第34話 5
腕を念入りに洗う事に集中しすぎた。時計が無いのできちんとした時間は分からないが、それでも気付けばかなりの時間が経っている、ような気がする。急いで髪と体を洗い、シャワーで泡を流す。せっかく湯船に湯を張ってくれているのでそれにも肩までつかると少しだけ気持ちも落ち着いた。
「先輩あがりました」
「おう、遅かったな。のぼせてんじゃねえかってそろそろ踏み込むところだったぞ」
リビングに戻りそう声をかけると、ソファに腰掛けたままノートパソコンを弄っていた葛城が顔を上げる。晴香はそれを目にした途端、無言で腕の中の服を床に置き、バッグの中から携帯を取り出した。
「先輩」
「ん?」
ノートパソコンをテーブルに置いて立ち上がった葛城を呼ぶ。振り返った途端シャッターを切った。
「……事務所通せよ」
「いやいやいやなんですか先輩自宅では眼鏡ってなんですかあざとい! 先輩があざとい!!」
「なんだそれ。ただのブルーライト用の眼鏡だぞ」
「なるほどそう言うのにも気を遣わないといけないお年頃」
「うるせえ……ってお前なにしてる?」
晴香は携帯を操作している。単に写真を撮っただけではない動きに葛城の眉が片方だけ上がった。
「先輩の眼鏡オフショットとかレア中のレアじゃないですか」
「だから?」
「先輩と中条先輩の写真をですね、同期の女子に送ると喜ばれるんですよ」
「おい」
「そしてそのうちわたしにちょっと豪華なおやつとして還元されるというシステム」
「肖像権って知ってるか」
「いいじゃないですかヘンなの送ったりしてないですし」
「……お前がいいならいいけどな」
その言葉が妙に気になり晴香は携帯から葛城へと視線を動かす。
「俺の眼鏡オフショットなわけだ」
「そうですね?」
「しかもその位置からだと部屋の中身も写ってんだろ?」
「はあ……」
「俺の自宅でオフショット、をどうしてお前が撮れたんだろうなあ?」
ニヤリと笑う葛城の顔が悪い。その凄味に思わずポチリと送信ボタンを押してしまったが、同時に言われた意味を理解して晴香は叫んだ。
「あーっっっ!! まっ……う、うわああああああ!!」
葛城のプライベートな写真をどうして撮る事ができたのか。晴香の部屋を訪ねた事もある同期もいるからして、ここが別の場所だと言うのもバレてしまう。先日の出来事は思わぬ形で誤魔化す事ができたが、さすがにこれは無理だろう。突っ込まれること間違いない。
「あ……っぶな!!」
既読が付く前になんとか画像の削除に成功した。せっかく風呂に入ってさっぱりしたのに全身汗だくだ。そんな晴香の頭を軽く叩いて葛城がバスルームへと向かう。
「おい日吉」
「なんですか!」
「長風呂してたんだからちゃんと水飲んどけよ。あと髪も乾かせ」
「……先輩おかあさんですか」
「お前の飼育員だよ」
「えー」
全力で不服の声を上げるも広い背中に弾き飛ばされた。葛城が洗面所からドライヤーを、そして冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し晴香へ渡す。
「男の風呂なんてカラスの行水だからな。グズグズしてるとすぐ出てくるぞ」
「ちゃんとゆっくり入ってきてくださいよ」
「俺としてはもう今すぐベッドに」
「お風呂! 先輩も仕事あがりで薄汚れてるんだから綺麗にしてきてください!!」
「薄汚れって」
「薄汚れた先輩から小綺麗な先輩になるまで近付かないでくださいね」
「ひでえ言い草」
それでも晴香の言葉がツボに入ったのか葛城は楽しそうに肩を揺らしながらリビングから出て行った。その背を見送って晴香もソファに腰掛ける。言いつけ通りに水分を摂った後ドライヤーで髪を乾かす。コードが腕に触れ、意識がそこに向く。そうすると消えたはずの嫌悪感がまた蘇り晴香は顔を顰めた。
ドライヤーを置いて袖を捲る。タオルでしつこく擦ったからか他の場所よりも赤くなっている。ただの気のせいだと分かってはいるが、それでも気持ち悪さが拭えない。
もう片方の袖を掌半分まで引き延ばし、ごしごしと肌を擦ってみるがやはり変わらない。
「日吉?」
不意に掛けられた声に肩が大げさに跳ねた。宣言していただけあっての行水っぷりで出てきた葛城が怪訝な顔をしている。
「お前なにやって……!」
晴香の赤く擦れた腕に気が付き大股で近寄る。
「先輩今日はちゃんと上も着てるんですね」
「お前が騒ぐからな、って腫れてんじゃねえか! 痒いのか?」
「……いえ、そうじゃないんですけど」
「ああもう、ちょっと待ってろ」
掴んでいた晴香の腕を離し頭をポンと一つ叩くと葛城はキッチンへと向かう。冷凍庫から保冷剤を取り出し再び近付いてくる姿をぼんやりと眺めながら、晴香は掴まれたばかりの自分の腕を触る。
「とりあえずこれで冷やせ」
首にかけていたタオルで保冷剤を包むと晴香の腕を取りそこに押し当てる。流れるような動作にさすが飼育員さん、とついそんな事を思ってしまった自分に呆れてしまう。
「どうした? 冷たすぎるか?」
晴香は首を横に振る。
「先輩」
「ん?」
「保冷剤はいいので、そのままわたしの腕を掴んでくれませんか?」
葛城をじっと見つめれば怪訝な顔はするものの言った通りに動いてくれる。下から支えるように腕を持ち、親指の腹でそっと赤くなった場所を撫でる動きに晴香は微かに息を飲んだ。
「痛むか?」
「痛いっていうか……その、気持ち悪くて」
「気持ち悪い?」
「ええと……あの人に掴まれたのが気持ち悪かったなって」
あの人、が誰を指すのか葛城にも伝わったらしく眉間に深く皺が寄る。
「お前の友達の」
「会社の先輩です」
「……一発殴ってやればよかったな」
さすがにそこまでは、と晴香は苦笑を浮かべた。
「俺が触ってるのは平気なのか?」
「そう、そうなんですよ先輩!」
ズイ、と近付けばその勢いに驚いたのか葛城が若干仰け反る。
「あの人に触られたり耳元で言われた時はこれが虫唾が走るってやつか、ってくらい気持ち悪くてゾワゾワしたのに先輩だと全くそんなことないなって」
「耳元って、なに言われたんだ」
「なんだっけかな、体の相性は自分との方がいいかもよとかなんかそんな」
「本気で殴ればよかった……」
「先輩顔がこわい」
「好きな女が他の男にちょっかいかけられてたんだぞ、平静でいられるか」
「だからー! 先輩すぐそんなこと言うー!!」
途端に赤くなった顔が恥ずかしくて晴香は腕を掴まれたまま俯いた。その時にふと思い出す、先週言われた言葉。そうか、と今度は勢いよく顔を上げる。
「なるほど先輩これですね!?」
「落ち着け、話が欠片も見えねえ」
「ほら、前に先輩が言ってたじゃないですか! 嫌いな人に触られたら嫌とか気持ち悪いってしか思わないって!」
「あー……ああ?」
「ほんとあの人に触られた時って気持ち悪いってしか思わなかったのに、先輩だと全然そんなことなくてむしろ触って欲しいなって思って」
「……おう」
「触られてもくすぐったかったり気持ちいいなってしか思わないからやっぱり先輩のことが」
そこまで口にして晴香は動きを止める。続く言葉が喉の奥で詰まって出てこない。
「俺のことが?」
晴香の腕を掴んだまま静かに見つめているだけだった葛城がそっと先を促す。
「先輩のことが……」
――好きなんだなと思いました
途端、晴香の全身が朱に染まる。反射的に逃げ出そうとするが、腕を掴まれているので当然無理だ。しかし半端な動きで脚がソファから落ち、そのまま体が引きずられる。うわ、と飛び出た声は床に落ちるが、晴香の体は葛城の腕の中にあり床への落下は免れた。
しかし今の晴香にとっては床の方が良かった。むしろ床に逃げたい。
「俺のことがなんだよ?」
腕は掴んだまま、そして抱き寄せた状態で葛城が耳元で囁いてくる。これはもう答えは見事にバレている。なのにあえて訊いてくるのだから性格が悪い事この上ない。
「……やっと好きだって自覚した?」
「あああああああ!! 耳、が、溶ける!! 先輩離してえええええ!!」
「馬鹿言うなこの状態で離したらお前逃げるだろ」
部屋から飛び出して外まで一目散で逃げる姿が容易に浮かぶ。葛城は腕の拘束をさらに強めた。
「まさかこの段階で自覚するとか……」
葛城が喉の奥で低く笑うと、抱き寄せられている晴香にもその振動が伝わってきて恥ずかしいやら八つ当たりでの腹立たしさやらで目の前がグルグルとしてくる。
「してました! 自覚はしてました!!」
「本当にかぁ?」
「好きだって思ってなかったらそもそも先週おとなしく先輩の家になんかいないです!」
「でもあの時はどっちかってーと俺に流されてただろ?」
「そりゃあんな怒濤の勢いでこられたら流されますよねえ!?」
気持ちを告げられ、自分もそうだと自覚し、そして勢いに呑まれた。それでもちゃんと葛城の事は好きだと思っていたのだあの時点でも。ただそれが「親愛」の情が強すぎて、まだ恋愛感情を上回っていた。それがやっとと言うか、このタイミングでと言うかで入れ替わったのだ。
触れて欲しい、触れたい、恋愛の対象として、この人が好きだのだと。
「ちょっと……こう……あの……むり……」
自覚した感情も恥ずかしいけれど、ここまで自覚してこなかったという事実もまた恥ずかしすぎる。いくらなんでも酷すぎではなかろうか、自分が。中高生の恋愛にしたってここまで酷くはないはずだ。
「せんぱいむりぃぃぃぃぃ」
「奇遇だな、俺ももう無理だ」
声は静かであるのに、そこに込められた熱の高さに晴香は身を竦める。腕の中のその反応に構わず葛城は晴香の両膝に腕を回しヒョイと立ち上がった。子供の様に縦抱きにされ、晴香は驚きに背を反らせた。
「先輩!?」
「暴れんなよ落ちるぞ」
「いやだから先輩!」
はいはい、と晴香の背を宥めるように叩きながら葛城はベッドへ向かう。無理、ほんと無理、と晴香は何度も繰り返すが聞き入れてもらえない。
ベッドに降ろされそのまま押し倒される。背中に伝わるシーツの冷たさに背が震えるが、掴まれたままの腕だけは熱を孕んでいる。
「ここ、気持ち悪いんだろ?」
そっと葛城の唇が赤くなった肌に触れた。それだけでさらに熱が上がる。
「っ……もう、だいじょうぶ、です」
だから離してください、と晴香が腕を引くがびくともしない。葛城は唇を寄せたまま晴香に笑みを向ける。
「他の男の匂いがする」
軽く鼻を鳴らすとその先端が肌を刺激してくすぐったい。
「そんなこと」
あるわけない、と続ける晴香に葛城は言葉を被せた。
「だから上書きしてやる」
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