第13話 3




「帰って来るなりうるさいってひどくないですか先輩おかえりなさい!」

「お前の叫びが外まで聞こえてたんだよおうただいま!!」


 そんな言い争いとすら言えないくだらない会話が玄関とキッチンで繰り広げられたりもしたが、とりあえず風呂、と言い残してすぐさま葛城がシャワーを浴びに姿を消して即終了した。その間に晴香は葛城が惣菜屋で買ってきたとんかつを盛り付け、炊きたてのご飯と味噌汁をテーブルに並べる。その背に「うまそうだろ?」と葛城の声がかかったので、お風呂早すぎやしませんかと振り返った晴香は再び叫び声を上げそうになった。寸前で飲み込んだのは何というか自分だけ動揺しているのが悔しい、ただそれだけ。


「なんだよ?」

「いくら先輩の自宅だからって……!」


 どうしたって頬に熱が集まるのは堪えきれない。


「昨日も見ただろ」

「そういう問題じゃないです!」

「思春期か」

「乙女心!!」

「お前のカッコよりはマシだと思うけどな」

「せ……先輩のせいでしょおおおおおお!!」


 シャワーだけ浴びてきたのか、まだ濡れたままの髪をタオルで乱雑に拭きつつリビングに姿を見せた葛城は昨日と同じく上半身は裸だった。それに対し晴香が突っ込めばさらなる返しが今のである。


「先輩がわたしの服クリーニングに出すから!」

「俺のでも履いてればよかっただろ」

「サイズ!」


 葛城のズボンを試しに履いた所で裃並に引きずるのは目に見えているし、そもそも勝手に人のクローゼットを漁るわけにはいかない。


「でも俺のエロ本探すのに本棚とかは漁ったんだろ?」


 晴香が騒ぐのでしかたねえな、と恩着せがましくTシャツを着て葛城は食卓に着いた。晴香も向かい側に腰を下ろして「いただきます」と手を合わせてから箸を動かす。


「で、見つけたのか?」

「分かりきってるくせにあえて訊いてくる先輩の根性」

「だから電子派だって言っただろうが」

「でもパソコンの中にだってありませんでしたよ! 履歴にすら残ってないし!! ってかなんですかあの中身! 仕事関係とかそんな真面目なのばっかりで先輩への尊敬ポイントがうっかり増えちゃったじゃないですか」

「日吉」

「なんですか」

「そもそもパソコンで見ているとは言ってない」


 とんかつを一切れ口にしたまま晴香は動きを止めた。葛城は大口を開けているわけでもないのに、皿の上はすでに半分以上空になっている。それをぼんやり眺めていたが、しばらくして晴香は口の中身を飲み込んでから答えを導き出した。


「……タブレット……!」

「動画にしろ画像にしろ観るのに便利だよなあ」

「でもタブレットとかもなかったですけど!?」

「留守番させてんのに見つかる所に置いておくわけねえだろ」

「ひーきょーうーっ!」

「仮に見つかったとしても、ロック掛けてっけど」

「さらなる卑怯っぷり」

「ばぁかセキュリティ意識の高さだ」


 キィッ! とわざとらしく腹立たしい声を上げ晴香はとんかつを頬張った。モゴモゴと口を動かしている姿を葛城が軽く笑みを浮かべながら見ているが、ムカつく先輩の相手などするものかととんかつに意識を向ける晴香は気付かない。

 ほれ、と晴香の皿の上に一切れ渡し、葛城は晴香の意識を自分へと向けさせる。


「このとんかつ美味いだろ?」

「お肉ぶ厚いし衣サクサクだしで美味しいですね! あ、味噌汁大丈夫ですか?」


 これで手打ちに、と言うわけでないけれども。晴香も本気で腹を立てていたわけではないので、すでに顔から不機嫌さは消している。


「美味い。お前料理するのな」

「いや、味噌汁くらいなら誰でも……むしろ先輩の家に味噌とだしの素があったのにびっくりでした。先輩こそ料理するんですね」

「適当だけどな-」

「使いかけで干からびかけたりしてましたけど、野菜も入ってたし」

「ここ最近はさすがにな」

「毎晩終電間近の日々よさようならです」

「すぐに再開するけど」

「ヤメテクダサイ」


 社畜は先輩だけでどうぞ、と晴香は謹んでお断り申し上げる。


「そういえば椿の方はどうなったんですか?」

「俺と中条が行ってんだぞ」

「先輩そう言う傲慢発言ほんとお似合いです」

「実力」

「だから一課と二課に目を付けられるのではー?」

「俺より弱いヤツに目ぇ付けられたところで痛くも痒くも」

「先輩がそんなだからわたしまでちょっと塩対応されるんですけど」

「気にするようなタマじゃねえだろ、お前は」

「そりゃ先輩のブリザードに比べたらあんなのそよ風ですからね!」

「お前もたいがい……」

「先輩の教育のたまものです」


 会話は淀みなく続き、そして箸の動きも滑らかだ。晴香は昼頃に軽くパスタを食べただけ、葛城もちょっとした物を摘まんだ程度の昼だったらしく、お互い空腹を抱えていたのもあって食事のスピードはおそろしく早かった。

 先に食べ終えた葛城が緑茶で一息つく頃、遅れて晴香も「ごちそうさまでした」と箸を置く。食べ終わった食器を片付けようとすると「俺がやる」と葛城が立ち上がった。


「わたし洗いますよ?」

「いいよ、お前準備してくれたし。茶でも飲んでろ」

「先輩っ……」


 不自然に言葉を止めた晴香に葛城は「ん?」と片眉を上げるが、晴香は露骨にそれを流して葛城がついでに淹れてくれたお茶に口を付ける。チラリと流し見はするものの、葛城も深く追求はせずそのままキッチンへと向かった。

 ザアザアと水の流れる音を背中越しに聞きつつ、晴香は危うく飛び出そうになった言葉を飲み込めた事にそっと胸を撫で下ろす。


「――先輩っていい彼氏ってか旦那さんになりそうですよね」


 口にしたが最後遊ばれるに決まっている。昨日と同じく、むしろそれ以上に。あと単純にそんな事を考えた自分が恥ずかしすぎた。帰宅前の葛城とのやり取りといい、かなり自分の頭の中身が浮かれている、ような、気がする。


「日吉」

「はいっ!」


 思わず背中が大きく反応してしまった。ぐ、とくぐもった声に葛城が笑いを堪えているのが分かり、ただでさえ抱えている羞恥がまた一つ増える。


「お前もなんか飲むか?」


 冷蔵庫から缶ビールを取り出した葛城は早速プルタブを開けている。心惹かれるものはあるけれども、全ての元凶と思うと晴香は「お茶で大丈夫です」としか答えきれない。


「ビール一杯くらいで」


 くつくつと笑いながら葛城が元の位置に座る。晴香もそう思うけれども、この小っ恥ずかしい感情を抱えるに至ったのはやはり、であるからして大人しく手元の湯飲みに口をつけた。

 なんだか急激に場が持たない。ソワソワとしてくるのをなんとか出来ない物かと視線が彷徨うと、壁掛けの時計が目に入る。改めて現時刻を見れば体感よりもだいぶ早い時間だった。


「先輩誘われたりしなかったですか?」

「あ?」


 缶に口だけを付けて葛城は続きを待つ。


「わざわざ休日に呼びつけたってだけでもお詫びの一杯、ってなりそうなのに、椿との契約も三課に取り戻してきたならそのまま飲み会にでもなだれ込みそうなのになって」


 三課長は来ていなくても、代理クラスは来ていたはずだ。契約を奪われた形になったにしろ、それ以上の損害をギリギリで防いだという事で二課長辺りからも誘われてもおかしくない。

 そんな晴香の疑問に葛城は簡潔に返す。


「彼女が待ってるからって断った」

「えっ!? 先輩彼女いるんですか!?」


 その答えに晴香は心の底から驚いた声を上げ、そして即座に剣呑な目付きに変わった葛城に気付いて己の過ちを思い知る。


「――日吉ぃ」


 全力で虎の尾を踏んだ。片腕をテーブルに乗せズイ、と身を乗り出して顔を近付けてくる葛城を晴香は両手で必死に制す。


「間違えました先輩落ち着きましょう深呼吸ですこう言う時は深呼吸がいいって中条先輩が言ってました!」

「昨日はまあ大目に見たけどな、二人でいる時に前の男とか他の男の名前を出すのは喧嘩売ってんのか嫉妬を煽ってんのかどっちだよって話だぞ」

「いやいやいや元カレはまだしも中条先輩ですよ!?」

「それでもだ。しかもお前今このタイミングでとかな、より一層な」

「同じ職場の先輩だしそれに先輩の同期じゃないですかー! なのにそんなこと言うとかちっさ! 器がちっさい!!」

「おうよ俺は器のちいせえ男だよ」

「開き直った!」


 身の危険、を文字通り感じてしまう。昨晩の比ではない、かもしれない。ひえええ、と怯えた声を漏らす晴香の手を掴み、葛城は逃げようとする動きを封じる。そのまま立ち上がりテーブルの向かい側に移動すると、軽い動作で晴香をヒョイと肩に担いだ。

 人間驚きすぎると声が出ない、という事も晴香は今宵痛感する。急激に変わった視界にもついていけず、思わず両目をぎゅっと閉じてしまう。その間にも葛城は寝室へ足を向けており、身を縮こまらせている晴香をベッドの真ん中に軽く放り投げた。


「うあああああ先輩ほんと待ってえええええ」


 諦め悪くベッドの上から逃げ出そうとする晴香であるが、足首を掴まれ葛城の元へと引き寄せられる。圧倒的な力の差に内心驚いたのは葛城の方で、晴香は逆にそれどころではない。嫌がおうにも蘇る昨夜の記憶に悶絶する。さらには今日の出掛ける前の葛城の言葉と、それらを引っくるめての自分の感情。

 すでに全身は真っ赤に染まっている。それに気付かぬ葛城ではない。失言の極みである所に今の晴香の状態。

 これまた昨夜よろしく散々からかわれて遊ばれるのは明白であった。


「お前が落ち着くようにちょぉっとばっかし話しようぜ日吉ぃ」

「無理! 絶対無理!! そんな顔した先輩と話しして落ち着けるわけないです無理ぃぃぃぃ!!」

「まずは認知の歪みを正すぞ」

「その前に先輩の性格の歪みを正しましょうよ!」

「余裕じゃねえか」

「あーっ!!」


 気が動転すればする程に淀みなく言葉が飛び出す己が口が、アルコール以上に元凶だなと今更ながらに思い知った。


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