第32話 3
葛城に店の場所を送信した直後、竹原が席を外した。トイレに行ったのか煙草を吸いに出たのか。正直どちらでも晴香には関係ない。店を出るならこのタイミングしかないと晴香は急ぎ荷物を纏めた。
「ごめんね晴香、竹原さんがほんっっとごめん!」
「ううん、むしろわたしの方がごめん!」
「いいよいいよ、今日はもう三枝も来れないって連絡あったし、また今度みんなでゆっくり飲もう?」
とにかく早く出た方がいいよ、と言ってくれる友人達の言葉に遠慮なく甘える。とりあえず自分の分の会計だけ置いて店を飛び出た。葛城からはすぐに迎えに行くと連絡を貰っているが、そもそもどこから来るのかが分からない。葛城としては店の中で待っていろと言うつもりだったのだろうが、晴香はもう一秒たりともあの場にいたくなかった。
周囲を見渡すが当然葛城の姿は無い。外で待つには肌寒さを感じるのでこれはひとまず近場のカフェにでも入って待つか、と晴香は一歩踏み出した。その背にまさかの声がかかる。
「晴香ちゃん」
いっそ無視すればよかったのだが、晴香はつい振り向いてしまった。追いかけて来るとは思ってもいなかったのだ。
「これ晴香ちゃんのじゃない?」
声の主、竹原が晴香に薄いピンクのハンカチを差し出す。落とし物じゃないかと思って、と言葉だけなら親切心によるものだから、晴香の物ではないけれども素直に感謝の念を伝えられたのだが。
見つめてくる目が明らかにわざとであると言っている。古いナンパの常套句ですかと晴香はいっそ笑うしかない。
「あれ? バレちゃった?」
かっこ悪いな-、などと苦笑する竹原に「本当ですね!」と言えたらどんなにスッキリするだろうか。もういいかなあ坂下も嫌ってるって言ってたしこれ以上我慢する必要もないよねえでもわたしも大人になったからここはやっぱり我慢、と晴香はどうにか自制する。しかしそれを竹原自身が踏み越えて来るのだからどうしようもない。
「あの場じゃちょっとチャラすぎたかもだけどさ」
「ソウデスネー」
「俺本気だから。どう? 俺と付き合わない?」
「あの、さっきも言いましたけど」
「彼氏がいるんだっけ? でもその彼氏と付き合ってどのくらい? まだそんな日が経ってないんじゃない?」
「そこまでお話しする義理はないかなと」
「晴香ちゃんってさあ、あんまり男と付き合ったことないでしょ? それこそ飯島と今の彼氏くらい?」
なんでそこまで分かるんだろうかと思わず驚きに目を見開けば、アタリだと笑みを深められる。
「なんとなく分かるんだよね俺、そういうの」
「それだけ色恋沙汰にうつつを抜かしてるってことですか?」
我慢の限界もさることながら、驚きと感心につい素直な気持ちをぶつけてしまう。それが剛速球であったのは若干申し訳ないが。
「言うね晴香ちゃん」
「すみません喧嘩売ってるとかではないんですけど、職場の後輩の友人で初めて会った相手にお酒の場とはいえあんまりにも馴れ馴れしいしグイグイ来るしおれイケメンだから! ってのを全面に押してくる人初めて見たって言うか、本当にいるんだなってのに驚いてしまって!」
「俺のことイケメンって思ってくれるんだ、嬉しいな」
「そこ拾うんですね! ポジティブすぎでは!?」
「そんなイケメンの俺とどうですか? 付き合ってみる気ない?」
「イケメンはわたしの先輩で間に合ってると言うか先輩の方が上なので!」
「そのイケメンの先輩が迎えに来てくれるの? さっき嬉しそうに携帯見てたよね? ちょうどいいから直接どっちがいいか見比べてみるのはどう?」
「比べるまでもないですね!」
面倒くさい! と言う感情を全部乗せて晴香は「じゃあこれで」と踵を返す。ここまで言えばいくらなんでも相手も去るだろうと考えていたが、それはどうやら甘かった。腕を掴まれ引き寄せられる。抱き寄せられる寸前、どうにか踏ん張って耐え全力で拒絶を示すが掴まれた力は緩まない。
「でも体の相性は俺の方が上かもしれないよ?」
近付いた耳元でそんな囁きがされる。瞬間、晴香の背中に一気に鳥肌が立った。
「晴香ちゃんそういうのもまだでしょ? 坂下と同じ年ならだいぶ若いじゃん、今のうちに色々試しておいたほうがいいと思うけどな」
きっとこれは甘い囁きとやらに入る物なのかもしれない。しかし晴香にとっては純粋に「気持ち悪い」以外の感情が沸かなかった。掴まれた腕も、耳に注ぎ込まれる声も、なにもかもが不快でいっそ吐き気さえしてくる。
離してください、と口にするのも気持ちが悪い。なるほどこれが生理的に無理と言うやつ、と晴香は全力で腕を引く。晴香が一瞬固まっていた事に油断していたのか、掴まれていた腕の力は緩んでおり簡単に振り払えた。しかし勢いが余り今度は反対の方向に晴香の体が傾ぐ。これは後頭部から地面に行くのでは、と晴香は衝撃に身を竦めた。視界の端に一瞬映った竹原の慌てた様な顔からしても間違いない。まずいなー受け身ってとれないよねえそもそもやり方知らないし、と晴香は覚悟を決めるが地面ではない感触が肩に触れる。
「お前なにやってんだ」
反射的に閉じていた瞳はその声に即座に開かれる。
「先輩!?」
「酔っ払ってんのか? 俺のいない所で飲むなって言ってるだろ」
転びかけた晴香の背中を支えているのは葛城で、そしてそんな事言ってませんよね? と思わず突っ込みそうになる晴香の頭を引き寄せるとこめかみに軽く口付けた。ひ、と漏れ出た悲鳴はそのまま頭ごと腕の中に閉じ込め、今度は頭頂部に口を寄せる。
「迎えに来るのが遅れたな、悪い」
声が甘い。それこそベッドの中で聞いた声よりも甘いかもしれない。竹原と寒さのせいで全身鳥肌が立っていたが、今の晴香は羞恥のために熱くて堪らない。今顔を見せれば真っ赤どころの騒ぎではないだろう。仕方なしに葛城にしがみつく腕に力が籠もる。
「せんぱい」
「どうした?」
「……おれの女アピールがひどすぎるんですが」
「俺の女アピールしてんだよ。させろよ外にいる時くらい」
小声での会話ではあるが、それでも距離が近いので竹原には筒抜けだ。仮にも付き合っている者同士の会話としてどうなのだろうかと、晴香はそっと視線だけを動かした。すると竹原は先程までのやたらと自信のあった顔は消え失せ、なにやら挙動不審に陥っている。
「どうも?」
あ、なるほどと晴香は察する。葛城の腕の中に顔を埋めたままなのでその表情までは窺えないが、声の質からして最大級にヤバイやつで間違いない。自分よりも身長が高く、自慢の顔面偏差値も上で、そして容赦なく放たれる威圧感。呑まれた時点で相手の負けだ。
「ええと、はる……日吉さんの彼氏、さん?」
おっと途端に名字呼び、と晴香は竹原の身の代わりっぷりに小さく拍手を送る。分かる、こんなブリザード全開のお前ぶち殺すぞな先輩を前にしたら全力で日和る、日和るわー、とかつての自分を思い出してしまう。
「ああ。コイツになにか用でもあるのかな?」
「いえ、その、ハンカチ、忘れてるかなって思ったら違ったみたいで!」
「本当にお前のじゃないのか?」
竹原と晴香に掛ける声があからさまに違いすぎる。これはこれで鳥肌立つんですけど、と叫びそうになるのを飲み込んで晴香は「はい」とだけなんとか答えた。
「わざわざ外まで追いかけてきてもらって悪かったな」
威嚇がすごい。竹原は完全に尻尾を巻いた負け犬状態で「いいえ」とだけ返して急いで店の中に逃げ帰る。その背が完全に消えると、葛城は晴香の頭をポンポンと叩いた。
「行ったぞ」
「……ありがとうございました」
「ほんと悪かったな、も少し早く来てやれなくて」
晴香は静かに頭を横に振る。むしろ早すぎたくらいだ。
「歩けそうか?」
はい、と頷くが晴香はその場から動かない。葛城にしがみついた腕もそのままだ。
「日吉?」
訝しんだ葛城が腕を緩めると、その隙間から見える晴香の耳は真っ赤に染まっている。ブハ、と吹き出す声に晴香は悔し紛れの言葉を吐く。
「やっぱり先輩チンピラじゃないですか……!」
「それが穏便に助けてやった俺に言う台詞か」
ギリギリと腕の力を絞められ晴香の頭部が悲鳴を上げる。バシバシと葛城の体を叩いて解放を求めるがしばしそのままで、故意にとはいえ周囲に漂っていた甘い空気は見事に霧散した。
「先輩すごく早かったですけどどこにいたんですか?」
「あー……お前がどこで飲むのか聞いてなかったからいつもの居酒屋だな。結果的に近かったから良かったけど」
「中条先輩と飲んでたんです?」
葛城のマンションへの帰り道。晴香に問われ葛城は「いいや」と短く返す。
「今日は飲んでない」
「え、めずらしい」
「こないだも飲んでねえだろ」
「っ、あれは……!」
さ、と晴香の頬に赤みが増す。向かう先が葛城の部屋と言う事は、つまりはこれから先待っているのは日曜日に宣言された通りの物である。ただでさえ妙な緊張感で心臓はずっとうるさいままなのだからこれ以上動揺させるのはやめて欲しい。恨めしげに背中を睨み付けるが、軽く横目で見られただけで後は鼻で笑われた。
「まあなんだかんだ言っても先輩もそろそろ休肝日をもうけた方がいい年頃ですもんね」
「日吉ぃ」
晴香の憎まれ口にいつものごとくで返すが、これは機嫌を損ねているどころかむしろ逆の声で、その事に晴香は「あれ?」と首を傾げる。
「なんだよ?」
「ナンデモナイデス」
なにを不思議に思ったのか自分でも分からない。なので晴香は違う疑問を投げかける。
「中条先輩はどうしたんですか?」
「お前から喧嘩売ってんのかよって連絡来たから置いてきた。今頃あいつも帰ってんじゃねえか?」
「なんだかすみませんな感じですね」
「別にいいだろ。中条となんていつでも飲めるし」
「そうですけど、せっかく二人でいたのに」
「なんだよお前やけに中条気にしてんな?」
「え、普通では?」
「……昨日の帰りもなんかおかしかったなそう言えば。俺のいない間になに話してた?」
ギクリ、と思わず肩が跳ねる。葛城の眉間の皺が一つ増えたのを感じ、晴香はこれはマズいと話題を反らす。
「別になんてことないですよーってなんですかそんなこと気にするってもしややきもちですか」
「そうだ、って言ったらどうする?」
「マジですか」
「少なくとも半分はマジだなあ」
「中条先輩ですよ?」
「でも、だよ」
「器が」
「小せえ男だよどうせ」
からかう素振りもなければ、照れた様子もない。淡々と紡がれる言葉はしかしじわりと晴香を浸食する。ドクドクと速くなる鼓動と共に頬に熱が集まるが、暗い夜道でそして前を向いたままの葛城にはどうやら気付かれていない。
「むしろ浮ついた俺から解放されて喜んでたけどな」
なにがですか、と晴香が問うがそれに葛城は問いを重ねてきた。
「なんで飲まなかったと思う?」
気付けば葛城の部屋の前だ。鞄から鍵を取り出しカチャリと回す。一旦は終わった話をここで繰り返す意味とは。
「そういう気分じゃなかったとかじゃなくて? なにか理由あるんですか?」
葛城はドアを軽く開けるとそのまま晴香の腕を緩く掴む。
「そんなの決まってんだろ」
「なんです?」
「お前を素面で抱くためだよ」
静かな声音に反して力強く腕を引かれ、晴香は声を出す暇もなく中へと引きずり込まれた。
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