忘れたわけではなく・1




 葛城が急な出張で熊本に向かったのは木曜日。当初向かう予定だった同僚が体調不良に陥ったための代打だ。水曜の昼に辞令が降り、そこから急ぎで仕事の引き継ぎやら出張の準備やらにかかった。そのかいあって、どうにか無事に出先での仕事を終えたものの、今度は天候のトラブルに見舞われる。本来であれば日曜の夕方には戻って来られたはずが、大雨と強風、それに伴う公共交通機関の乱れという怒濤の展開。一体俺がなにをした、とぼやきたくもなるが、幸い宿泊先に困ることはなかった。

 せめてもの腹いせにと、少しばかり高めのホテルで天候の回復を待ち、ようやく熊本を発ったのが月曜日の昼。


「急な出張だった上に色々と大変だったろう? 今日はもう直帰でいいよー」


 気の良い上司のその言葉に甘え、それでも自分がいない間に何もなかったかと晴香に確認を取ることは忘れない。


「先輩お疲れ様です、こっちは大丈夫ですよ! ってかわたしちゃんと毎日報告してましたけどー!」


 電話口でそう叫ぶ晴香を軽く流し、そうして葛城は久方ぶりの我が家に帰宅した。







 明けて火曜日、これまた久方ぶり、に感じる己の職場に一安心してしまうが、これははたして喜ばしいことなのかどうなのか。すっかり社畜根性が染みついてねえか? と自問自答しつつも自分のデスクに着く。パソコンを立ち上げ、晴香が纏めて置いている書類の束に目を通していれば、ほどなくして人の気配が増えた。


「お? 随分と早いじゃん」


 お疲れ、と肩を叩いて通り過ぎる中条の後ろで、晴香が一瞬だけギョッとした顔をしたのを葛城は見てしまった。見てしまったからには無視もできない。


「日吉」

「……お、はようございます先輩ほんと早すぎじゃないです? ちゃんと休みました?」

「あー……はよ……なあ、お前本当に何もなかったのか?」

「え? なにがですか?」


 すでにいつもの晴香である。先程のは見間違いか、と思うほどに常と変わらない。いやでも確かにコイツ、と葛城は軽く片眉を上げる。


「先輩がいなくても平穏無事になにひとつ滞りなく済んでますよ?」

「言い方ぁ!」

「言葉の裏を探そうとするのは先輩が腹黒だからじゃないですかって冗談ですってばこわい! 顔が怖い!」


 朝から機嫌悪いなあ、とブツブツ言いながら晴香も自分の席へと着く。その姿を横目にしつつ、ひとまず葛城もこの場は矛を収めた。気にならないわけではないが、少なくとも仕事に関して何事かあるのであれば、それはきちんと報告をしてくるはずだ。「報連相」を徹底するように晴香に教え込んだのは葛城であるし、晴香はそれを遵守している。

 それでもどこか完全に拭い去れない違和感を抱えつつ、葛城は出張の報告書を纏めるべくパソコンに向き合った。






 ただの気のせい、で片付けてみたものの、やはりそうではなかった。どうしたって晴香の様子がおかしい。

 朝に顔を合わせた時、外回りから戻った時、昼休憩でしばし離席して再び戻った時――その都度、晴香がギョッとした様な、一瞬真顔になる様な、とにかくそんな反応を示してくる。いざ仕事を始めるとそんな態度は出ないし、電話で話す時も特に挙動不審になるわけでもない。だからこそ余計に目立つのだ、出会い頭のその反応が。

 火曜日に戻って来てからの水木、と三日もあれば不在中の仕事の流れも勿論ながら、職場での出来事も把握はできる。どちらについても何かしら問題があったわけではない。晴香が何かしらに巻き込まれているという事もなかった。

 そうして向かえた週末金曜日、それでも依然として晴香の態度はおかしいままだ。その原因を問い詰めたくとも、何かと仕事が立て込んでいたためそれを片付けるのに精一杯で、仕事帰りに晴香を捕まえる事すらできずにいる。


「なんでアイツはあんな……」

「どうした?」


 思わず声に漏れていたのか、休憩スペースで共に珈琲を飲んでいた中条が怪訝な顔をする。

「……日吉のやつ、なんかおかしくないか?」

「日吉ちゃん?」


 そうだっけ、と中条が考える素振りを見せると、思わぬ所から同意の声が上がった。


「あー、ねー、日吉さん見てると懐かしい気がしてくるよ」


 ほわほわとした笑みを浮かべた課長と、ウンウンと頷く主任が葛城と中条の会話に参加する。


「懐かしいって……?」

「ちょうどねえ、うちの娘が人見知り全開だった時の反応に似てるんだよねえ。忙しくて中々起きてる時に帰れなくて、久々に夜に会ったら知らない人を見た時みたいな……」

「僕はあれですね、実家に帰った時に猫が完全に僕のことを忘れてて、警戒して寄ってこなかったの思い出しました。あれ辛かったなあ……子猫の時から僕が育ててたのに……」

「ああー……つらいよねえ」

「ですねえ」


 しみじみと二人が話す横で、中条はようやく納得がいったのか「たしかに」とポツリと呟く。言われてみれば確かにそうだと、ここ数日の光景が蘇る。


「ほんと……日吉ちゃんお前の顔見た時なんかヘンだったわ……」


 葛城もようやく腑に落ちた。晴香のあの態度、あの表情、あれは完全に飼い主を忘れた


「……あの野生動物……!」


 野生だったら飼い主関係なくね? との中条の突っ込みを完全に流し、「野生動物?」と首を傾げる課長と主任に軽く挨拶だけして葛城は休憩スペースを飛び出した。

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