「日吉ぃ!!」


 名を呼べばそれだけで状況を察したのか、晴香は「ひえっ」と怯えた声を残して一目散に逃げ出した。当然逃がす葛城ではない。晴香の腕を掴むとそのまま廊下の奥へ進み、普段はあまり人の来ない資料室へと押し込んだ。


「あーっ!! 待った! 先輩ごめんなさいストップ!」

「なにに対しての詫びかきっちり言ってもらおうか」

「こわっ! 先輩顔が怖い!」

「誰のせいだと」

「わたしです!」

「わかってんじゃねえか!!」


 壁際に逃げる晴香の身体を塞ぐ様にドン、と両脇の横に腕を付く。


「ああああちっともときめかない! 恐怖しかないんですけど!」

「日吉ぃ……」

「いや、あの、ほんと、あれですよねここ最近のわたしの反応があれってことですよね」


 よほど狼狽えているのか晴香の言葉は曖昧だ。けれども流石に今回ばかりは葛城も見逃してやる気は無い。


「お前、数日見ない間に俺の顔を忘れたとか言うんじゃねえだろうなあ」

「またそうやってすぐわたしのことを野生動物扱いするー!」

「少なくともお前の反応見てる限りじゃそうだろうが!」

「反論の余地がほぼほぼない……!」

「って、まさか本当に」

「違いますよ! 違いますからね!? いくらなんでも先輩が出張に行ってる間に顔を忘れてしまったとかじゃないですから!」


 晴香は首がもげそうな勢いで否定をする。それに若干冷静さを取り戻し、葛城は「じゃあなんだよ」と気持ち視線を和らげた。もちろん「気持ち」であるので、当の晴香にとっては「射殺される」という恐怖はそのままだ。


「ええとだから……その……先輩とこんなに会わなかったのって、多分わたしが先輩の下に就いてから初めてだったわけでして」


 ついに観念したのか、晴香はボソボソと話し始める。


「だからですね……ひ、久々に、改めてこう……先輩を見たらなんていうか」

「なんだよ?」

「……察してください」

「この程度の情報でできるか」


 うう、と晴香は俯く。ハラリと流れ落ちた髪の間から覗く耳がほんのりと赤い。今更この状況に照れているのか、と葛城が疑問に思うと同時、トン、と胸元に晴香の頭が寄せられた。

「日吉?」

「改めて、先輩見たら……かっこいいなって思って……」


 先程以上に小さな声であるが、胸元で上がるからにはどうしたって葛城の耳に届く。その言葉の威力たるや、葛城の理性を吹き飛ばすには充分すぎる。


 ほぼ一週間、触れることさえできなかった華奢な身体が腕の中にある。今すぐ顎を持ち上げて思う存分唇を貪り、邪魔な衣服を取り払って直接触れたくてたまらない。この場で組み伏して、甘美な肢体を気の済むまで味わうことができたらどれだけいいか。仕事はすでに就業間近だ、自分も晴香も業務は終えているし、ここはめったに人が来ることはない。

 脳内で目まぐるしく流れが出来上がる。が、しかし、葛城はどうにかそれらの欲を封じ込む。代わりに腕の中の晴香の頭を片手で抱き込み、もう片方の腕は壁に激しくぶつけた。


「先輩!?」

「――お前は本当に俺の理性に感謝しろ!!」


 砕け散った理性を掻き集め、なんとかこの場でコトに及ぶのだけは回避する。


「少しは褒めろ!」

「せ、先輩すごい! かっこいい!! さすがわたしの先輩ですよヒューッ!!」


 職場内での情事など晴香としても回避を願うしかないので、必死に葛城を褒め称える。


「今から二十分後に下のロビーで待ってろ」

「……そのココロは?」

「お前今日は俺の家に連れて帰るからな」

「それはつまり」

「出張の後片付けだなんだでバタついてたのもあるけど、お前これ幸いにと逃げてただろ?」


 すでに葛城の言わんとすることなど理解出来ている晴香は「オタスケ」と救いを求めるが、葛城はそれを満面の笑みで打ち砕く。


「出張の間の分と、お前が無駄に逃げ回ってた分だ……覚悟しておけ」


 情欲を抑えすぎて、最早殺気にすら近い。それを真正面から浴びた晴香は膝からズルズルと崩れ落ちる。その頭をペシリと叩き「先に出るからな」とだけ残して葛城は資料室を後にした。

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