バレンタイン




「そう言えば日吉ちゃんはバレンタインの準備は大丈夫なの?」


 定時上がり失敗の負け組残業もほぼ目処がついた辺りで中条が唐突にそう口を開いた。マグカップに淹れた紅茶を一口飲んで晴香はバッチリですよと胸を張る。


「あ、これ多分ダメなやつだよね」

「なんですかなにを根拠にそんな」

「日吉ちゃんがそんなドヤってる時は大抵こう……」

「バッチリですってば! ちゃんと各営業先の相手の年齢や嗜好を考慮してですね」

「ほらぁやっぱりダメなやつじゃん!」

「あ、わかりました先輩にでしょ!? やだなあもうそっちもちゃんとバッチリですって」


 晴香はさらに胸を張った。なんだろうこれはより一層ダメっぽい、と中条が苦笑ともなんともつかない顔をする中、晴香はカップの中身を全部飲み干すと改めて中条に向き合った。


「去年まさかの紙袋一つを溢れかえらせて帰ってきたじゃないですか、だから今年は二袋準備してます! しかも雨が降っても大丈夫なように上にビニールがかかってるやつですよ」

「ううん渾身のドヤ顔は可愛いと思うけど、これはちょっと心の底から葛城が可哀相」


 その葛城は自販機にコーヒーを買いに行ったまままだ戻らない。だからこそ話題を振ってみたのだが、まさかの返答続きに中条は己の失敗を知る。晴香の思考が斜め上すぎた。


「なんでですか! こんなにもお気遣いなのに! 来月のホワイトデーのお返しだって、どれがいいかなって今から目星つけてるんですよ!」


 ほら、と晴香は中条に詰め寄る。えええ、と中条はキャスター付きの椅子で床を軽く蹴って後ろに逃げた。

 この晴香の言葉がただの照れ隠しで、本当はちゃんとお付き合いを始めたばかりの相手に準備してますよ、であれば微笑ましく眺めていられたのだが。とてもじゃないがそんな可愛らしい誤魔化しなどではない。丸っと全部本気の答えに中条は頭を抱える。


 とんだやぶ蛇、ああでもこれは逆に今知ってよかったのかもしれない。少なくともここから軌道修正をしてやれたら……


「できるかなあおれにー!?」

「中条先輩?」


 キョトンとする晴香に中条はううんと首を捻る。無理だこれ、おれにどうこうできるアレではない。ここはやはり専門職に任せるに限る。それしかない。


「日吉ちゃんてほんとファウルボール得意だよね」

「どうして突然わたしは悪口を言われなければならないのかですよ」

「葛城まだかなあ……」

「露骨に話そらした!」

「うるせえよ」


 スパン、と突然晴香の後頭部に痛みが走る。戻ってきた葛城に頭を叩かれた晴香が悶絶するのをよそに、「遅かったな」と中条が声をかければ「二課に捕まってた」と短い答えが返る。


「わたしの頭の上で何事もなかったかのように会話続けるのやめてください」


 暴力反対、と晴香は目の前の葛城の腹に一発入れる、が、自分の拳がグキと嫌な音を上げるだけだった。


「お腹に鉄板でも仕込んでるんですか?」

「毎日荷物抱えて動き回ってりゃそのうちお前の腹も割れるって」

「別に割りたいわけじゃないです」

「まあお前の腹……」


 ゴス、と今度はバインダーで晴香は突いた。流石にこれは痛かったらしく葛城は体を折り曲げ痛みに耐える。そんな二人のやりとりを中条は流した。むしろ聞かなかった事にしたい。


「お前最近俺に遠慮がなさすぎじゃね?」

「先輩こそわたしの頭をバカスカ叩きすぎです」

「そりゃお前が騒ぐからだろ」


 で、と葛城は自分の椅子に腰を下ろして晴香と中条を見る。


「何の話で騒いでたんだよ?」


 あー、と中条の目が泳ぐ。晴香はそんな微妙な空気を察する事無く元気に言い放った。


「中条先輩が今年のバレンタインの準備は大丈夫かって言うので、バッチリですって」

「……ああ、なるほど」


 満面の笑みを浮かべる晴香と、微妙すぎる顔の中条を見比べて葛城は即座に理解する。


「……お前はほんと……俺にもう少しだけでも興味を持ってくれ……」

「先輩に? なんでです? え、別に激しく興味があるわけじゃないですけど、だからって視界から除外する程度に興味がないとかでもないですよ?」


 なにやらさすがに空気が微妙である、と晴香も察した。このままでは分が悪い、ような、気がする。なのでもう一度準備は万全であるとの話を繰り返した。

 葛城が重く長い息を吐く。これまた大失敗、と晴香はチラリと中条に救いを求める。先輩の求める答えが分かりません、と目で訴えれば、話題を振った手前中条も助け船を出すしかない。


「日吉ちゃんは葛城にどんなチョコをあげるのかなって思ってさ」


 誰が、誰に、何を、渡すのか――


 誤解のしようも無い形で中条はボールを投げた。しかし返ってきたのはデッドボール。


「え、先輩チョコいるんですか?」


 ぐ、と中条の喉が鳴る。飛び出しかけた笑いを飲み込みつつ顔を動かせば、当の本人は「ほらな?」と少なくとも見た目は平然としている。


「だっていらないでしょう!? 去年紙袋一つ溢れかえるくらいの量もらってきて! どこの漫画かドラマかなって思いましたよ!? それにそのチョコほとんどわたしが貰って返ったのに」

「義理ばっかり貰ってもな」

「ああ、お返し大変でしたもんね。だから今年はすでにそれなりに安くて、でも可愛くて女子受けしそうなのをピックアップしてますから! ほらやっぱりバッチリ大丈夫じゃないですか!」

「葛城が本当に可哀相」

「マジで俺に欠片でもいいから興味を持て」

「だから興味が全くないわけじゃないですって!」

「今年は本命から貰えると思ってたのになあ!」

「先輩の本命って」


 いるんですか、の言葉を寸前で飲み込んだ。そしてようやく全てを理解した。なるほど、つまりは世間一般で言うところの、本来の意味でのバレンタインのチョコレート。

 ここまでの会話の中身を思い返すと確かに酷い。背中を一気に冷たい物が流れ落ちる。これはどうするのが正解なのかと晴香は考えた。ここ最近で一番と言うくらい懸命に考え、ようやく浮かんだ答えは


「――善処します」

 

 もちろん場の空気がそれで和む事は無かった。






「なんてこともありましたがそれはそれとしてちゃんと用意してみました!」


 ドン、と葛城の机に置かれた可愛らしい包装紙でラッピングされた箱。


「お前のその顔でだいたい分かった」

「おれもなんとなく答えが見えた」

「なんですかー!」


 とりあえず中身を開けてみるとやはりと言うかなんと言うかで。


「……漬物?」

「それとチーズ?」

「チョコレートはどうせいっぱい貰うだろうし、実際そうだったし、今年もわたしがそれ横流ししてもらってるから、チョコじゃないのがいいかなって」

「まあ……正直な所はそうなんだけどな……」


 それではもうバレンタインのイベントとは違うのではなかろうか。そう突っ込みかけた中条であるが、当の本人が黙っているのでどうにか言葉を飲み込む。


「なのでしょっぱい物にしてみました」


 お気遣い! と晴香は誇らしげに一つ胸を張り、そうして鞄から薄いブルーの封筒を取り出した。


「あとこれは日頃お世話になっているので感謝の気持ちを綴りました」

「……おう、ありがとな……」


 葛城の目が遠くを見ている。バレンタインと言うよりもこれはもう父の日に近いのではなかろうか。

 おれの同期がこんなにも可哀相、と中条はせめてもの情けに無言を貫いた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る