第47話 関介の能力

 僕と承芳さんは、何も言えずにただ茫然と雪斎さんを見つめていた。雪斎さんも、驚いて口をあんぐりと開ける僕らを、満足そうに見るだけで何も言わないでいる。鼻歌でも歌いそうなほど余裕そうに笑う雪斎さんを前にして、僕らは険しい表情を浮かべる。お互い無言の間には、明らかな温度差があった。

 体感五分くらい続いた無音を破ったのは、意外にも承芳さんだった。信じられないといった様子で、唇を震わせ、か細い声で言った。


 「何を言っているんだ和尚。関介が兵を指揮する? 冗談だとしても笑えないぞ」


 「冗談か。まあお前たちも理解していると思うが、勿論冗談などでは無い。関介殿は、今後の今川家にとって、大きな戦力になる。それは先ほどの長教も同じだ。だからこそ、あ奴をけしかけ関介殿と戦わせたのだ」


 やっぱり雪斎さんの仕業だったか。まず道場に居る時から怪しかったけど。ということは、長教くんはただ雪斎さんの踊らされ、僕に泣かされてしまったのか。そう考えると急に可哀そうに思えてきたな。今度会ったらいい子いい子してあげよう。

 そんなことより雪斎さんの話した内容だ。僕が今川家の戦力に。いやならないです! 今までの僕なら、直感的にそう叫んでいただろう。だけど、あの雪斎さんがこんなにも太鼓判を押してくれている。実は自分では気が付かない才能があるのかも。こんな僕でも、今川家の、承芳さんの力になれる能力が。

 怒りなのか驚きなのか、肩を震わしながら雪斎さんと対峙する承芳さん。真っ赤になるほど握った拳に、承芳さんの気持ちが込められているようだ。承芳さんが怒るのは、いつだって僕のためだ。僕は承芳さんにとって、守るべき存在なんだろう。だけど僕は、承芳さんを守る存在になりたい。僕にはその能力がある。


 「僕は今まで、ただ畳の上で稽古を積んできただけでした。だから、それが皆の力になるとは思っていなかったんです」


 「おい待て関介、和尚に騙されるな。和尚は素直な関介を甘い言葉で誘惑して、物わかりのいい駒にしようとしているだけだ」


 今まで見た事の無いような、真剣な形相で僕の肩を掴んだ。離れるな。そう言いたげな瞳をしている。だけど、その瞳に映る僕は、少しだけ笑っていた。

 僕は何も言わず承芳さんの腕を振り払い、雪斎さんの方へ向き直る。背後で承芳さんの悲壮な悲鳴が小さく聞こえた。すぐ後に、か弱い力で服を引っ張られたけど、僕はあえて無視を決め込んだ。背中越しに、悲し気に目を伏せる彼の姿が簡単に想像できて、心臓を抉られるような痛みを覚えた。


 「雪斎さん。その役割、僕に任せてください。必ず戦場で、皆の力になってみせます」


 僕の決意表明を前に、雪斎さんは満足そうに頷いてくれた。認めてくれた、それだけで身体の芯からやる気がみなぎってくる。一歩前に踏み出し、握った拳で胸をどんと叩いた。

 だがその時、肩を掴まれたと思うと、後方へ力強く引っ張られた。予想もしない力に、尻もちつきそうになるのを何とか堪えた。文句を言おうと、僕の肩にしがみつく承芳さんを見た。彼と目が合った時、僕は思わず息を呑んだ。


 「もうやめろ関介! 何もお前が戦場に赴く必要は無いじゃないか! お前は私の隣にさえいてくれればそれでよい。同じように考え、悩み、相談できるお前がいるから、私は今川の当主でいられるのだ。お前がもし戦場で命を落としたら、私は……」


 承芳さんの言葉はとても弱弱しく、今にも崩れて泣き出してしまいそうだった。縋るような潤んだ瞳に、分かっていても心がどうしても動揺してしまう。承芳さんの力になりたい気持ちと、それでも彼を悲しませたくない気持ちが、胸の中で交錯する。どっちの思いも僕の本心だった。

 やめてくれ。僕の心を揺さぶらないでくれ。そんな泣きそうな目で見られたら、せっかく固めた決意が崩れてしまうじゃないか。そう思うと、何だか無性に腹が立ってきた。腕を大袈裟に振り払い、彼の身体を押しのけた。信じられないと愕然とする承芳さんを思い切り睨みつけ、奥に溜まっていたものを吐き出すように、ほぼ叫ぶように言った。


 「承芳さんは、いつになったら僕を認めてくれるんですか? いつになったら、僕の能力を信じてくれるんですか? 僕は貴方の隣を歩くだけじゃ嫌なんです。時には前に立って、貴方を守りたいんです。どうしてそれが分らないんですか。どうして承芳さんは、僕の気持ちが分らないんですか。」


 苛立ちから語気が強くなる。僕の心の叫びに、承芳さんは何も言えず呆然と聞いていた。承芳さんを責めたい訳じゃないのに、言葉にしないと、このどうしようもない憤りを解消できなかった。

 今まで僕は承芳さんの隣を歩くのがやっとだった。いや違う、僕のペースに承芳さんが合わせてくれていたんだ。僕が転ぶと歩みを止め、手を差し伸べてくれる。膝を擦りむいたら、大きな背中でおんぶしてくれた。でもこのままじゃ、承芳さんの目指す場所に一向に近づかない。いつの間にか、僕は承芳さんの足枷になっていた。そんな自分を変えたい、その一心だった。

 それなのに承芳さんは。優しいというか、過保護というのか。隣にいるだけでいい。そんな温かい言葉をかけるから、僕はいつまでたっても弱いままなんだ。なんて、承芳さんが悪い訳無いのに。本当は分かってる。そんな言い訳をする自分に苛立っているって。


 「僕が戦場の一番前に立って戦う。それが僕の出来る、承芳さんへの恩返しなんです。雪斎さんだって、僕にその力があるって言っているんです。だから……」


 僕が続けようとした時、それまで傍観していた雪斎さんが急に咳ばらいをした。話しの腰を折られた僕は、ムッとした顔で雪斎さんの方を見る。元はといえばあの人が言い始めた事なんだ。僕からじゃなくて、雪斎さんから直接承芳さんに言ってくれればいいのに。そんな風に思って雪斎さんに声を掛けようとすると、何故か口元を手で隠し、肩を震わせていた。僕がどうしたのか聞く前に、堪えきれなかったのか、噴き出すと大口を開けて笑い始めた。何だ急に、訝し気に雪斎さんを見つめると、僕の湿った視線に気が付いた雪斎さんは、いつもの様にへらへらしながら言った。


 「くくっ、関介殿、貴方は何か勘違いしてますよ」


 「勘違い……ですか?」


 僕が勘違い、ってどう意味なのだろか。こんな感じで、雪斎さんはよく意味の伝わりにくい事を言う。すっかり毒気の抜かれた僕は、不思議そうに首を傾げた。そんな僕の様子が面白かったのか、雪斎さんはまた破顔し噴き出した。


 「私が関介殿に任せようとしたのは旗持ちですよ? まさか、関介殿に戦中の指揮を任せるなどしませんよ」


 旗持ち? 状況について行けなくて、ポカンと間抜けな表情で雪斎さんの言葉を聞いていた。それは承芳さんも同じだった。


 「でも雪斎さん、さっき僕に能力があると……」


 「ろくに読み書きもできない関介殿に、戦況を読み兵を指揮するなどできる訳ないではありませんか。私が言った能力とは、関介殿の皆を引き付ける不思議な魅力の事ですよ」


 「……へぇっ?」


 思わず気の抜けた返事が漏れてしまった。僕に魅力? それと僕の剣の腕に何の関係があるのだろうか。雪斎さんの言っている意味が、本当に分からない。それなら何故長教くんをけしかけてまで、僕と手合わせさせたのだろうか。雪斎さんの言葉の真意は分からないが、彼が僕を揶揄っているのだろうという事だけは理解できた。だけどまだ、自分の中で全く納得できていない。正直答えは分かり切っているけど、僕は食い下がるようにへらへら笑う雪斎さんに言った。

 

 「で、でもさっき、はっきりと言ったじゃないですか。僕を兵隊長にするって」


 「別に私は、戦に直接参加する兵を指揮させるとは一言も言ってませんよ」


 まるで口笛を吹くかのように、軽々しく言う雪斎さん。僕のジトっとした目線から逃げるように、スッと目を右に逸らした。この人は、どこまで人の心を弄べば気が済むんだ。


 「くくくっ、そうとも知らずお前たちは……くふふっ、誠に面白いものを見せてくれたのう」


 僕はこの人の手のひらの中で転がされていたようだ。その事実を理解した直後、承芳さんを前にして言った自分の言葉を思い出し、ぼっと顔が赤くなった。何故か脳内で、さっきの承芳さんとのやり取りがリピート再生される。いつになったら僕の能力を認めてくれるんですか。なんて恥ずかしい事を僕は叫んでいたのだろう。冷静になると更に羞恥心が襲ってきて、穴があったら直ぐにでも引き籠りたい気分だ。


 「どうしたんだ関介、そんな肩を落として。旗持ちは戦闘には参加しないが、家の顔とも言える旗印を掲げる、名誉ある役だ。決して恥じる役ではないぞ」


 後ろから肩をポンポンと優しく叩きながら言う承芳さん。彼にとってはフォローのつもりなのだろうが、全くフォローになってない。だったら、戦で活躍して承芳さんを助けよう。そう意気込んだ僕の気持ちはどうしろと言うんだ。恥ずかしさともどかしさが同時に押し寄せ、どんな顔をすればいいか分からず、僕は思わず顔を手で隠してその場にしゃがみ込んだ。

 すると承芳さんはぼそりと、それに、と続けた。


 「関介殿、私は決して後ろ向きな理由で旗持ちを任せる訳ではありません。以前北条の大軍を押し返したように、貴方が戦場に立つと、不思議と軍の士気が大きく上がるのです。それは私や承芳では成しえない貴方の能力です。それと、旗持ちの役割は旗を掲げるだけではありませんよ。大将の最も近くにいる訳ですから、その命が狙われた際は、身を呈して守って頂きます」


 俯く僕の頭の上に、承芳さんの柔らかい手のひらが触れた。


 「いざとなった時、関介は私の命を守ってくれるのだろう?」


 顔を上げると、承芳さんの顔が目の前にあった。目が合うと、いつものような温かい笑顔のまま僕の前に手を差し伸べた。

 やっぱりこうなるんだ。どんなに背伸びしたって、結局僕はこの人の前を歩けない。いつまでたっても隣のまんまだ。だけどそんなの今更じゃないか。

 

 「旗持ちでも、何でもやりますよ。承芳さんを守れるのなら」


 承芳さんの手のひらをとる。優しい温もりが身体中に満たされていく。やっぱり僕はここがいい。お互い目を見つめ合っていると、ほぼ同時に噴き出した。それがもっと面白くて、僕らは目尻に涙を溜め、道場の床の上で笑い合った。

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