第39話 回想

 これは戦国時代にタイムスリップする少し前。僕がまだ、現代で生きていたころの物語だ。


 2017年 7月 関介(12)中学1年生


 「以上を持ちまして、第○〇回全国少年剣道大会を終了いたします」


 場内アナウンスに合わせ、会場からは万雷の拍手が起こった。その中心にいるのは、表彰台の一番上に立つ一人の中学生だった。少年は恥ずかしそうに頬を赤く染め、もじもじと内股で遠慮しがちに手を振っていた。少年と言っても、彼の容姿は誰の目から見ても女の子にしか映らなかった。ただたった今表彰しているのは間違いなく男子の部である。

 彼より一段低い段差の上には、中学生ながら逞しい体つきで、高校生に混ざっても遜色ないであろう少年が立っていた。そんな彼は、顔を手のひらで隠し大粒の涙を溢している。理由は明白で、まさに自分の斜め右上に立つ女子のような男の子に、全国大会の決勝の場で敗れたからだった。

 惜しくも銀メダルで終わった彼だが、去年の全国大会では二年生ながら準優勝を果たした実力者であった。三年生になった今年、優勝への意気込みは誰よりも強いだろう。だからこそ、今も拍手を送り続ける観客たちの誰もが、決勝に勝ち進んだ彼の優勝を信じて疑わなかった。ほんの数メートル四方のフィールドの中で行われた試合の中で、目を疑うような景色を目の当たりするまでは。


 「始めっ!」


 決勝戦の舞台は、審判の鋭い掛け声のもと始まった。両者すり足で、お互いの出方を伺っている。観客たちは同時に口を閉じ、広い体育館に響くのは、睨み合う二人の素足が擦れる音と、緊張感のある息遣いだけだった。

 先に動いたのは三年生の彼の方だった。甲高い掛け声と共に力強く床を踏み込み、瞬時に間合いを詰め、目の前の敵の頭めがけて竹刀を振り下ろした。会場が息を呑み、彼の一本を確信した。だが審判が高々に掲げた旗は、彼ではなく少女の見た目をした華奢な少年の一本を主張した。

 観客も、攻撃した張本人でさえ、何が起こったか分かっていなかった。


 「い、一本!」


 少し遅れた審判の声で、ようやく観客たちは彼の一本を認識し、体育館内は戸惑いと驚愕の声で溢れかえった。

 少年はチャンピオンが振り下ろした竹刀をいとも容易く跳ね返すと、瞬時に攻撃へ転じ、逆にがら空きとなった胴へ打ち込んだのだ。そのの鮮やかさは、間近で見ていた審判でさえ判定に遅れてしまうほどだった。


 「勝者、関介!」

 

 信じられないといった様子で、膝から崩れ落ちるチャンピオンに一瞥もくれることなく、所定の位置に戻る関介。その表情に喜びはなく、ただ観客席のとある一角を見つめていた。そこに座っている、立派な髭をたくわえた白髪の老人は、つまらなさそうに鼻を鳴らすと、直ぐにその場を後にした。関介が老人の後ろ姿を目で追いかけるも、やがて人混みの中に消えていった。


 未だ熱狂冷めやらぬ体育館を足早に抜け出し、関介はある場所へ向かっていた。控室で道着を脱ぎ捨て、学校指定の白に青色の線の入った体操服に身を包み、真夏の太陽の下を走っていた。道着を脱ぎ、体操服を着てしまえば、先ほど行われた決勝戦で勝った人物には見えない。どこからどう見ても、額から汗を流す活発な少女だった。

 関介は当りをきょろきょろと見渡し、泣きそうな顔で唇を尖らせ、近くの階段に腰掛けた。どうやら誰かを待っているようだが、時間になっても中々現れず、拗ねたように足元の石を蹴飛ばした。


 「せきちゃん!」


 声のする方を向くと、長く艶やかな髪を靡かせ、三十代ほどの可憐な女性が小走りでやって来た。汗ばんだ額をハンカチでふき取り、暑いわねと微笑みを浮かべた。その後ろには、重たそうな鞄を担ぐ、彼女の旦那と思われる男が、汗だくになりながら肩で息をしていた。二人の顔を見た瞬間、関介は太陽のような無邪気な笑顔を浮かべた。


 「お母さん! お父さん! んもうっ、遅い!」


 「ごめんね、せきちゃん。お父さん、さっきの試合で感動して泣いちゃって。もう大変だったんだから」


 「泣いてたのは君の方だろう。大の大人がせきちゃん、せきちゃんと号泣するんだから」


 途端に顔を真っ赤にした女性は、言わなくてもいいのにと、恨めしそうに隣の男の肩を叩いた。両親のいちゃいちゃを目の前で見せられている関介は、ジトっとした目を二人に向けた。


 「二人とも! 先に僕の事褒めてよぅ!」


 ハッとした両親は、慌てた様子で関介の目線の高さまでしゃがみ、次々と祝福の言葉を並べた。不満げだった関介も、両親からの温かい言葉に嬉しそうにはにかんだ。


 「せきちゃん、よく頑張ったねえ」


 そう言いながら関介の身体の後ろへそっと手を回し、優しく抱きかかえた。関介は照れくさそうに笑うと、遠慮がちに母親の背中を掴む。中学生と言えど、ほんの少し前まで小学生だった。どれだけ剣道が強くても、まだまだ甘えたい子供なのだ。

 甘えたりない関介は、母親の腕の中に顔を埋め、ぐりぐりと顔を動かした。くすぐったそうに我が子を見つめる母親は、関介の頭を優しく何度も撫でた。暫く続けていると、急にがばっと顔を上げ、いたずらっぽい笑顔で言った。

 

 「えへへっ、僕頑張ったよ。だから~、僕何かご褒美欲しいなぁ」


 「せきちゃんよく頑張ったし、何か欲しいものがあったら言ってね。お母さん、何でも買ってあげるから」


 「違うよぅ。最近ずっと稽古ばかりだったから、お母さんとお父さんと、何処かお出かけしたいの」


 じれったそうに首を振ると、少し恥ずかしそうにおずおずと言った。キョトンとした顔でそんな事でいいのと尋ねる母親に、頬を膨らませる関介。


 「最近お出かけ出来てなかったしな。関介が行きたいとこ行こうか」


 「うんっ!」


 嬉しそうに頷き、母親の腕の中にもう一度顔を寄せる。そんな関介の様子を、両親は顔を見合わせ幸せそうに微笑んだ。

 砂利を踏みしめる音がして、関介は顔だけを向けると、さっきまでの甘えん坊の表情から一転、緊張した堅い面持ちでその人物を見やった。先程まで観客に混ざり、彼の試合の様子を見ていた顎鬚に白髪の老人がそこに立っていた。老人は大袈裟にため息を吐くと、関介親子に近づいていった。


 「関介、今日も帰ったら直ぐに稽古だ。早く準備しろ」


 ぶるぶると震える関介は、小さく首を縦に振ると母親の手を離した。祖父は乱暴な手つきで関介の腕を掴むと、抵抗する間も与えず無理やり立ち上がらせた。


 「いやっ!」


 「それと先ほどの情けない試合はなんだ! 動きは鈍いし、足の運びも美しくない。儂であったらあんな一本認めていないからな。分かってるのか関介! 気合を入れてやる、顔をこっちへ向けろ関介!」


 激しく叱責した老人は、拳を固く握りしめ関介の右頬を躊躇なく殴りつけた。バキッっと骨が軋む鈍い音と、母親の悲鳴が響き渡った。口元から赤黒い血を滴らせ、砂利の上に転がる関介。転んだ拍子に擦りむいた膝小僧から止めどなく血が流れ、白のソックスを赤く染めた。

 母親が直ぐに関介の下に駆け寄り、パニックになりながら彼の背中をさすった。関介はひゅうひゅうと浅い息を繰り返し、見開かれた瞳にはくっきりと恐怖の色が映っていた。恐怖、痛み。それらの感情から逃げるように、地面に顔を埋め嗚咽を溢した。


 「直ぐに泣くとは、情けない」


 「お父さん! どうしてこんな酷い事するの! せきちゃんは頑張って、優勝までしたじゃない!」


 「勝ち負けの話ではない馬鹿者。剣道は己との勝負、関介はその勝負に敗れたのだ」


 剣道経験者ではない母親も父親も、祖父に言い返すことが出来なかった。祖父は最後に、倒れ伏し泣き続ける関介を見下ろして言った。


 「そんな情けない姿では、いくら稽古をしても無駄なようだな。三日後、道場でその弱り切った性根を叩き直してやる。覚悟をしておけ、関介」


 それだけ言い残すと、老人はその場を後にした。うずくまる関介は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、寄り添う母親の腕を掴んだ。母親は何も言わず、ただ彼の髪をそっと撫でた。関介の肩が細かく震えだし、母親の顔を見上げ言った。


 「僕が弱いからいけないんだよね。僕が……」


 涙で言葉がつまり、とうとう胸の中で声を上げて泣き始めた。身体を丸め母親の胸の中で泣く少年は、その日圧倒的強さで優勝した少年とはとても思えない弱弱しく脆い姿だった。


 僕が覚えているのは此処までだった。気がついたら、自分のベッドで横になっていた。多分お父さんがおんぶしてくれたんだと思う。当時のおじいちゃんに殴られた頬の痛みは覚えていないけど、まさか全国大会で優勝したその日に殴られるとはという衝撃は、今でも十分に思い出せる。常人ならば手放しで褒めてもいいはずなのに、流石は僕の師匠だ。ただ今だから分かるけど、おじいちゃんも僕の頑張りを、少しは認めてくれていたんだと思う。あのおじいちゃんが三日間も休みをくれたんだから。

 僕はこの三日間で、両親とお出かけをした。久しぶりのお出かけに、すごく楽しみにしていたのを思い出す。だがその時は夢にも思わなかった。このお出かけが、両親との最後の思い出になるなんて。

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