呼び名
仕事納めなのに納まらない。今日も今日とていつもと変わらぬ残業である。それでもぼちぼち帰る目処は付いた。そんな余裕ができたからだろうか、ふと目の前の光景に中条は疑問が浮かび、それをそのまま口にしてしまった。
「日吉ちゃんさ、葛城のこと最後に名前で呼んだのいつ?」
え、と晴香は元より突如名を出された葛城も呆けた顔をして中条を見る。あ、これ面倒くさいネタを振っちゃったなー、とこの瞬間それに気が付いた中条であるが、それにしたってもう遅い。一度飛び出た言葉は消せないし、この話題を晴香は軽く流す気はなさそうだ。
「え……ええええ……」
中条に珈琲の入ったマグカップを渡し、葛城には紅茶が入ったカップを渡し晴香は席に着く。自分用に淹れてきたのも紅茶で、そのカップを手にしたまま晴香はううん、と頭を捻る。
「なんだよお前、いきなり」
そんな晴香を横目でチラリと見た後、改めて葛城が紅茶に口を付けながら中条に問いかけた。ごもっとも、と中条も思うしかない。
「いやぁ……ほら、日吉ちゃんおれと五月のことは名前に先輩、って付けるけど、おまえのことは一貫して先輩ってしか呼ばないから」
「そんなの今に始まったことじゃないだろ」
「だからだよ」
そう、だから、そういえばいつから「先輩」とだけ呼ぶ様になったのかとか、最後に名前で呼んでたのいつ頃だっけ、とふと疑問に思ったのだ。
「……二人だけでいる時でも先輩呼びなのか?」
周囲に他に人はおらず、それでも一応声を潜める中条にしかし葛城は答えない。聞こえていないはずはないので、なるほどこれはそうなのか、と中条は呆れるやらおかしいやらで軽く吹き出した。カップの中身が半分以下まで減っているので零したりはしなかったのは幸いだ。
「それじゃあいつまでたっても名前で呼ばれないんじゃ?」
くつくつと愉快げに喉の奥で笑う中条に、ややあってポツリと晴香が呟く。
「そもそも名前で呼んだ覚えがありませんね……?」
「……そういや呼ばれた覚えがねえな?」
晴香と葛城が互いに「嘘だろう」という顔で見つめ合う。それに対し中条ははっきりと「うっそだろ」と声に出した。
「え、ほんとに? マジで?」
「あー……待て待て、いやさすがに……初めて三課に来た頃は……?」
「あの頃の先輩ってとにかく殺すぞ! みたいな勢いだったので声かけるにも決死の覚悟だったんですけど」
「だったらなおのこと名前で呼んでたんじゃ……ねえな? あれ? 俺本当にお前に名前で呼ばれた記憶が……」
懸命に記憶を掘り起こすが、一度たりとも名前で呼ばれた覚えが葛城には浮かばない。晴香も同様で、こちらも記憶をどれだけ辿ってもそんな事実が出てこない。
「あ、かろうじて、ほら、あれですよ、ほんとうに初めて会った時に……これからよろしくお願いします、って言った時に名前を呼んだようなー?」
「え、その程度?」
「いくらなんでもお前俺のこと名前で呼ばなさすぎじゃねえか?」
「え、今更?」
「今さらでは?」
思わず重なった中条と晴香の返しに葛城の眉間に皺が寄る。
「先輩の顔が凶悪」
「でもなんで日吉ちゃんってそんなに葛城のこと名前で呼ぶの嫌がるの?」
話題の転換としてはマイナス方向にいってしまったと思うけれど、即座に勃発しそうな葛城と晴香の喧嘩というかじゃれ合いを回避すべく中条は必死に話を振る。それに対し晴香は「別にいやと言うのではないですけど」と口をモゴモゴと動かした。
「先輩はもう先輩というカテゴリーなので今さら名前で呼ばなくても通じるしですねほら……」
社外の人の前では名前で呼びますし、と晴香は言い訳を続ける。机に頬杖を突いて晴香を眺める葛城、を眺めつつ中条は残りの珈琲を口にする。結局は特別な相手だからこそ名前で呼ぶのが気恥ずかしいのだろう。さらにはそこに恋愛関係まで加わってきたのだから余計に。我ながらやぶ蛇だったなあ、と中条は微糖のはずの珈琲がやたらと甘く感じて内心辟易してしまう。良く知る相手のこういう空気を目の当たりにするのはどうにもこうにもいたたまれない。もうさっさと帰ろう、と目の前のパソコンの画面を閉じ電源を落としてく。
その空気が伝わったのか、葛城も帰る準備を始め晴香もそれに続きつつ、ふと「あ」と声を漏らした。
「どうした?」
「ああ、いえ……そもそも先輩のこと名前で呼ばないようになったっていうか、呼ぶもんかって決めたの先輩のせいじゃんって思い出して」
「あ?」
固まる葛城を晴香はじっと見つめる。そこに葛城が真っ二つにされる姿を中条は見た。
「さすがにお前っては呼ばれなかったですけど、先輩もずっとわたしのこと名前で呼ばずに「なあ」とか「おい」とかそんな一声とともに用件だけ伝えてきたから、くっそ絶対この人のこと名前で呼ぶもんかって思ったなって」
「よーし日吉今日なに喰いたい? なんでもいいぞたらふく喰え!」
「先輩わたし回らないお寿司がいいです」
「オッケー分かった行くぞ中条!」
「話の誤魔化し方がひどくね!? 今のは百パーおまえが悪いやつだぞ葛城ぃ!」
「わたしは出来る後輩なので誤魔化されてあげますよ!」
宣言通り、すでに晴香の気持ちは回らない寿司に向いているのか非常にご機嫌だ。これでいいのだろうか、いや本人が進んで誤魔化されてるならいいのかなあ、と中条は呆れ果てつつ急いで帰る準備を終わらせた。
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