第29話 2



 本日も何事も無く仕事が終わり、晴香は定時だ定時と浮かれていた。今日はゆっくり過ごすんだ、と思った瞬間蘇る記憶に堪らず叫びそうになる。いっそ壁に頭を打ち付ければ忘れてしまえるのではないか、と本気で考え始めた頃に突然中条に捕まった。


「日吉ちゃんご飯行こっか!」


 イケメンの笑顔は目に眩しい。うわ、と両目を閉じつつ今週はずっと外食続きなのでと断るが、日吉ちゃんの財布は別にあるから大丈夫と押し切られる。財布、と脳裏に浮かぶのは一人しかおらず、そのままロビーに連れて行かれた先で待つ葛城にやっぱりかと晴香はなんとも微妙な顔をしてしまう。できれば今日はあまり会いたくないと言うか会わせる顔がないと言うか。


「注射打たれる前の動物みたいな面になってんぞ」


 どうしたって昨日のことを思い出すから恥ずかしいんですよ! そう叫ぶに叫べず晴香は「例えがひどい」と葛城の脇を勢いよく突いた。




 いつも行くチェーン店の居酒屋ではなく、メイン通りから少し奥まった所にあるイタリアンの店に三人は入った。晴香も何度か連れて来てもらったことがある店で、値段の割にボリュームが多く味も美味しい。


「今日のは疲れたー」


 営業先の店舗で悪質なクレーマーに絡まれていた店員の変わりに応対したはいいけれども、余計な精神力を使って疲れた、と言う中条が今は葛城と晴香に絡んでくる。


「中条先輩クレーム客の応対上手いのに、それでも疲れたりするんですね」

「そりゃそうだよ。そもそもクレーム対応なんてしたくないし」

「でもわりと結構中条先輩クレーム来たとき変わってくれたりしません?」


 コールセンターがあるにも関わらず、どこから入手したのか希に営業部直通でクレームの電話がかかってくる時がある。対応部署に回そうとしてもそれを許さず、たまたま電話に出た相手を好きなだけ嬲ってくる悪質なクレーマーがほとんどなので、電話に出るのに若干の緊張が走る。そんな時に中条がいるとすぐに電話を引き継いで上手いこと纏めてくれるのだ。


「そりゃコイツの方が口が回るから」

「それはお前もだろ。日吉ちゃんは頑張って自分で片付けるのが多いよね」

「最初はイヤでしたけど、先輩の教えを受けてだいぶ平気になりました」

「葛城の教えって?」

「馬鹿がなんか言ってるなって」


 ブホ、と飲んでいたワインを危うく吹き出しかけるがなんとかそれを耐え、中条は晴香の隣でピザに食らい付いている男を見る。


「お前日吉ちゃんにロクなこと教えてないな」

「ちゃんとしたのならともかく、うちに直通のなんて馬鹿が自己顕示欲満たしたくてかけてきてるだけだろ? 本気で聞く必要はねえよ」

「中条先輩はクレーム客を相手にする時ってなにかコツって言うか、心構えあるんですか?」

「俺よりよっぽどコイツのが酷いぞ」


 指に付いたソースを舐める葛城に中条は笑いを浮かべる。


「え、なんですか?」

「そうたいしたものじゃないけど――今日のボーナスは良く喋るなあって」

「うわあ」


 あまりにも悪質なクレームに関しては、応対した社員に対して臨時ボーナスが支給される。数年前に始まった制度だが、おかげでコールセンターのやる気はもちろんのこと、現場やイレギュラー的に応対をする羽目になった社員も臆せず相手をするようになった。上層部の一部からは社員を甘やかしすぎでは、と意見も出たそうだが、社員のやる気となによりもクレームへのストレスから退職する社員が減るならばと社長が押し切った。おかげで社長の株は爆上がりしたものだ。


「でもこれ最初に言い出したの五月だからね」

「アイツは駄犬ほどよく吠える、じゃなかったか?」

「五月は基本的に口悪いもんなあ」

「先輩以上にですか?」

「お前は本当に俺に対してだけ口が悪いな?」


 晴香の頭を大きな掌で掴むと葛城はそのまま指先に力を込める。ギリギリと襲い来る痛みに晴香が葛城の腕を叩くが緩むことはない。そんないつもの二人のやりとりを「まあまあ」とちっとも心のこもらない声で、それでも一応宥める中条は無理矢理話題を変える。


「ところで今日は一日葛城と日吉ちゃんの話題で持ちきりだったんだけどさ」


 うえ、と晴香は露骨に眉を顰めた。やっと職場を出てその話題から解放されたと思っていたのに、まさか中条からまで振られるとは思ってもいなかった。


「日吉ちゃん、顔」

「日吉ぃ」

「だって今日ずっと言われ続けたんですよ! 普段あんまり話したことない経理の人とかにまで言われるし! もー! それもこれも先輩があんなこと言うから!!」

「事実を言っただけだ」

「わーっ!!」

「いや、うん、もうその辺りはどうでもいいっていうか本当にお前のそのテの具体的な話は聞きたくないって前に言ったよなあ!」


 いたたまれない気持ちになるからやめろ、と中条は睨み付けるが葛城は聞こえないとでも言わんばかりにグラスを傾ける。その態度に「このヤロウ」となるが一旦それは抑えて中条は話を続ける。


「それだけ色んな人間に知られてるのに、誰も二人の関係に突っ込んでなかったのがすごかったよなって」


 当人達は元より、同期で仲が良いからと中条も話を振られたりしたが、全員が口を揃えたかの様に同じ事を言ってきた。


「年頃の女の子の部屋に先輩だからって泊まるなって……」


 語尾に笑いが重なってしまう。その通り、ではあるけれども他にも浮かぶ事態はあるはずだ――一般的な成人男女の間であれば。


「先輩への信頼度の高さゆえですよね」

「え、そこ!? ってかそんな高くはないでしょ」

「なにがですか?」

「信頼度」

「先輩ですよ?」

「葛城だよ?」


 晴香と中条の間で葛城に対する認識の差がここで露見する。えええ、と互いに互いの言葉に不信を見せる中、葛城は黙々と口を動かしテーブルの上の料理を減らしていく。


「お前の話だよなに他人事みたいな顔してんだ」

「日頃の行いによるやつだな」

「だからお前だろ!?」

「先輩の日頃の行いなんてただのガラの悪いチンピラだと思うんですけどそれはまあ置いといてですね」

「本人前にして悪口言う上に放置かよ」

「わたしと先輩とじゃせいぜい兄妹にしか見られないってことじゃないですか?」

「それで思い悩むカップルもいるって言うのに日吉ちゃん平然としてるんだもんなあ」


 中条は笑いを噛み殺そうとするが失敗に終わり、わざとらしく咳払いで誤魔化した。


「兄妹……それか親子?」

「そこまで年離れてねえだろ!」


 ポツリと呟く晴香の後頭部を葛城がペシリと叩く。


「兄妹ってよりも、どっちかって言うとアッチの方が近い」

「なんですか?」

「野生動物と飼育員」

「中条先輩の同期がひどいんですけど!」

「あーでもそれよりももっと……なんだろう……こう……あ、あれだ、野生動物とそれに絡まれるカメラマン」

「あー……相手が人間だと思わずに近付いてきて背中乗ったり頭に乗ったりする野生動物……」


 そうそれ、と葛城と中条が大いに納得する横で晴香は「この先輩達がひどい」と盛大に憤るが全く相手にされなかった。




 食事中の会話はともかくとして料理自体はとても美味しかった。デザートのアイスとティラミスを先輩二人から貰った晴香はご機嫌だ。男二人は食後のコーヒーを味わっていたが、途中葛城の携帯に電話が入り離席中。そのタイミングで中条は晴香に静かに言葉を向ける。





「日吉ちゃん、あんまり葛城を信用しすぎない方がいいからね?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る