第31話 2




 元彼の存在は最早無きに等しい状況であるが、とんだ伏兵が現れてしまい晴香は居心地が悪い事この上ない。無碍にするにもできない相手――友人の職場の先輩、に何故か異様に絡まれている。


「あれー? 日吉……晴香ちゃん、だよね? あんまりグラス減ってないけどお酒苦手?」


 友人との会話で名前を知られてしまった。だからと言ってそこで即座に下の名前で呼んでくるとは馴れ馴れしいのではなかろうか。見事なまでの愛想笑いで流すがグイグイとメニューを押しつけてくる。本気で面倒くさい。友人の職場ではイケメンエリートとして人気であるらしいが、言動が軽くて彼女は嫌っている。たしかに軽いなと晴香も思った。自分の所で言えばちょうど一課の吉川と同じに感じ、週頭の出来事を思い出し自然と眉間に皺が寄る。


「竹原さんあんまりこの子に絡まないでやってくださいよ。人見知りなんですってば」

「そう言うなよ坂下ぁ」

「私達は女子会中なので空気読んでください」

「冷たい! 坂下が冷たい! ね、晴香ちゃんどう思うこう言う後輩」


 なぜ自分の会社の後輩は名字呼びで関係ない自分を名前で呼ぶのか。ただでさえ友人達との気楽な飲み会を邪魔されて気分を害していると言うのに、さらにこの気安すぎる態度に晴香の苛々は募る一方だ。悪態の一つでも吐いてやろうかと思うが、それでもやはり友人の職場の、と思うと耐えるしか無い。


「俺さあ、晴香ちゃんみたいな子タイプなんだよね」


 初対面でさらに酒の入った状態で口説いてくるとはチャラいですね! と、喉まで出かかった言葉をグラスの中身でどうにか飲み込む。代わりに隣で友人――坂下千里子が「うわチャラい」と代弁してくれた。


「そういや晴香ちゃんって飯島の元カノなんだって?」


 突然の暴投に晴香はもちろん友人全員が固まる。直後、ものすごい勢いで隣の席、奥に座る元彼に視線が飛ぶ。あんたなに喋ってんの!? という無言の圧力に元彼が懸命に詫びている。


「竹原さん無理矢理聞き出したんですか!?」

「いやだってさあ、坂下とか他の子らもすげえ目つきで飯島見てるからどうかしたのかなー、って思って」

「学生の頃の話ですよ」


 さすがに黙り続けているのも無理かと晴香はなんでもない風を装う。実際元彼の事はなんとも思っていない。今一番晴香の心をざわつかせ、もとい、苛つかせているのは目の前に居座る男だ。なんとか苛立ちを抑えるのに必死になる。


「だよねえ。ってことは今は晴香ちゃんフリーなんでしょ? だったら俺とかどう?」


 ニコニコとした笑顔を向けつつも目は真剣だ。獲物を狙っているかの様なその視線。自分の顔の良さを自覚しているからこその自信とそれに伴う行動なのだろうが、興味の無い相手からの好意の押しつけは迷惑以外の何物でもない。そもそもあなたよりわたしの先輩達の方が中身も外見もずっと遙かにぶっちぎって上ですー!! などとそんな子供じみた叫びを上げたい勢いであるが、それよりももっと強力な手札を自分は手にしているからと晴香は余裕を見せる。


「せっかくですけど、その、いちおう、彼氏もちなので」

「え!?」


 驚愕の叫びは竹原から、ではなく周囲の友人達からだ。


「え、ちょ、まっ……いつの間に!?」

「うっそホントに!?」

「脳内じゃなくて!?」

「三枝以外に飼育員ができたの!?」

「みんな驚きすぎぃ!! そして失礼にもほどがあるんだけど!」


 学生の頃からの友人ではあるが、数人はもっと前からの繋がりがある。今はこの場にいない三枝は一番付き合いが長く、初対面は小学生の頃だ。ずっと晴香の面倒というか突っ込みを続けていたせいで「飼育員」と呼ばれている。先輩もなんだか自分のことをそんな言ってたな? と晴香は今になって不安に襲われ始めた。てっきり友人達の馴れ合いによる戯れ言だと思っていたが、全く無縁の葛城や中条にまでそう言う認識を持たれているということは、つまりは


「わたしそんなに野生動物?」

「いまさら?」


 即答する友人達に情け容赦は欠片も無い。えええ、と唸る晴香に被せる様に堪えきれない笑いが上がる。


「晴香ちゃんが野生動物か……たしかにそんな感じだよね、すっごい警戒心強い感じがまさに」


 だから初対面の人にそんな言われる筋合いは無い、と今の瞬間存在を忘れていたのにまたしても入り込んできた事に素直に腹が立つ。今度は流石に顔に出てしまい、ごめんごめんと軽く謝られた。それもまた腹がですね、となるが横から腕を引かれて意識がそちらに向く。


「ちょっと誰よ誰なのよどんな人なの!?」

「ええと……職場の先輩」

「先輩ってあの人!? 前に言ってためっちゃイケメンだけどすっごい人相が悪いって人!」

「万年ブリザードの人?」

「でもその人最近雪解けしたんじゃなかったっけ?」


 竹原をあえて無視する意図が半分、そして純粋な興味半分で友人達がせっついてくる。写真はないのか写真、と体ごと揺すられ晴香は携帯を取り出した。


「写真あったかな……」


 付き合い始めたのは何しろ一週間前。それまではただの職場の先輩と後輩であるからして、携帯に写真を撮る様な事は皆無だ。


「ほんとに彼氏なの?」


 どこかからかいを含む声を竹原から向けられる。この人本当に腹立つなあ、と晴香は無言で写真フォルダを探す。プライベートで撮った物はないけれども、確かイベントの設営などで撮った中に映り込んでいたのがあったはずだ。


「あ、あったこれだ。これ先輩」


 中条と二人で商品展示をしている時の写真を見つけて友人にだけ見せる。横顔ではあるけれども、顔ははっきりと分かる。


「どっちの人!?」

「待ってこれどっちもすごいイケメンなんだけどー!」

「左の背の高い方」


 きゃー! と黄色い声が上がる。隣りの席からも何事かと興味の視線が飛んでくるが、盛り上がる友人達の壁で塞がれる。元彼からの視線も。


「あんたよくやったわね!!」

「イケメンの飼育員ゲットしたー!」

「どうやったの!? 一服盛った!?」

「洗脳?」

「ち、が、う!」

「俺も見たいなあ。見せてよ晴香ちゃんの今彼」


 きゃいきゃいと騒ぐ中に果敢に竹原が突っ込んでくる。この人すごいなー、と晴香はつい感心してしまった。空気を読まないのか、それとも自分の顔なら女性から邪険にされる事はないと思っているのか。友人達はあえて相手をしない事で圧をかけてくれるが、それで怯んではくれない。


「ねえ、見せてよ」

「先輩が知らない相手に自分の携帯は触らせるなって言ってるので無理です」


 えへへ、と笑いながらも渾身の反撃ができた。先輩の威を借りまくっているがこの場においては許されるやつだろうと晴香はフフンと胸を張る。が、これでも竹原は止まらない。それどころかさらに晴香を苛立たせる顔と声で挑発してきた。


「彼氏なのに先輩呼びなんだ?」

「――ウザいことこの上ないですね!」


 喉元まで出かかった。いや実際「ウザ」までは出てしまったが、それを凌ぐ勢いで友人達が反応する。


「この子恥ずかしがり屋なんですよー」

「そうそう、好きな相手ほど名前で呼んだりできなくって」

「変なあだ名勝手に付けて呼ぶんです」

「むしろ愛情の表れよね!」


 全くもってそんな事は無い。「先輩」呼びが抜けないのは単に癖付いているからに過ぎないのだが、今は沈黙を貫くのが最適であるからして晴香はもう一度えへへと笑った。

 その後も竹原が何事か話題を振ってくるがそれを適当に流しつつ、晴香は手にしたままの携帯をそっとテーブルの下で弄る。


【先輩がウザすぎて帰りたいです】


 今すぐ逃げたい一心でそんなメッセージを送ってしまった。すると即座に返信が届く。


【喧嘩売ってんのか?】


 一瞬なんの事かと考えたが、即座にこれでは葛城相手を言っているようだと気付き慌てて「友達の会社の先輩です」と文字を打つ。しかし送信する前に新たに画面が反応する。


【お前今どこだ? 迎えに行く】


 おそらくこれはちゃんと理解してくれている。葛城以外の「先輩」を指しているのだと。やっぱり先輩はすごいなあと嬉しくなり、晴香は笑みを浮かべながら店の場所を入力した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る