ながら丈夫な脚で地面を蹴る馬に僕は跨っていた。正確に言えば、その馬を乗りこなす承芳さんの後ろにだ。戦国時代にタイムスリップして一年経つが、未だ一人で馬に乗る事が出来ていない。以前一度だけ練習させてもらったのだが、乗って三秒で落馬しそれ以来練習させてもらえず、移動の時はこうして承芳さんの背中にしがみついているのだ。いざという時が来たらどうするんだと文句を言ってみたが、その時は走れと一蹴されてしまった。昭和の体罰教師じゃないんだから。まぁ今は昭和よりはるか昔の戦国時代なんだけどね。

 承芳さんという風よけがあるものの、外気に触れる耳の感触が無くなってくるほどには寒かった。その為、出発の前にいつもの袴の上に一枚羽織を着させてもらった。そういう意味では、僕は如月を楽しんでいると言えるのかもしれない。


 今回は馬に乗って五日間の小旅行だ。目的地は甲斐の国、今でいう山梨県だ。勿論旅行というのは冗談で、用事は武田さんとの面会らしい。それ以外の詳しい内容は聞かされていない。承芳さんも知らないらしい。雪斎さんにそれとなく聞いてみたが、着けば分かるとはぐらかされてしまった。僕と承芳さんは顔を見合わせ、不思議そうに首をかしげた。

 今日は前回のような三人での移動ではなく、およそ五十人ほどの部下さんたちを引き連れての大移動だった。あの時はまだ承芳さんの跡継ぎが決まってなかった。今川家の当主となった今、たくさんの護衛が付くのも当然だろう。ただ承芳さんの背中にしがみつく僕としては、横や後ろからの視線がとても気になってしょうがなかった。また聞いた話によれば、この辺りは山賊が多く出るらしい。そのせいか護衛の方々もいつになく気を張り詰めていて、ピリピリとした空気が僕の肌を強張らせる。口も開けない空気間の中、枝を踏みしめる音さえも僕を異常にびくつかせた。


 「見えて来たぞ、あれが武田家の本拠地、躑躅ヶ崎館だ」


 ただ僕の気苦労も知らない承芳さんは、遠足に来た子供のような無邪気さで言った。緊張している自分が馬鹿らしくなる。一瞬苛立ちを覚えながらも承芳さんの指す方を見ると、僕はあんぐりと口を開けたまま暫く呆けてしまった。視線の先には、小高く盛り上がった石垣の上に、堅牢そうな柵がずらりと並ぶ。何か所には見張り台のような建物もあり、まさに敵を迎え撃つ要塞といった景色だ。何となく、駿府の館よりも頑丈そうで守りが強そうに思える。武田家さんが今川家よりもっと強大な国なのかもしれないと思うと、背中に嫌な寒気を覚えた。

 馬を降りて案内役の人の後をついていくと、これまた頑丈そうな立派な城門が目に飛び込んできた。一人の力じゃびくともしないだろう。僕だったら十人いても足り無さそうだ。その城門は、僕たちが目の前にやってきた途端、重たいものを引きずるような激しい音を立てながら開かれた。耳をつんざく悲鳴のような音は、待ち受ける恐怖を暗示させるようで僕の心を強く揺さぶった。承芳さんの裾を掴んで、逃げ出したい気持ちをなんとか抑えた。

 門が開くと、例の如く大勢の強面の武士さんたちが出迎えてくれた。このお出迎えはいつ見ても怖い。ただ目の前にずらりと並ぶ武士さんの中に、一人だけ浮いた存在の男がいた。やや猫背気味でひょろりとした体は、野菜のゴボウを思い起こさせる。その男は僕らの顔ぶれを見るなり、嬉しそうに歩み寄ってきた。


 「かような辺鄙な地までわざわざ足をお運び頂き、誠に有難うございます。さぁ中へお通り下さい。積もる話もあるでしょうし、腰を据えて話せる場所まで案内いたしますよ」


 一歩前に出てそう話す男は、終始低姿勢な態度で屈託のない笑顔を浮かべていた。目元の皺から年齢は五十を超えていそうだ。顎から細長い髭を生やし、何故かあまり迫力を感じないような人物であった。大勢の武士さんの真ん中に立っているから、多分武田家の代表の人なんだろうけど、失礼だが館の壮大さに似つかわしくない人だというのが第一印象だ。

 おじさんはゆったりと身を翻すと、館の奥へ消えていった。おじさんの姿が見えなくなった事を確認すると、雪斎さんは僕らの方へ近づいて来て、なにやら神妙な面持ちで耳打ちする。


 「お前たち、先の男はかなりの危険人物だ、何を話そうと真に受けるでないぞ。あ奴は人を誑かす術を持っている。決して気を許すな、分かったか?」


 「なんでですか? 普通に良い人そうでしたけど」


 すごい睨まれた。怖いのでそんな顔しないで欲しい。ただ、あのおじさんが危険人物だとは思えないのは本当なのだ。せめてその訳を教えて欲しい。理由が無いのに人を疑うのは、たとえ雪斎さんのいう事でも気持ちが悪い。

 雪斎さんはやれやれと額に手をやり、面倒くさそうに嘆息を溢した。いつもとは違う態度に、思わず肩をびくつかせて何も言えなかった。すると、状況を察した承芳さんがそっと教えてくれた。


 「関介が知らないのも当然なんだが、今の男は現武田家当主の武田信虎なんだ。あの男はかなりの戦争狂でな、従わない者をとにかく武力で抑えるような男だ。それだけでなく、服従させるためにはどんな汚い手も厭わない、非情で残忍な性格としても有名なんだ」


 その話を聞いて、やっと雪斎さんの言いたいことが分かった。恵探さんの件で懲りたつもりだったけど、やっぱり自分の性格は中々変えられないと実感させられる。


 「そういう訳です。特に関介殿が一番危ないと思っていたんです。貴方は人を疑う事を知らないので」


 肝に銘じておきます。以後足を引っ張らないように気をつけよう。

 案内役に連れられ館の奥へと進んでいった。駿府の館同様、多くの部屋が通路で繋がってる作りになっていた。この仕様はどこも同じなのだろうか。ふと外で稽古をしている人が多くいる事に気が付いた。それもがたいの良い男がずらっと並んで、寸分の狂いもなく同時に竹刀を振っていた。駿府の稽古が足りないというより、甲斐の武士さんたちが鍛えすぎなのではと思う。逆に考えると、それだけ鍛えなければならないほど戦争が絶えないという事だろう。それなら平和な駿府の方が僕はいいなと思う。


 ふと視線をとある屋敷の方へ向けると、小さな人影がこちらを覗いているのが見えた。それは僕と同じくらいか少し下くらいの年頃の少年だと思う。遠目から顔だけひょこっと出して、僕らの動向を監視しているようにも思えた。心配そうに眉を下げ、何だか焦っているようにも見える。彼の視線の先が気になって、思わずじっと見つめてしまっていた。


 「どうした関介、そんな呆けた顔して。向こうに何かあるのか?」


 呆れた様子で言う承芳さん。いや、何かというかあの建物の奥に……いない? もう一度建物の影を確認すると、さっきまでこちらを見ていた少年の姿は、いつの間にか煙のように消えていた。どういうことかと戸惑う僕をよそに、寝ぼけてるのかと承芳さんはさっさと歩いて行ってしまった。

 

 僕ら三人が通されたのは、真ん中に机だけが置かれた殺風景な大部屋だった。部屋の奥を除き、三つの方向全てが障子になっており大変日当たりが良い。冷えた体に丁度良い部屋を用意してくれて、なんだか気の利ける人だなと……って危ない危ない。言った傍から気を許す所だった。

 部屋の奥では、さっきのおじさん、もとい武田信虎さんが、湯呑を啜りながら待っていた。机の上の三か所にそれぞれ湯呑が置かれており、おそらくそこに座れという意味だろう。信虎さんの一番近くに雪斎さんが座り、僕は最も離れたところの席に腰掛けた。早速湯呑を手にすると温かい感触が手のひらに広がり、冷えた身体に染み渡った。

 暫し部屋内に沈黙が訪れた。どちらも口を割る訳でもなく、目の前の湯呑に口をつける訳でもなく、互いを牽制し合うような物々しい空気が流れる。痺れを切らしたのか、信虎さんはこの空気を静かに破った。


 「わざわざかような遠くまでご苦労だったな。のう雪斎よ、お前とは半年ぶりか。停戦を吹っかけて来た時は何事かと思ったが、後継者を争っていたとはな」


 さっきまでと言葉遣いも態度も一変して、あの城門の前の低姿勢の男とは思えなかった。男の声色は、つかみどころのない色をしている。以前面会した承芳さんのお兄さんである氏輝さんと、少し似たものを感じた。ただあの氏輝さんですら、その中に感情の起伏が見え隠れしていたけど、この人の声には全くの感情が籠っていない。まるで人間ではなく物に喋りかけているかのようだ。


 「武田のお力添え、大変感謝しております」


 雪斎さんの感謝の弁には全く興味が無いのか、直ぐに視線を承芳さんに向けていやらしい笑みを浮かべた。


 「お前が今川家当主、今川義元か。惜しいのぅ、お前がもう少し早く当主になっておれば、今川など簡単に滅ぼせたものを。のう義元殿、兄上に感謝せねばならんなぁ」


 明らかな挑発発言だ。隣で聞いてる僕の方が怒りで爆発しそうだ。承芳さんの苦労も知らないで、この信虎という男許すまじ。

 だけど承芳さんは、動揺した顔を一切浮かべず信虎さんの発言を受け流した。こういう所を見ると、すごい成長したなと思う。なんだか当主らしいというか、すごく頼もしく思えた。

 それで興味を無くしたのか、信虎さんの視線はまた雪斎さんの方へ戻っていった。


 「まぁ良いわ。ところで雪斎よ、義元の隣の小僧は何者だ? 小姓にしては幾分ひ弱に見えるが」


 この人、僕のこと一目見て男だと認識した。いや普通の事であって欲しいんだけど。話題に上がってしまった以上、承芳さんの背中に隠れる訳にもいかず、一応会釈だけしておいた。


 「彼の名は関介といい、承芳の小姓を務めております。確かに見かけは軟弱に見えますが、剣の腕は確かなものを持っておられるのですよ」


 なぜ僕の事を勝手に話してしまうのか。あまり僕の剣道が強い事を広めて欲しくないんだよな。興味を持ったのか、信虎さんは僕の方を舐めまわすように見つめてきた。その視線には、粘着性のある液体が身体を弄るような気持ち悪さを覚えた。


 「其方面白い男だな。小童よ、至る途中で武士たちを見て来ただろうが、中々骨のありそうな者も多くいただろ。どうじゃ、甲斐の国もまた良いところだろう?」


 そんな事聞かれて、そうでもないなんて言える訳ないじゃないか。それに、外で稽古していた武士さんたち。皆さん揃って強そうだった。余計な事を言って、手合いでもさせられたら恐ろしい。ここはありきたりな事を言ってお茶を濁すとしよう。


 「はい、甲斐の国もすごい良いところだと思います。あっ、来る途中でみた富士山も綺麗でしたよ。駿府から見た富士山と違って、”裏富士”も風情があっていいですね」


 言い終えた瞬間、信虎さんの表情が一気に強張っていった。眉間に皺を寄せて、明らかに不機嫌そうな表情を浮かべる信虎さん。僕そんなおかしな事を言ったか?


 「裏、富士か。そうか、駿府が表で、甲斐が裏という訳か。其方、やはり面白い男よのう」


 あっ……今僕、裏富士って言ったっけ。まさかそれが地雷ワードだったとは。助けを求めようと承芳さんの方を向くと、我関せずを決め込むように前方をじっと見つめていた。まさかこの人、僕を裏切ったな。

 すると、雪斎が物凄い速さで僕の傍まで近づいてくると、鬼の形相で早口にまくし立てた。


 「関介殿? 体調が優れないようなので、一度部屋から出て休憩してはどうですか?」


 「ひゃっ、ひゃいっ!」


 言葉こそ穏便だが、その表情からはただ一言、部屋から出て行けという意味だけ読み取れた。僕はこの凍り付いた部屋から逃げるように身を翻した。余りの出来事に足が震えて上手く立ち上がれず、這うようにして部屋を飛び出した。

 改めて思い出す、あの雪斎さんの表情。今まで見たことのない鬼の形相だった。襖の奥から、雪斎さんが信虎さんに謝る声がうっすらと聞こえてきた。僕の迂闊な発言のせいで、とんだ迷惑を掛けてしまった。僕は気が抜けたように襖に背中を持たれて、外の景色を眺めた。風景がぼうっと揺らめく中、視界の端に映ったのは壮大に構える富士山だった。澄んだ空気の中、今の僕にとっては嫌になるほどはっきりと見えた。


 僕は勢いよく立ち上がる。こんな所でうじうじしていても時間の無駄だ。とはいえ、部屋に戻るのは流石に怖い。という訳で、僕が思いついた案はこの躑躅ヶ崎館の探検だった。先にいっておくとこれは興味本位ではなく、駿府の館に少しでも役に立つものが無いかを探すための探検なのだ。

 思い立ったが何日と言うので、縁側を蹴って館の探検に向かった。ただやはり、うろうろしているのがばれて騒動になっては、また二人の迷惑になってしまう。それだけは気をつけようと心に決めた。


 「そこで何やってるの?」


 さっそく見つかってしまった。右方向から声が聞こえ、それは風に吹き飛ばされてしまいそうなほど小さな声だった。だけど、それ以上に透き通る清水のような、美しい声だった。恐る恐る振り向くと、そこには一人の少女が佇んでいた。着物には、この館にも名を冠する美しいツツジの柄があしらわれており、淡い青紫色と富士にかかる雪のような美しい肌とが相まって思わず見惚れてしまっていた。


 「私、質問しているのだけれど?」


 我に返って、見惚れていた自分が恥ずかしくなる。というか、決意して一秒でばれてしまうなんて。ただ、相手は女の子だしそんなに大事にはならないかもしれない。


 「えっと、しょうほ、じゃなくて義元様の付き人としてやってきた関介です。その、実は僕も何をしにやってきたかとか聞かされてなくて」


 「今、義元って言ったかしら」


 少女は張りの無い小さな声で続けた。少しだけ棘のあるような声にも聞こえる。その静かな勢いに押されて、僕は何も言わずこくんと首を縦に振った。


 「そう。分かったわ」


 それだけ言うとおもむろに振り返り、直ぐにその場を後にしようとした。なんだか此処で彼女を見失ってはいけないという、不思議な気持ちが湧いてきた。勇気を振り絞り、僕は彼女の背中に声を掛けた。


 「あっ、あのっ! 貴方、名前は?」


 彼女は歩みを止め、着物をはためかせ振り返った。彼女の長く水の流れのような髪が宙を舞い、冬の風に乗って揺らめいた。


 「多恵。それが私の名前」


 その時、背後で土を踏みしめる音が聞こえ、直ぐに振り返った。そこにいたのは、あの時僕らの事を見ていた少年だった。少年は、走ってきたのだろうか息を切らしながら言った。


 「お姉、そんなとこにいたのですか。晴信、すごく探しましたよ。って貴方!」


 「こ、こんにちは。えっと、さっき僕らの事見てましたよね? 君、名前は?」


 少年は困ったように目線を泳がせながら、俯きがちに呟いた。


 「晴信…………武田晴信です」

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