事故・1




 おはようございます、と今日も元気に出勤した晴香であるが、いつもすでにいるはずの葛城の姿が見えず首を傾げる。


「先輩まだなんですね?」

「ね、珍しい。寝坊でもしたのかな」


 中条とそんな会話をしたのがまさかのフラグ、というわけでもないだろうに、そのタイミングで課長席の電話が鳴った。


「葛城の遅刻の電話かな?」

「えええ先輩がですか? そういやわたし、先輩が遅刻……どころか欠勤したところ見た事ないかもです」

「あいつ無遅刻無欠勤だもんなあ……」

「……社畜……」


 ね、と二人で笑い合う、そんな始業前のちょっとした緩やかな一時。それを課長の大声により一転する。


「え!? 大丈夫なのかい!? いや、コッチは気にしなくていいから! 誰か行かせようか!? うん? 一人で平気? 本当に!? 遠慮しなくてい……あああああそうだねとりあえずええと……病院分かったらすぐ連絡するんだよ! 日吉さんか中条君に行ってもらうから!」


 え、と晴香も中条も固まる。それどころかこの時出勤してた三課の人間全員が息を飲んだ。

「課長? 葛城君どうかしたんですか?」


 電話を切ったと同時に主任がそう尋ねる。課長は一言「うん」とだけ返し、晴香と中条を呼ぶ。


「日吉さん、葛城君の今日の予定って分かるかい?」

「椿さんの所と、新しく出店する予定のコメリア文具さんの所が予定に入ってます」

「悪いけど中条君、葛城君の代わりに行ってもらっても大丈夫かな?」

「はい、今日は出の予定は無いので大丈夫ですが……葛城、どうしたんです?」


 全員の不安の視線が課長席に集中する。大きく深呼吸を繰り返すこと二回、課長はちょっとばかり泣きそうな顔で豪速球を投げ付けた。


「葛城君――車に轢かれたって」


 この場合、投げたのは葛城であるが。





 



「おー、悪いな」


 預かった家の鍵を使い部屋の中へ入った晴香と中条を出迎えたのは、ソファに座ったまま暢気そうに片手を挙げる葛城だった。


「重かっただろ?」

「そうたいした物は買ってきてないから大丈夫ですけど……先輩こそ大丈夫なんですか!?」

「おまえ入院しないでいいのか?」

「そんな騒ぐ程のもんじゃないからな」


 頼まれて来た仕事のデータの入ったメモリを中条から受け取ると、早速葛城は自分のパソコンへと差し込む。その姿に中条は元より、晴香もうへえ、と顔を顰めた。


「……社畜が過ぎやしませんか」

「新規店舗の仕事がなけりゃ俺だって正々堂々と休みたかったよ」

「その辺は任せろって言っただろうが!」

「お前に丸投げするにも下準備がいるだろ」


 そうでなくとも中条だって仕事を多く持っている。そこに葛城の分までとなると、いくら不測の事態とはいえ申し訳なさが先に立つ。


「せめて今日とか明日くらいまで入院した方がよかったんじゃ……」

「だからそこまでじゃねえって」


 うえええええ、と晴香はさらに顔を顰める。


「先輩」

「葛城」

「なんだよ」

「全治三ヶ月の骨折って世間では重傷って言うんだよ」

「言うんですよ先輩!!」


 二人の声が重なる。それを「はいはい」と受け流す葛城の神経の図太さたるや。

 青信号の横断歩道を横断中、左折して来た軽自動車に葛城は轢かれてしまった。ぶつかられた衝撃は特に無く、気が付いた時には左側面を下にして地面に倒れていた。頭のすぐ傍に縁石があったものの、頭をぶつける事なく、それどころか上半身はほぼ無傷だったのだから奇跡に近い。

 しかし、奇跡はそこまでで、下半身はボロボロであった。左足の親指を骨折し、右足首にヒビが入るという、全治三ヶ月の重傷である。入院だって視野に入る程であるというのに、葛城は医師に尋ねられた時に軽く断った。


「だからっ! 安静にしてください!」

「とはいえ、上半身はほぼ無傷だからなー」

「メンタルだけじゃなく身体まで鋼なんですか」

「すげえだろ? まあ流石に凹んでるような状態だけどな」

「いい板金屋さん探しましょう。内側から打ち出してもらったら即直りますよきっと」

「おお、頼む」


 嫌味で返せば軽く流された。晴香は「もう!」とつい苛立った声を上げてしまうが、葛城が苦笑じみた顔を見せるのでそこで矛を収める。心配させたくないという気持ちはありがたいが、それにしたって軽すぎなのは自覚して欲しい。


「とりあえず色々買って来たんですけど、足りない物とかあったら言ってくださいね。食料なんかは都度都度買って来ます」

「かさばる物はおれが車出して日吉ちゃんと配達するから。その辺は遠慮するなよ」

「おー、本当にありがとうな。この礼はその内返す」

「いやもうそういうのいいんで、お願いですから大人しくしていてください」


 晴香は大量に買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、そのまま調理の準備に取りかかる。


「とりあえずカレーでいいですか? お皿の用意とか簡単に済みますし」


 部屋の中でも葛城は松葉杖が必要だ。しかも両方。あれ? と晴香は首を捻る。


「先輩、両手塞がってるのにお皿運べます?」

「あー……なんだ、最悪椅子そこに持って行って喰う」


 それか四つん這いで運ぶか? と口にする葛城は冗談ではなく本気だ。大人の尊厳、と晴香は玉葱を手にしたままポツリと零す。


「お前今からでも入院させてもらえよ」

「だから大丈夫だって。少なくとも今日の飯はお前らがいてくれるし、明日からもなんとかなるだろ」

「そりゃ、片手でも食べられる様にってパンなんかは多めに買ってきましたけど! それだけじゃ先輩足りないでしょう?」

「多少腹が減ったくらいじゃなんともならねえよ」

「明日も仕事終わってから来ますけど、それまで無理しないでくださいね!」


 どこまでも暢気というか、他人事の葛城の態度に晴香はプリプリと怒っている。その怒りを包丁に乗せて玉葱を切り刻み、他の野菜も手際よく調理していく。

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