第12話 2




 寝起きからのテンションの落差にふらふらとなりつつ、晴香は渡されたタオルを抱きかかえひとまずバスルームに続く扉を開けた。大きめの洗面台の横には乾燥機付きの洗濯機。中をのぞけばたしかに洗濯済みの下着が入っている。

 これを昨日見られた、どころか脱がされ洗濯までされたのだ。おおおおお、と羞恥に悶えるしかない。本当になんで、どうして、と純粋な疑問なのか羞恥心を誤魔化すための怒りなのか、晴香自身にもよく分からない感情のままに着ているシャツのボタンに手を伸ばす。そこで葛城の言葉をふと思い出しかけ、慌てて頭を横に振って追い出した。


 しぬ、あの言葉の意味を考えるのは当然ながら、思い出しただけでもしんでしまう。


 実際のところお風呂には入りたかった。一日中バタバタと働いていた金曜夜から今朝までシャワーすら浴びていなかったのだ。ゆっくり入って疲れを取りたいしさっぱりもしたい。とにもかくにもお風呂、と浴室へと入れば、わりと大きめの鏡が目の前にあった。どうしたって自分の姿が目に飛び込んでくる。

 鏡に写った自分の胸元に浮かぶ幾つかの鬱血痕。晴香は膝から崩れ落ちそうになりながら、それでもどうにか浴室用の椅子に座った。膝の上に両肘を付いて項垂れれば、重く長い息が口から漏れ出ててくる。

 腕の内側と手首の付け根、そして胸元に散る赤い印は葛城からの所有権の主張のようで、顔に熱が集まるのを堪えきれない。昨夜も口にしたが、本当にまさかすぎた。これまで晴香が目にしてきた葛城の姿からは想像もできない。こんな、彼女の体にキスマークを付けるような人だったとは。


 彼女、と浮かんだ二文字にギクリとする。


 え、これってわたし彼女ってことでいいんだよね……? 先輩に一応好きって言われたし、それにあんなことをしたわけだ……ああでも最後までしてないって言ってたしそもそも一回ヤッたくらいで彼女面ってどうこうって言うしえええええ!?


 思考が迷走する。冷静に考えれば目の前に答えは置かれているにも関わらず、昨晩からひたすら混乱し続けている晴香にはそれが見えない。グルグルと一人で考え込んでしまう。

 そもそもあの先輩がわたしのことをそんな、と体は前屈みのままで少しだけ顔を上げ目の前の鏡を見る。

 そこに写るのは特筆する事もない自分の顔。ブスだのなんだのと罵られた事はないけれど、かといって美人だとか可愛いだとか褒めそやされた事もない。時々、課内の上司や他の先輩達から可愛いねと言ってもらえる事もありはするけれど、それは晴香がおやつをもらって喜んでいる時であるからしてあの褒め言葉は子供や動物に対する「可愛い」と同義であろう。

 髪の毛は少しだけ癖っ毛だが上手い具合にふわりとした印象を与えてくれる。だがそれだけで後は特にない。仕事に邪魔にならない無難な肩に掛かる程度の長さ。そういや最近忙しくて美容室も行ってないな、と普段より長くなった毛先を弄りながら、まだぼんやりと鏡の中の自分を眺め続ける。

 身長はギリギリ一六〇センチに届かない。体型は細くもなく太くもなく。性格だって悪くはないだろうけれども格別良いというわけでもない。仕事はなんとか葛城に認められるくらいには頑張っているけれども、まだそこまでのレベルだ。葛城や中条の様にバリバリと契約を取ってくる、なんて事はできていない。


 ううん、と眉間に皺が寄る。当然目の前の自分の顔もしかめっ面で。


 本当にどこにでもいる普通の容姿だ。こんな平凡でしかない自分の一体どこをあの先輩は気に入ってくれたと言うのか。本気で不思議でならない。


 改めて葛城について晴香は考える。


 同期は勿論の事、他部署の女性社員からイケメンと評される外見。ざっくりとしたやや短めの黒髪に切れ長の目、一八〇センチをゆうに超える高身長とスラリとした体型。これだけでもモテる要素を盛りすぎだと晴香は思う。なのにさらに加わる営業トップと言う成績と面倒見の良い性格をしているのだから、一体どこの漫画の主人公ですかと突っ込みたくなる。口の悪さだって「でもそこが男らしくて素敵」とはしゃいでいる声を何度も耳にした事があるので、晴香としては乾いた笑いが出てしまう。最初の頃のブリザードを受けてもはたして同じ事が言えるかどうか。今でこそ葛城の補佐という立場を望む声が聞こえてくるが、あの頃は誰一人として見向きもしなかったではないか。同情こそされ、羨まれる事はなかった。


「……だめだ、息をするように先輩に対する愚痴が浮かぶ」


 コックを捻ってお湯を出す。晴香のアパートとは違いお湯と水を調整する必要はなく、適温のお湯が流れ出てくるのに素直にいいなあと思いながら、頭からシャワーを浴びた。

 濡れた髪をシャンプーの泡でしっかりと洗う。自分の物とは当然違う、少しミントの様な香りがするそれは葛城からほんのりと伝わる物と同じだ。

 先輩と一緒の、と浮かんだ考えに晴香は「あああああ」と叫びを上げる。急いでシャワーを捻れば勢いよくお湯が頭の泡を洗い流す。それと一緒にこの羞恥心も流れ落ちてくれないものかと必死に頭をこするが、残念ながらそれは叶わなかった。





 あの後も油断をすれば襲い来る羞恥心にゴリゴリと精神力を削られながら、それでもなんとか晴香は体を洗い湯船に浸かる事ができた。リラックスには程遠いが、サッパリしたいという目的が達成できただけでも御の字である。

 長湯というか、湯船でも悶絶したりなんだりしたせいで結果的にそうなってしまったために若干足取りがふらつく。もう遠慮もなにもするものかと、躊躇いなく冷蔵庫を開ければミネラルウォーターがあったのでコップに注ぎ喉を鳴らしてそれを飲む。ついでに中身を物色するが、失礼ながらこれと言っためぼしい物は無い。まあ先輩もずっと忙しかったし自炊してるかも知らないし、と冷蔵庫を閉じる。ぐう、と小さくお腹が鳴るが、今見た中身では料理をするにもメインとなる食材が足りない。出前を取るなら、と葛城が置いていったお金はあるけれども、そもそもこの格好で出前を取れるわけがない。ガサゴソとキッチン回りを漁ればパスタとレトルトのソースが見つかったので、ひとまずそれで空腹を満たすことにした。


「なんでわたしはこんなプチ遭難みたいなことに……」


 やっと落ち着いて休める土曜の昼下がり。元気があったら優雅にランチにだって行きたかったというのに、現実は職場の先輩宅で監禁状態である。


「わたしがなにしたって言うの……ってしたなあ……してる……めっちゃしてた……」


 そもそもこうなったのは金曜夜の居酒屋が全てだ。自業自得、の四文字がズドンと晴香の背中にのし掛かってそのまま押し潰してくる。

 いやいやそれにしたってね、だからってやっぱり泥酔して意識のない後輩の服どころか下着まで剥ぎ取るのはどうかと思うの! と意識をすり替えて晴香は立ち上がる。電子派だと言っていたがその前に買っていたそのテの本があるかもしれない。絶対見つけてせめてもの報復にしてやるんだから、とひとまず使った食器を片付けて宝探しならぬ、葛城の弱み探しを始めた。


 勢い込んで挑んだ時にはまだ陽は高かった。けれど気付けばかなり陽は傾いており、そして晴香の捜し物は今も見つからない。葛城の隠し方が巧妙なのか、それとも全て電子で揃えているのか。途中からパソコンも開いてみたが、画面に並ぶフォルダはどれも仕事関係の物であるし、ウェブの閲覧履歴も取引会社のホームページやら資格取得についての情報サイト、さらには大学図書館等の無料で閲覧できる専門的な情報が出てくるばかり。あの先輩は自宅でこんなにも仕事について知識を得ようとしていたのかと、これまでぼんやりとすごいなあ、と眺めていた葛城の努力の過程を知っておののきつつ、同時に尊敬の念を募らせる。


 そんな先輩と今こんなコトになってるんだけど、と不意に浮かんだ己への突っ込みは自爆するには充分で、一人ソファの上で悶絶していると不意に電子音が鳴った。


 もうすぐ帰る、と言う葛城からの短い連絡。晴香は指を動かし返信の文字を入力する。


『ご飯と味噌汁だけとりあえず作ったので、先輩足りないだろうからおかずは買ってきてください』


 わたしの分は大丈夫なので、と追加で送ろうとすればその前に葛城から新たにメッセージが届く。


『とんかつ』


 ろくなおかずになりそうな物は何一つ入っていない冷蔵庫の中身で、一体どうやってとんかつを作れと言うのか。味噌汁を作っただけでも褒めて欲しいくらいなんですが、と晴香が一言「無理ですよ」と返事を打ち込んでいると、その前にさらに一文が画面に浮かぶ。


『かってくる』

『きゃべつきってて』


 平仮名で二連続、そしてその後は届かない。取り急ぎ連絡だけしてくれたようだ。たしかにキャベツは入っていたなあ、と晴香は言われた通りにキャベツの千切りを用意する。水にさらしていれば再び葛城から連絡が入り、もう少しで着くとの事だったので皿に盛り付ける所まで準備を済ませた。


 先輩の帰りを待ちながらご飯の用意するのってなんだか――


 ポンと浮かんだ考えは晴香にとっては甘ったるすぎるものであり、まさか自分がこんな浮かれた考えを、という羞恥と驚愕とでこの部屋で何度目になるか分からない「あああああああっ!!」と悲鳴を上げていると丁度のタイミングで玄関の鍵が開く。

 そして飛んできたのは


「だからうるせえぞ日吉ぃっ!」


 と言う、甘さの欠片もない葛城の叫びだった。

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