第15話 義元誕生

 1536年 8月 1日


 「今川家次期当主の承芳だ。此度は、二人の兄の為に集まってくれて有難う。今は未熟な身ではあるが、精進を重ね兄上のような立派な当主になってみせる。それでは献杯」


 承芳さんの合図とともに、部屋に集まった全員が一斉に酒が入った茶碗を手に取った。それに倣い、僕も遠慮がちに目の高さまで持ち上げた。ちゃぷんと小気味よく揺れる音が妙に心地よかった。

 葬式はつつがなく進み、今は目の前に豪勢な食事が並んでいる。戦国時代に来て、こんな御馳走は初めて見た。舌鼓を打ちながら、豪華な食事の前に唾液が出て思わず袖で口元を拭った。

 葬式の様式は現代とそれほど変わらなかった。変わったのは、長い正座に自分が耐えられるようになった事だけだ。あの時はまだ中学生で、途中で足を崩してしまった。子供だから仕方ないだろう。その時、後ろに座っていた祖父に思い切り頭を殴られた。親を亡くし悲観に暮れていた中学生相手に、今考えても容赦が無いと思う。

 彼は立派だ。お兄さんを同時に二人亡くし、後継者争いにも巻き込まれた。それでもこうして、皆の前で堂々としている。今日の承芳さんは、何だかいつもより大人に見えた。それと同時に自分の子供っぽさに嫌気がさして、僕は手元のお酒を一気に飲み干した。


 部屋が談笑の声でざわつき始めると、先ほどまで壇上に立っていた承芳さんが僕の方へ歩いてきた。どうやら今日の務めはここまでのようだ。


 「承芳さん、お疲れ様です。乾杯の音頭かっこよかったですよ」


 「それほどでもあるな。今川家当主として、私は皆を引っ張っていかねばならん。いつまでもくよくよしていられんよ」


 そう言う承芳さんの表情には、明らかに疲れの色がうかんでいた。僅かに上気した頬にじっとりと汗が伝っている。


 「承芳さん、ちょっと頑張りすぎですよ。張り切る気持ちは分かりますけど、そんな直ぐには変われませんって」


 僕は手近にあった料理を箸で掴み、承芳さんの口の中へねじ込んだ。ぱくっと中々良い食いつきを見せる。ほっぺたを膨らませて租借しながら、少し不満げな表情を向けてきた。

 

 「むぐむぐ、別に無理など……」


 「ほらそんな食べながら喋ると、また雪斎さんに注意されますよ。無理に変わろうとしなくても、そういうあほ面な承芳さんのままでいいと思いますよ」


 「あほ面とはなんだっ、あほ面って……むぐっ!」


 勢いよく飲み込もうとして喉に詰まらせたらしい。顔を真っ赤にして胸を叩く承芳さんが面白くて、僕はお腹を押さえて笑った。ぽわぽわする頭の中で、何故か今は無性に笑いたい気分なのだ。

 

 食事に夢中でいると、不意に視界の端に寿桂尼さんの姿が映った。彼女もまた、承芳さんと同じように親族を失った一人だ。それどころか、承芳さんとは違い自分の息子を二人も、いや三人も失ったんだ。その悲しみは推して知るべしだろう。

 よく見ると、寿桂尼さんの目の前に五つの赤い巾着が綺麗に並べられているのが見えた。僕が不思議に思っていると、承芳さんがそっと耳打ちしてくれた。


 「母上はな、私たちの名の描いた紙を巾着に入れて御守りにしているんだ」


 「という事は承芳さん、ご兄弟が五人もいるんですか?」


 氏輝さん、彦五郎さん、恵探さん、そして承芳さんの4人は知ってる。というか兄弟多いな。もう一人は聞いたことが無い。


 「いや、私の男兄弟は六人なはずだが。そう言われると一人分少ないなぁ。もしかしたら嫡子の私たちだけ……いやそうしたら今度は一人分多いな。むむむ、分からん」


 「ふ~ん、もしかしたら承芳さんも知らない隠し子がいるかも知れませんね」


 僕がお道化ると、それは怖いなと笑った。ただ僕はあの巾着を見て、喉に魚の小骨が刺さった時のような気持ち悪さを覚えていた。

 実は巾着という物に見覚えがあった。いや巾着なんて京都に行けば土産屋でいくらでも見られるだろう。ただそうじゃない。ある日祖父から手渡された一つの巾着。色褪せて元の色が分からないほど痛んでいた。それは祖父の形見だった。戦国時代にタイムスリップするきっかけにもなった、財布の中に入っていた形見だ。

 何処に行ってしまったんだろうか。今となってはその行方を追う事は不可能になってしまった。もし現代の誰かが拾って、その人の事を守ってくれていたらいいな。誰か分からない人の幸せを願いつつ、白い酒を一気に呷るのだった。


 1536年 8月 2日


 「ううぅ、頭が痛い……気持ち悪い」


 「だからもう止めておけと言ったのだ」


 「だったらもっと強く止めてくださいよ……うぅ、うっぷ、そこの桶取ってください」


 桶を顔の下に置くと、胃の中の未消化の物を胃液と一緒に吐き出した。黄色いドロドロの液体で桶が満たされていく。口の中が酸っぱい。まさか、未成年で二日酔いを経験するとは。

 昨日の食事の場で飲んだお酒は、甘くてとても飲みやすかった。ちょびちょび飲んでいる間に、どうやら僕は一升瓶分のお酒を飲んでいたらしい。自分がそこまでの酒豪だとは思わなかった。まぁ確かに、祖父も父もよくお酒を飲んでいたから、遺伝なのだろうけど。

 人生初の二日酔いのせいで、今日は一日中布団の中だ。枕元の桶はもう2回も取り替えて貰った。承芳さんの前で吐くのは恥ずかしかったけど、これも自分への戒めと思って我慢した。

 酔い潰れた僕の介抱は、どうやら承芳さんがやってくれたらしい。話しによると、酔っぱらった僕は急に上衣を脱いだかと思えば、子供のように泣きじゃくり散々だったと呆れた様子で言われた。記憶にない自分の痴態を聞かされるのはまるで拷問で、布団の中に潜り悶え続けた。

 自分の吐しゃ物が入った桶を退かすと、枕に顔を埋めた。瞼が重たく感じる。吐き疲れて身体が消耗したのだろうか、抗えない睡魔に身を委ねてそのまま瞼を閉じるのだった。

 

 目を覚ますと、随分と身体が軽くなっていた。気持ち悪さも幾分か楽になり、久しぶりに体を起こした。ふと外を眺めると、太陽が地平線に落ちそうなところまで傾いていた。時間的には5時くらいだろう。僕は今日何時間布団の中にいたんだろうか。考えるだけで形容しがたい謎の罪悪感を覚え胸が痛んだ。


 「おっ、目を覚ましたか関介。あれだけ吐けば、流石に楽になったろ」


 「そうですね、お陰様でこの調子ですよ」


 僕は力なく握りこぶしを作って見せた。華奢な僕の筋肉を見せられて、承芳さんは苦笑いを浮かべた。だが、そんな彼は何処となく嬉しそうに見えた。なんだかそわそわして落ち着かない様子である。


 「承芳さん、何か喜ばしい事でもあったんですか?」


 「なんだ、見てわからんか?」


 「うざっ。別に興味ないです。急に体調悪くなってきたんで帰ってください」


 僕はしっしと手を振った。面倒な話は頭に響くから聞きたくなかった。僕の不愛想な態度に、承芳さんはあたふたと身体の前で手を振った。


 「わわっ、冗談だ! 言う、言うから! 実は兄上たちの葬儀が終わったという事で、改めて将軍様から偏諱を賜ったのだ」


 「へんい? を賜るって、どういう意味ですか?」


 よく分からないから、難しい言葉を使わないで欲しい。辛うじて分かったのは、将軍様から何かを貰ったらしい。その何かの意味が分からないのだ。


 「ああすまないな。現将軍の足利義晴様の”義”の字を頂いたのだ」


 なるほどと手を合わせる。多分小学生くらいの時、学校の図書室で偉人の伝記を読んだことがあった。確か読んだのは徳川家康だ。その中で、家康が人質の時に大名の名前の一文字をもらって、元康と名乗ったと書いてあった気がする。名前を貰うという事が不思議に思って、家に帰った後父親から聞いて覚えていたのだ。

 確か元康の”元”の字は…………そうだ思い出した!


 「義晴様の義の字を頂いて、これからは”義元”と名乗る事になったんだ」


 そうそう、義元……………………へぇ?


 「えっ? 承芳さん、今貴方義元って言いませんでした?」


 「むぅ、話を聞いていなかったのか? 私はこれから、承芳改め義元と名乗って行くことになったのだ」


 という事はつまり、承芳さんイコール今川義元という式ができるという訳で…………えっ?


 「え、えええええぇぇっ! 貴方が今川義元なんですかぁ!?」


 喉の奥から自分でも驚くくらい大きな声が出た。だって今川義元と言えば、教科書にも載ってるくらいの有名な大名じゃないか。まぁ詳しくは知らないけど。

 

 「何をそんな驚いているんだ? いやそうだよな。あの足利将軍様から一字貰ったのだ、今川家がそれほど格が高いという事で……おい関介、聞いているのか?」


 「聞いてますけど、すいません。少し驚いてしまって」


 承芳さんは不思議そうに顔を傾げている。冷静になって考えると、それもそうだ。彼からしたら、名前が変わっただけで人が変わる訳でもないのだ。

 ただ僕からしたら、その意味は大きく変わってくる。僕が知ってる承芳さんは同い年で気が合って、少し抜けてるけど心は優しい承芳さんだ。それが今川義元だと聞かされて、なんだか遠くの人物のように感じてしまったのだ。だからこそ、そのギャップに驚いてしまった。


 「改めて自身が今川家の当主として、気が引き締まる思いだ。それでなんだが、関介には一つ頼みがあるのだ」


 照れくさそうに首を掻くと、じっと僕の目を見据えた。余りの真剣な眼差しに、気圧されて何も言えなかった。本当は問い詰めたかった、貴方が本当に今川義元なのかと。本当に僕の知ってる貴方なのかと。


 「関介には、私の事をこれまで通り承芳と呼んで欲しい。たとえ私が当主になっても、お前との関係を変えたくない。名前を変えた程度で崩れるものでもないとは思うのだが、関介に義元と言われるのは、何故か分からないが遠くに感じてしまうのだ。それはなんだか、嫌なんだ」


 彼の言葉を聞いて、今川義元という名前に驚いてしまった自分をぶん殴りたい。承芳さんには変わらなくて良いとか言ったくせに、彼の正体が今川義元と知った途端遠くへ行ってしまったと感じてしまった。それは裏切り行為だ。

 彼の正体とか、そんな事どうでもいいじゃないか。現代で生きていた僕が知ってる今川義元は、高貴で威厳があり、まるで貴族のような大名だった。だけど、今の時代を生きてる僕の知ってる今川義元は、目の前の承芳さんだ。剣の腕はいまいちで、いつまでもうじうじ考えて、素朴で優しい等身大の承芳さんだ。そんな彼の頼み、そんなの答えは決まっている。


 「僕も今更名前を変えるのなんて嫌ですよ、承芳さん!」


 布団を蹴飛ばすと、障子にもたれる彼に思い切り飛びついた。不思議に思う声を無視してお腹に顔を埋める。やっぱり承芳さんだ。現代の僕が思い浮かべる今川義元じゃない、今を生きる僕の知ってる承芳さんだ。

 無理やり剥がそうとするけど、まだ離れたくない。承芳さんを感じていたかった。もう二度と、彼を疑ってしまわないように。

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