第33話 4




 背中にドアが激しくぶつかるが、後頭部には葛城の手が回されていたおかげで痛みはなかった。しかしその為に顔を動かす事ができない。顔どころか、膝の間には葛城の脚が入り込みこちらも身動きを取るのは不可能だ。

 逃げ場がない、そう思う間があっただろうか。ぐ、と顎を押し上げられ唇を塞がれる。驚きに身を竦め反射的に口を硬く閉ざすが、そこを無理矢理こじ開けて葛城の舌が入ってきた。


「んっ……!?」


 多くはないけれども、それでも何度かは交わした口付け。けれどこれは初めてだった。こんなにも激しく腔内を貪られた事はない。今までのでも晴香としては堪ったものではなかったけれど、それでもあれは手加減されていたのだと嫌でも思い知る。奥の奥まで葛城の舌に蹂躙される。息継ぎも、自分の唾液を飲み込む暇すらない。後頭部にあった左手と顎を持ち上げていた右手はいつの間にか晴香の両耳を塞いでいる。外からの音は聞こえず、ただひたすら舌が交わる音だけが鼓膜を揺らし、晴香の膝はガクガクと震え始めた。微かに体が下がると、脚の間にある膝が必然的に一番敏感な場所へ触れる。


「ぁあッ!」


 弾みで唇がずれ、甘い啼き声が玄関に響く。そうだ、ここはまだ玄関、と晴香は一瞬正気を取り戻すがすぐにまた口を塞がれる。奥に逃げた舌を絡め取られ、逆に葛城の口の中へと引きずり込まれた。かと思えば、舌の裏側を優しく撫でられ、唇で食まれ、じゅ、と音を立てて美味しそうに啜られる。


 まるごと食らい尽くす様な口付けに正気は見る間に奪われていく。代わりに快楽が深く刻まれるが、一度正気に戻った為に晴香はそれになんとか抗う。こうなる事が嫌なのではない。ただ場所がさすがにマズいと言うか、このままではここで最後までされてしまうのではないかと、それはいくらなんでもちょっと、と晴香は懸命に葛城の背中を叩く。しかし葛城は止まってくれない。口の中と膝の動きが激しさを増し、晴香に無駄な抵抗は止めろと直接体に訴えてくる。


 本当に先輩待って、と晴香が息苦しさとそれを超える気持ちよさに押し流されそうになるのをどうにか耐えていると、葛城の左手が不意に動いた。右手は相変わらず晴香の片耳を押さえたままで、片手が離れた分逃がすものかと上半身で押さえてくる。その間に離れた左手が何をしているかと言えば、玄関の鍵を掛けチェーンまで嵌めている。

 先輩余裕じゃないですか! と晴香は意を決して葛城の両肩を全力で押した。少しだけ離れた顔と顔の間にすかさず掌を滑り込ませると、途端に葛城の眉間に皺が寄る。しかしここで負けるわけには晴香もいかない。


「せんぱい、ちょ……ステイ! ステイですステイ!!」


 ぐ、と前のめりになったまま、そして晴香の掌に口を覆われたままそれでもなんとか葛城は動きを止める。これむしろ先輩の方こそ野生動物なのでは? ついそう考えてしまう晴香に対し、嫌なのか、と無言で問いかけてくる葛城の視線の強さといったらない。これは反らしたら即仕留められるやつだと晴香は気圧されながらも叫ぶ。


「先輩ここ玄関ーっ!!」


 葛城の目付きが若干緩む。キスをするのが嫌なのではなく、玄関という場所でなければ、せめて部屋の中でお願いします、と今度は晴香が無言で訴える。

 真っ赤な顔で、そして潤んだ瞳でじっと見つめる事しばし。葛城の体から力が抜け、そのまま晴香の頭の上の扉に額を押しつけた。


「……先輩?」

「悪い……がっついた」


 声がこれまで聞いた事がないトーンで、晴香は首を動かした。が、そのまま押さえつけられる。これ前もあったな? と蘇る記憶は己の恥ずかしすぎる記憶も犠牲にするが、おかげでこれは先輩が照れている時の声だと思い出す。


「先輩もしや照れてます? ねえ、照れてますよね!?」


 見たい。貴重な照れ顔とか見たいに決まっている。晴香はもがくがそこまでバレていて葛城が許すはずもない。晴香の頭を押さえたまま器用に上着を脱ぐとそのままグルグルと顔に巻き付ける。うわ、と驚く晴香を無視しさらに膝から持ち上げるとそのまま部屋へと入って行く。晴香の靴はこれまた器用に片手で脱がせて床に落とした。

 リビングのソファに晴香を乱雑に降ろしたのは完全なる八つ当たりでしかない。


「わたしの扱い方が雑すぎでは!?」

「取り扱い注意のシールが貼ってなかったからな」


 顔から上着を剥ぎ取るとすでに葛城はいつもの顔をしている。見逃した、と悔しがる晴香にうるせえとだけ返して葛城は玄関へと向かう。靴でも片付けているのかと思えば、突然の事に落としたままの荷物を持って戻ってきた。


「風呂の用意してくる」


 だからお前も準備してろ、とバスルームへ消える背中を思わずぼんやりと見送った後、晴香は慌ててバッグの中から着替えを取り出した。




 浴槽にお湯が溜まるまではいささか時間がかかる。それは当然だし理解するまでもない事だが、現状が晴香には理解できない。

 ソファに深く腰掛けた葛城の膝に横抱きに座らせられ、ひたすら口付けを繰り返されている。さらには服の上からとはいえずっと胸元や腹部、太ももにその内側までをも撫で回されているのだから理解不能もいいところだ。

 玄関でされたような激しさは今は欠片もなく、軽く触れたり唇を舐めたり、時折優しく舌を絡めるだけの穏やかなキスが続いている。体に触れる手もゆったりと体温を分かち合うような触れ方だ。しかし着実に晴香の体に熱を灯してもいく。


 気持ちがいい、けれど、それだけでは足りないもどかしさも感じてしまう。息継ぎの合間に葛城と目線が重なる。離れた所ですぐに唇が触れてしまう距離だ。葛城の瞳の中に自分の蕩けた顔が映っているのが見え、晴香は羞恥で首を反らした。


「晴香」


 こんな時ばっかり名前で、と顔を顰めるが、無理矢理元の体勢に戻されて宥める様に頬に額に眉間の皺に、と唇が落とされる。くすぐったさと気恥ずかしさに堪えきれない笑いが漏れると、口付けを繰り返す葛城の唇も弧を描く。戯れで繰り返されるキスに機嫌が上向いた晴香はずっと葛城の胸元を掴んでいた指を離すと、スルリと両腕を伸ばして今度は首筋にしがみついた。そして顔を上げて葛城の顎の下や首筋、つい目の前にあったために喉仏にキスを一つ落とす。ビクン、と葛城の全身が大きく跳ねたのはそれと同時だった。


「わっ!?」

「……お前」


 喉を押さえて見下ろす葛城の目元がほんのりと赤い。おっとこれはやらかしてしまった案件? でも先輩赤くなってる……? とその顔をまじまじと見つめると大きな掌で目元を隠された。


「先輩卑怯!」

「なにがだよ」

「そうやって自分が照れてるとこを見せないようにするのはずるいです」

「ずるくて結構」

「けち! しみったれ! 器がちっさい!!」

「うるせえ啼かすぞお前」

「それは漢字が難しい方の不穏な気配しかしませんが」

「試してみるか」

「お断りします」

「まあ拒否権はないよな」

「横暴ーっ!!」


 暴れ始めた晴香を葛城が軽くいなしていれば軽やかな電子音が室内に響いた。


「風呂の準備ができた」

「先輩お先にどうぞ」

「いいよお前が先に入れ」

「家主を差し置いては」

「なあ日吉」

「なんですか?」

「今はなんとか耐えてっけど、基本的に今日の俺はもう我慢の限界なわけだ」

「……と、言いますと?」

「気を抜くとさっきの玄関の時みたいにお前に襲いかかりそう」

「先輩ステイー!! 全力でステイですってば!」

「だから我慢してんだろうが。で、だ、この状況で俺が先に風呂を済ませてみろよ、お前どうなると思う?」

「イヤな予感しかしませんね」

「お前の風呂とかもう待てなくてそのままベッドに連れ込むぞ」

「僭越ながらお先にお湯借りますね!!」


 晴香は葛城の膝から飛び降りた。ソファ下に用意してあった着替え一式を抱え込むと逃げるようにバスルームに飛び込む。それと同時、ひああああと間の抜けた声を漏らしながらその場に崩れ落ちた。

 恥ずかしい。しぬほど恥ずかしい。今し方のやり取りもだし、ドアを開けてすぐの貪る様に口付けされたのもさることながら、何よりも恥ずかしいのは部屋に入ってからのあのゆったりとしたキスの応酬だ。


 流された。完全に葛城の雰囲気に流されてしまった。だって最後の方は自ら仕掛けてしまっていたではないか。まさかあんな真似をしてしまうなんて。


 ドクドクと心臓が五月蠅い。破裂してしまいそうだ。本番はむしろこれからなのに、と思ったところでまたしても呻き声が上がる。晴香だって覚悟を決めてきたし、それを望んでもいるのだ一応は。けれどもその覚悟を葛城が容赦なく壊してしまうのだから始末が悪い。あの人本当にもっと自分の顔の威力をさあ! 自覚してくれないとさあ!! これだから真のイケメンはタチが悪いんだ、と羞恥を怒りに変換させない事にはシャワーを浴びるのもままならない。


 そうよ先輩の動くR指定に比べたらあの飲み会にいた竹なんとかさんなんて雑魚よ雑魚!


 すでに名前もロクに浮かばない友人の職場の先輩を思い出せば、葛城との相違点がポコポコと晴香の中に湧き上がる。

 名前を呼ばれた時も、腕を掴まれた時も、真っ先に浮かんだのは嫌悪感だった。体を引き寄せられ耳元で言われた事は、話の中身も相まって虫唾が走るほどの物で。しかし葛城からは何をされても嫌だと思う事は無い。晴香と呼ばれて、抱き締められて、それこそ舌と舌を絡めあうほど濃密に触れ合ってもそこにあるのは羞恥だけだ。いやそりゃちょっとって言うかかなり気持ちいいなって思うけど! けど!! と晴香はそれを一旦頭の隅に押しのける。

 のろのろとした動きで服を脱ぐ。一応綺麗に畳んで、下着もその上に脱いでいく。ショーツに手をかけると同時、その変化に気付きうわあと思わず声が漏れた。羞恥の極みで最早泣きそうである。

 色まで変化しているショーツを目にし、なるほどこれが濡れるというやつ、とするにも恥ずかしい自覚にキレたい。こんな一人ドMプレイみたいなことになっているのも全部先輩のせいだ! 先輩じゃなければこんな風になったりしないし! そう晴香は脱衣所で叫ぶ。必死に叫ぶ。心の中で。

 晴香の中では葛城と同じくらい好きで尊敬している相手ではあるけれど、それでもやはり中条にされてもこうはならないだろう。そもそもからして、そうなる前に拒否感が勝る。


 そう、葛城以外では誰であっても無理なのだ。


 その事に改めて気付くと、不意に竹原に掴まれた腕がズクリと疼いた気がした。

 見た目にはなんの変化もない。うっすらと赤くなっているような、そんな気がする、かもしれない。

 しかしそれよりも何よりも気持ち悪さが晴香の中を駆け巡る。


 だめだ、これ綺麗に洗い流さなきゃ気持ち悪い……


 浴室に入ると晴香は勢いよくシャワーのコックを捻った。




 

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