第14話 花倉の乱(後日談)
1536年 8月 1日
頭の真上で燃えている太陽の日差しが、縁側の床板をフライパンのように熱している。縁側でぼーっとするのは好きだったけど、この暑さではとてもじゃないが無理そうだ。
色鮮やかな春を抜け、新緑の眩しい夏がやってきた。スマホ越しに見ていた世界では決して感じられない四季の移り変わりを、この戦国時代では身体いっぱいに体感できた。花の蜜の微かな甘い香りは、いつの間にか鼻の奥を透き通る濃い緑に変わっていた。
戦国時代に来るまで、夏は冷房の効いた部屋でアイスを食べる季節だと思っていた。だが勿論戦国時代に冷房もアイスも存在するわけなく、たまに吹く風と揺れる風鈴の音色に癒されるのがこの時代の夏なのだと思い知らされた。唯一の救いは、現代よりはまだ暑くないという事くらいだろう。最後に見た静岡県の夏の気温は、確か40度を超えていた気がする。人間の進化は、そんなにも地球をおかしくしてしまうのか。
そんな事を考えながら部屋の真ん中で、日の当たらないひんやりとした畳を求めごろごろと寝返りをうった。頬が当たった場所からぬるくなってひたすら寝返りをうつ。それの繰り返しだ。
「関介、それは何かのまじないか?」
「違いますって、限りある避暑地を求めてるんですよ。って承芳さんこそ何ですか、上半身裸とかみっともないので早く服着てください」
承芳さんは上着を肩にかけ、そよぐ風を背中に受けて僕を見下ろしていた。露わになった彼の身体は意外と引き締まっている。うっすら汗ばんだ健康的な肌は、筋骨隆々とまではいかないが、武士らしく筋肉の筋が浮き上がっていて少し羨ましく思った。彼は横になる僕の傍まで歩み寄ると、額の汗を拭いながら暑苦しい少年のような笑顔を向けてきた。
「こんなに暑いのに上衣など着ていられるか。どうだ、関介も一緒に脱がないか?」
「やですよ、破廉恥です」
僕はぷいっと顔を背け、またごろごろタイムを続けた。さっきからこの辺りもぬるくなってきたし、次の避暑地を開拓しなくては。
「そんな動いている方が暑いだろうに。関介はたまに不思議な事をするよな、子供っぽいというか何というか」
苦笑交じりに言う承芳さんへ返す言葉も見当たらない。というより、暑すぎて返す気力も湧いてこないのだ。僕が何も言わないでいると、承芳さんは面白くなさそうに唇を尖らせた。
承芳さんが僕の隣を目線で合図したので、僕は何も言わず首を縦に振る。僕らは暫く黙り込んだまま天井を見つめていた。変わらない風景、変わらない音。そういうものが心から大事だと思えた。それはつい最近起きた出来事が頭をよぎったからだ。今もあの衝撃は身体が、脳が覚えている。
十分に沈黙を楽しんだ後、承芳さんからおもむろに口を開いた。
「今日の午後、兄上たちの葬儀が行われるんだ。関介も参列するだろう?」
「無関係の僕が参加してもいいんですか?」
「あんな事があって、今更無関係な訳がないだろ。それに関介は私を救ってくれた。余りに強引だったがな」
「承芳さんが変な道へ進もうとしたから、お尻を蹴って気づかせてあげただけですよ」
そうかと呟くから、僕もそうですと答える。そうして二人同時にぷっと噴き出した。あの時二人で見つめ合った顔を思い出したから。きっと僕も承芳さんのように、涙や汗でぐちゃぐちゃに歪んでいたんだろうな。
「あんな必死な関介初めて見たよ」
「僕を必死にさせたのは承芳さんじゃないですか」
僕は大きく息を吸い込み目を閉じた。あの日の泣きそうで情けない承芳さんの顔を思い出して、思わずまた顔が緩んでしまった。あの時、掠れる声で呟いた承芳さんの続きの言葉を思い出しながら、柔らかな眠気の中に意識を溶かしていくのだった。
1536年 6月 12日
「私は、私は……兄上を……」
震える声が静かな部屋に反響して消えた。承芳さんのくすんだ瞳に透明な光が灯り、それは頬をつたう一筋の雫に変わった。僕はそれを拭う事はしなかった。彼の中にたまっていた感情が詰まっているような気がしたから。
「私は兄上を殺したくない……殺したくない」
絞り出すようにして口にしたその言霊が、今まで彼がどれだけ我慢し、自分を殺し続けてきたかを物語っていた。
「やっと、聞けました……貴方の声を。ほんとに、こんなに待たせないでくださいよ……」
承芳さんから見たら、すごく可笑しな顔をしているだろう。笑おうとしても、溢れる涙が邪魔して上手く笑えない。堰を切ったように感情が流れ出し、くしゃっと歪んだ顔を承芳さんの胸に埋め声を上げて泣きじゃくった。
「なんだこの茶番は。承芳、関介殿。私はお前たちのことを少し見誤っていたのかもしれんな」
その言葉は失望や軽蔑のような、鋭く刺々しい空気を纏っていた。大きなため息をつくと、恵探さんの方へ歩み寄り懐から刀を抜き取った。やっぱりこの人には僕らの気持ちは届かないのか。
「雪斎さん! お願いですから、承芳さんの声を聞いてください!」
「はぁ、うるさい小僧共だ」
刀を恵探さんに向けて振り下ろした。しかしそれは恵探さんの体ではなく、巻き付いている縄を切り裂いた。殺されると思った恵探さんは、目を見開いてあり得ないと言いたげに雪斎さんを見上げた。
「雪斎、何故だ?」
「勘違いするな、お前を許したわけではない。ただ」
雪斎さんは僕らの方を向いてもう一度大きな嘆息を漏らした。やれやれと手を振って突き放してるのかと思ったが、その顔にはいつもの優しい微笑みが戻っていた。
「子供の我儘を聞いてやるのが、大人の務めというものだ。恵探よ、馬鹿な小僧共に助けられたな。二度は無い、分かったら消えろ」
雪斎さんを見上げてくしゃっと顔を歪ませると、床を叩いて勢いよく立ち上がった。僕らを見据える彼は、憑かれた物が取れたような穏やかな表情をしていた。
「承芳、また…………さらばだ」
一言だけ呟くと、身を翻しその場を後にした。本堂の裏手から外に出た恵探さんの姿は、暗い森の中へと消えていった。もう二度と会う事は無いだろう。これでようやく終わったんだ、承芳さんの長い戦いが。
「承芳、関介殿、此方へ来なさい」
柔らかな笑みを浮かべてこちらに手招きをしている。雪斎さんは僕らを認めてくれた、覚悟を受け取ってくれた。本当に雪斎さんには迷惑ばかりかけている。
何だろう、褒めてくれるのかな? 成長したなとか、頑張ったなとか声を掛けてくれるのかもしれない。厳しい祖父は褒めるという事を殆どしなかった。その為自分が思っている以上に、人から褒められる事を体が求めているようだ。
「雪斎さん、ありがとうございます! 僕たちの想いを受け取ってくれて」
「そうですね、それでは関介殿から頭をこちらに」
「頭ですか? これでいいです?」
いいこいいこって頭でも撫でてくれるのかな?
しかしそんな期待は一瞬で葬り去られた。急に頭の頂点に雷のような衝撃が落ちたと思うと、その衝撃は体全身に浸透し直ぐに痛みへと変わった。
「いったぁぁぁい! 頭が……割れる。うぅぅ」
「次は承芳だ。こっちに来い」
「すまない和尚、私は急用を思い出して」
「早く来い!」
ひぃっ! 褒めるどころかめっちゃ怒ってる。まぁですよねぇ。地鳴りのようにガンガンする頭を押さえながら丸まった。承芳さんの悲鳴が聞こえたけど、耳鳴りのせいで何処か遠くの事のように感じる。
「お前たち、こんな我儘が一発で済むと思っているのか? さて、肩も温まってきたし。残りの九十九発覚悟するがよい」
一発でこの痛みなのに、そんなに殴られたら本当に頭が割れちゃうよ。涙目で訴えても無駄だった。容赦ない鉄拳は、僕と承芳さんの頭上に何発も降り注いだ。
そこからの記憶はあまり無い。ただ、それから一週間以上頭痛が収まる事は無かった。
1536年 8月 1日
「痛かったですね」
「ああ、本当に頭が割れるかと思ったよ」
「でも、間違っていなかったですよね僕たち」
「そうだな。それは和尚も分かってくれているはずだ」
不意に熱を纏った風が吹き込み、部屋の中に夏の匂いが充満した。濃い緑の匂いが鼻の奥をくすぐり、無性に泣きたくなる感情を覚えた。
「恵探さん、今頃どうしてると思います?」
「生きているさ、きっと何処かで」
そうだといいな。僕らと恵探さんは、もう二度と交わる事のない道の上を歩いているんだ。だけど、それでも同じ今を生きているんだ。どうしようもなく暑い夏を。過酷な戦国という世界を。
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