第6話 2




「お前さ、一課の吉川に誘われてただろ?」


 その言葉に晴香はああ、と思い出す。

 営業部は人が多い。なので同じ部内であれどその業務や担当相手によって三課に分けられている。一課は大手企業、二課は中堅、三課は中堅よりやや小規模の企業とそして個人消費者へ向けてのPR活動が主な業務だ。晴香と葛城は三課に在籍しており、件の吉川は一課に所属している。

 ぱっと見の評価からいけば一課が花形エリートと思われがちだが、三課が大手を全く相手にしないというわけでもなく、それこそここしばらく二人が死に物狂いで準備していた各社文具メーカーが一同に揃うイベント等も仕事の一つだ。葛城はこの手の大舞台にとにかく強く、そこで大口の契約やら異業種の企業とまさかのコラボ企画など立ち上げるものだから、一課を差し置いて三課の営業成績はかなり良い。


「あー……ご飯でも行こうって言われましたね」


 吉川もまた晴香の同期や他の部署の女性社員からの人気は高い。葛城より一つ下で、こちらも営業部エースの一人、だったはず。営業の人みんなイケメンよね! と羨まれたり隙あらば合コンを、と強請られる事も多々ある。まあ美形である、とは晴香も思う。人当たりだって少なくとも営業であるからして悪くは無い。ちょっとした世間話をした事も何度か。

 しかし晴香にしてみればそれだけだ。あくまで職場の人、で自分より先輩だから礼を欠かない程度には、と思うだけの、それだけの相手。


「スゲエ面になってんぞ」

「あのテの人きら……苦手なんですよね」

「イケメンだとかで騒いでんのがいるのに?」

「顔の善し悪しだけで言うなら先輩とか中条先輩の方がかっこいいし、仕事の出来具合だって先輩たちの方が上じゃないですか」


 すぐ側にいる人間の方が高スペックすぎて、晴香には吉川がそこまで騒がれる程かと感じてしまう。


「別に一緒に仕事したとかでもないし、それにそもそも仕事中にそんなこと言ってくるのが本当にもうダメです」


 生真面目であるつもりはないけれども、少なくとも他に仕事を抱えている時に「食事でも」等と声をかけて来る人間がとにかく晴香は嫌いだった。


「先輩たちに成績勝てないからってやっかみみたいなこと言うくせにですよ? わたしに声かけてる暇あったら仕事しろよとしか」

「お前ほんと……」


 クツクツと葛城が喉の奥で低く笑う。その寸前、晴香の無自覚の賞賛に僅かながらに動揺していたのだが、吉川に対しての怒りがぶり返していた晴香はそれに気付かず、その間に葛城はいつもの姿に戻っていた。


「まあいい。で、だ、その時たまたま俺も見てて」


 本当に偶然だった。晴香を見張っていたとか言う事は勿論なく、怒濤の業務をこなしてやっと一息ついていた時に目に入ったのだ。吉川が晴香を誘っている姿を。


「俺のに勝手に声かけてんじゃねえよ、って思ったわけだ」

「まあ、先輩のですもんね」

「……お前」


 なんですか? と見上げれば額を小突かれた。先輩の部下だしここまで育ててくれたのも先輩なんだからそうじゃないですか、とモゴモゴと口にすればもう一度額に痛みが走る。納得がいかない、とおでこを摩りながらも、晴香はこれ以上の攻撃は避けようとひとまず口を横に結んだ。


「今までお前に対してそういう風に思ったことなんてなかったから、俺としてもまあ驚いたんだよ。ガキじゃあるまいし、なにをそんな独占欲をって笑うしかねえなと」


 そう考えたものの、一度浮かんだ――それも鮮明に、だ――その欲を流すには難しかった。


「自分で言うのもアレだが、最初の頃の俺のお前に対する態度ってまあ大概だったろ?」

「ですねえ」


 罵詈雑言を浴びたりするわけではなかったし、仕事で分からない事での質問はきちんと教えてくれた。ただただ、毎回初っぱなの態度と言うか空気がひたすらに冷たかった。


「なんか……わたしの前にいた補佐の女の人がこう……酷かった、っては聞きましたけど」


 前任である女性社員、のみならず、男性社員への態度が著しく悪かったのだとある時晴香は聞いた。悪い、と言っても様々であるが、彼女の場合はとにかく色目を使って隙あらば男漁りをしようとしていたらしい。もちろん普通の社員であればそんな事をすれば即刻何かしらの処分を受けているはずだ。しかし彼女の実家が筆頭株主の一つであるとか、又は財閥のご令嬢だからとか、政治家の娘で親は大臣クラスだとか、どれが嘘でどれが真実か不明であるけれども、一向に処分を受ける事がなかったのからしてどれかは正解だったのだろう。


 その被害を一番受けたのが彼女を補佐としていた葛城であり、また運悪く彼女の一番の好みのタイプが葛城であった。


「あの時ほど、女を殴れないのがこれほどしんどいのかと思ったことはなかったな……」

「うわあ」


 男相手なら殴っていいのか、という話だが、それでも同性であればまだ対処の仕様もあった。しかし年下の、それも女相手ではどうにもできず。さらに当時の上司からは「穏便に」としか言われなかったのだからまあ葛城は己の忍耐を極限まで駆使せざるをえなかった。


「もう俺が仕事辞めるか相手を殴るかどっちが先だろうなっていうチキンレースが始まって」

「それどっちもダメなレースじゃないですか!」


 その当時からすでに営業成績はトップの位置を走っていた葛城が辞表を叩き付けようとすれば、流石にそれはと周囲も動き始め、タイミング良くというかで上司も変わり、その上司が言葉巧みに彼女を言いくるめて、新規事業部として開設された海外支社に栄転という名目で移動させてくれたのだった。


「思っていた以上に話がすごいっていうかひどかった件ですね」

「お前が移動になったのがそのちょい後だな」


 営業の補佐が移動になったので補充はいる。が、後任が中々決まらない。一つは単純にその時動かせるだけの人員がいなかったというものであるが、もう一つは葛城の「若い女はいらない」という圧力からだった。そうなるとより一層後任探しは厳しくなり、かといっていつまでも葛城一人でこなすには仕事の量が多すぎる。周囲が手を貸すにしても限度があり、これはどうしたものかと葛城本人もだが、同僚や上層部も頭を抱えていた頃にちょうど新入社員が増えた。


「で、人事や他の部課長クラスがそれとなく見てた中でお前に白羽の矢が立ったと」

「それほんと謎なんですけど。なんでわたしだったんですか?」

「仕事に対する態度、ってのがまずもって一番だけども、あとあれだ、上司とか先輩に対して物怖じしない、質問はちゃんとしてくる、その後の報連相もきちんとしてる」

「それはでも当然のやつなのでは」

「それができないのが前任だったんだよ」

「うーわー」


 そして晴香は誰に対しても良い意味で一線を引いていた。仕事が円満に進むような人間関係を構築はするが、それ以上は踏み込もうとしてこない。


「だから、俺にも無駄にまとわりつくことはないだろうってので、お前になったんだと」

「そんなくっだらな……いや、あの、そんな理由で先輩のブリザードに晒されていたわたしがかわいそう」

「ほんとお前よく耐えてたよな?」

「他人事ぉっ! あれ正直つらかったですからね!? なんでいきなり移動になった上にこんな人相悪い人と組まされてあげく村でも焼かれたみたいな目で見られなきゃなのかって! 思いました! よ!!」

「ほんと悪かった」

「謝罪が軽い」


 晴香がそんな葛城の態度でも仕事を辞めずに続けられていたのはただ一つ。


「仕事ってこんなもんなんだなあと思ってたからですね」


 なにしろ新入社員だ。成る程社会の厳しさとはこう言う事なのか、と晴香は思っていた。本気で。


「……お前のその打たれ強さは賞賛に値する」

「嬉しくないことこの上ないです」


 相手が違うのだし、ましてや新入社員だからちゃんとした態度でいなければと葛城も頭では理解していたが、どうにもこうにも感情が追いつかず、結果として晴香に対してとうてい褒められた態度ではなかった。


「ほんとこの人どうしてやろ……というか、さすがに途中しんどすぎるなと思ってせめて元の部署に戻してくださいってお願いしようかとしてたんですよ」


 急な異動であった上に、内情がこんな事であったために元々いた総務部の部長が「どうしても無理な時はすぐ戻すからね」とわざわざ言ってくれていたのもあった。


「その時に中条先輩と五月先輩にちょろっとだけ前の人の話を聞いて」


 中条も被害を受けていた一人ではあったが、それでも葛城程ではなかった。あと単純に葛城よりも躱し方が上手かったおかげで、周りが思うよりかはマシだったそうだ。


「正直――器のちっさい人だなあと思いもしたんですけど」

「反論の余地がねえな」


 クツクツと葛城が笑う。理由はどうであれ、全く関係無い晴香からしてみれば八つ当たりもいいところ。それで自分がこれだけしんどい思いをしなければならないというのは、どうにも納得できることではなかった。


「でもその頃には先輩の仕事ぶりはイヤでも見てるし、毎日初っぱなの会話がブリザードだけどそれ以降はまあ真冬の夜くらいの冷たさだし、これだけ仕事できる人がこんなになるくらい前の人酷かったんだなあと思うと……もう少し頑張ってみようかなあと思ってたらこんなことになりましたね」


 こんなこと、で晴香ははっ、と目を見開く。


「そう! そうですよ! そんなやって恐怖やら反発心がだんだん信頼と尊敬に変わってきたっていうのにそんな相手に服を剥かれて襲われてるんですけど!?」

「俺の器のちいせえ言動にもめげずに一生懸命真面目に仕事こなしてるお前の姿にだんだん惹かれてて、でもその頃の俺はもうそういったのにとにかく辟易してて、だからお前のこともそういう目で見ないようにしてたんだろうな、多分」


 けれども積もり積もった感情はある日突然爆発する。葛城にとってはそれが先週の金曜日だった、というわけだ。

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