第3話 少し戻って金曜日夜、居酒屋にてー1
晴香が葛城の務める大手文具メーカーに入社してきたのは二年前。短大卒で来ました、というだけあって当時二十六歳であった葛城から見ても若い、というかまあ子供の様であった。
当初総務部に配属された晴香であるが、急遽葛城の下、営業部に移動になったのは葛城が原因である。
その頃の葛城はとある理由によりかなり女子社員を忌避していた。にも関わらず新入社員の、そして女子社員が配属されたのは単純に人手不足であったからだが、それにしたってお互い不幸でしかない。正直自分でもあの頃の晴香に対する態度は悪かったと葛城は思う。しかし当人はあまり気にしている感じもなく、ただ淡々と葛城に指示を仰ぎそれに応えていた。職場の先輩として必要最低限の接触しかしてこない。それが当時の葛城にはとてもありがたく、自分の態度が徐々に柔らかくなっていったのは当然の事であり、そしてそれに伴って晴香の認識も「職場の頼りになる先輩」という信頼と親愛のこもった物へと変わっていった。
そうして気付けば先輩後輩としてコンビを組んで二年が経ち、今では営業部のトップを走るエースとその補佐役として認められている。
そんな二人であるからして、わりと仕事あがりに食事に行くのは日常茶飯事だ。特に今週は文具メーカーが一挙に集まっての展示会に向けての準備で忙しく、しかし通常業務もあるものだから目の回る忙しさだった。それらをなんとか片付けてやっと一息入れられる、ともなればお疲れ様会だそしてそのまま壮行会だ、と「行くぞ日吉!」「行きましょう先輩!」と互いに妙に高いテンションで居酒屋になだれ込んだ。
まずはビールで乾杯をして、あとはそれぞれが好きに頼んだ料理を摘まみ合う。いつもの二人での飲み会の風景だ。
「しかしまあ、あれだ」
年末商戦の繁忙期か、と思わせる様な怒濤の日々だったと一通り仕事の愚痴が落ち着いた所で、だし巻き玉子を口に放り込みつつ葛城がふと思い出した様に呟いた。晴香は子持ちししゃもを頬張ったまま続きを待つ。
「入ったばっかの頃のお前からしたら、中々に信じられねえな」
「……なにがですか?」
ごくり、と晴香はししゃもを飲み込む。葛城は二切れ目のだし巻きに箸を伸ばす。
「職場の人間とメシとか飲み会とか行きたくねえって言ってたのが、今はこうして俺とサシで飲み食いするようになってるだろ? なんて言うか、野生動物の餌付けに成功した気分だなと」
「ものすごく失礼なことを言われているわたし」
「事実だろ」
「違いますよ、職場の人ってわけではなくて、特に親しくもない相手と……ご飯食べたりお酒飲んだりするのが……苦手ですって言ってたわけで」
「より一層悪くねえか?」
「それに歓迎会とか送別会とか、そういうのにはちゃんと参加してました! わたしが嫌いなのは合コンとかそういうノリの職場の飲み会とかで、そんなのに無駄なお金使って飲み食いしたくないってだけです!」
「赤裸々告白ひでえなホント」
「先輩だって別に飲み会とかそんなのに参加してるのあんまりないじゃないですか。少なくともわたし見たことないですよ? 嫌いなんですか?」
「そもそも行く時間がねえ」
「わあい社畜」
おかげでわたしもほぼ社畜なんですけどね、と晴香は葛城がつついていただし巻きに手を伸ばす。代わりにそっちよこせ、と葛城が目で伝えれば晴香の手元の皿から子持ちししゃもが移動してきた。
「行く時間がないって言うより、先輩は行かないでいい理由を作るために社畜ってる感じがしてましたけどね。今はマシっぽいですけど」
「良く見てんな」
「丸二年一緒にいたらさすがにわかってしまいました」
「イヤそうに言うなあ」
「それだけ先輩に付き従わされていたのかと思うと」
「入社二年で営業部の日吉、で名前覚えられるようになったんだから感謝しろよ」
「先輩こそこの二年、営業部エース様って言われるのにですよ! わたしのサポートがあってこそってとこをですよ!」
「感謝してるからこうして飯とかちょいちょい奢ってんだろ」
「ちょいちょい」
「全部奢られるのイヤがんのはお前だろうが」
「そこはそれ、節度ある後輩ですから」
ちなみに今日は葛城の奢りである。営業成績を認められ金一封の出た先輩の立場であれば晴香も遠慮はしない。
「持つべきは口が上手くて機転の利く、顔がいい、らしい営業の先輩ですね!」
「なんだそれ」
「なにがです?」
「顔がいい、らしい」
何故にそこだけ伝聞形なのか。
「褒めるなら全部褒めろよ」
「総務の子とか、あとほかの部署の同期の子とかがですね、先輩のことをイケメンとか格好いいとか言うんですけど」
葛城ともう一人、営業部のトップを走る中条雅人、が社内でも美形だと評判が高い。これに秘書課の五月弥生が加わって、華の同期組とまで呼ばれていると聞いた時の晴香といえば
「なにかの漫画かドラマかと思いましたよね」
「待て、なんだそれそんなくっそ恥ずかしい呼ばれ方してんのか!?」
「かえって笑えました」
「じわっとムカつくなお前」
「中条先輩と五月先輩は美男美女だなあと思うんですけど」
「俺の話を流す上にそこで俺を外すお前の度胸はすげえよな」
「違うんですよ人の話はちゃんと最後まで聞いてくださいよ先輩。いいですかあのですね先輩はもう先輩というカテゴリに属しているのでイケメンだとかそんなふわっとした認識ではないんですよ」
「お前のその話こそふわっとしてねえか?」
「先輩は先輩なんです!」
「もしかしなくてもお前わりとすでに酔ってんな? あ? そんなすぐ酔うタイプだったか?」
「わたしの中では先輩というジャッジしかないので先輩がイケメンだよねとか同意を求められてもああうんそうだよね多分そう、って話を適当に合わせるしかなくて」
「とりあえずいいからお前水飲め水」
ほら、と水の入ったグラスを葛城は晴香に握らせる。素直にグラスの中を飲み干した晴香であるが、酔いを醒ますにはすでに遅かった。そこからはもうグダグダとした話が続いて行く。会話が途切れるわけではないが、酔っ払いが相手であるからして話があっちこっちに飛び回る。いつもより早い時間になるが、これは解散の頃合いかと葛城は腕時計に目をやり電車の時間を思い浮かべた。今ならまだ余裕がある。晴香を駅まで送っても自分の電車に間に合うだろう。
「日吉」
そろそろ帰るか。
そう続けようとした葛城に向かい、晴香からとんでもない剛速球が飛んできた。
「先輩――処女って面倒くさいんですかね?」
不意打ちの剛速球はデッドボールでしかない。
あまりの事に吹き出しても誰が責められようか。それでも葛城は吹き出さなかった。単純に運が良かっただけであるが。
「あ、わたしの友達の話なんですけど」
吹き出しはしなかったが動揺はしている。お、おう、としか返せない葛城であったが、酔いの回っている晴香はもちろんその事に気が付かない。
「短大の時の友達で、この前久々にみんなで会ってご飯食べたりしたんですけど」
その時に一人の友人が付き合っている彼氏にそう言われたらしい。
「彼氏さんが、男友達とそんな話で盛り上がってたのを聞いちゃったらしくて。それで二人で会ってる時に問い詰めちゃったそうで」
「そりゃあ……なんだ……まあ、少なくともその男がクズってことは」
「ですよねクズですよねわたしもそうだし他の子もそうだよ、ってなってそんな彼氏とは別れてしまえってなって」
「別れたのか」
「その場で別れるって連絡入れました」
「英断即決でよかったじゃねえか」
はい、と頷いて晴香はグラスに手を伸ばす。中身は何杯目かのビールだ。元気に飲み干す姿を眺めつつ、しまったこれでダメ押しだなと葛城は小さく息を吐いた。責任を持って送り届けるしかない。葛城は晴香の住所を知らないが、晴香をやたらと可愛がっている五月なら知っているだろうし、最悪近くのビジネスホテルに放り込めばそれでいいだろう。
「でもそんなことを言う人間が一人じゃないってことは、処女が面倒くさいって思う男の人が多いってことなんですかね?」
「話引っ張った……」
「なんですか?」
「……ンでもねえよ……ってだからそれはそんな言うヤツらがクズってだけで、類友でそんなクズが固まってただけだろ」
「じゃあ世間一般的にはそう思わない人が多い?」
「そこまでは知らねえけどな」
「わたし、元カレと今回の友達の話聞くまでは逆だとばっかり思ってました」
「逆?」
「処女が好きな人多いって」
己が危機回避能力を褒めてやりたいと葛城は思った。グラスに口を付けただけで、そのまま中身を飲まずにいて本当に良かった。
「先輩も処女好きなんですよね?」
「えっらいとこから剛速球飛ばしてくんじゃねえ」
「面倒くさいって思わないってことは好きなんだなって」
「極論!」
「だってAVでの処女モノたくさんあるし! 需要が高いって証拠じゃないですか!」
「おっ……、まえ、見んのか!?」
「え!? AVですか!? 見たことないですよ先輩セクハラ!」
「今までの会話だとお前の方がセクハラじゃねえか!」
「短大の時にレンタル屋でバイトしてたから、中身の返却でアダルトコーナーにも行かなきゃだったから知ってるんです! 外側だけ!」
ふふん、と何故か誇らしげに胸を反らす晴香に対し、葛城は逆にテーブルに突っ伏しそうである。
「……そのテのはしかし男のバイトが行くもんじゃねえの?」
「お客さんがいる時はそうですけど、閉店してから全部返却しないといけない時は手分けして、になるからどうしてもですね。男女半々ってわけでもなかったですし」
そこで何かを思い出したのか晴香は「あ」と呟いた。
「お店閉めてからみんなで鑑賞会っぽいのしたことあるような?」
「……自由だなお前んとこのバイト先」
「新規オープンのお店だったんで。社員さんとも年近かったし」
そしてさらにまた「あ」と呟く。
「私も処女なんですけど」
追撃までもがデッドボール。それでも葛城は吹き出さなかった。盛大に咽せ返ったが。
「彼氏に萎えたって言われてリリースされたって言って友達にバカウケされつつそいつもクズだから別れてしまえって言われてそうしようってしたらその前に別の女の子とすで付き合っててほんとにクズだー! ってなったのを今思い出しました」
「とんでもねえ情報を横殴りで喰らった状態の俺が言う台詞でもないんだが……お前今相当テンパってんな?」
「なんだか正気に返ったら死ぬなって気がしてますねすみませんビールくださーい!」
「これ以上余計なこと言う前に止めとけ……」
「でもこうなんていうか口が止まらないって時があるじゃないですか!」
運良く、と言うべきか運悪く、と言うべきかで追加のビールはすぐに届いた。ゴクゴクと半分程を一気に減らして晴香はグラスをドン、とテーブルに置く。
「萎えたとかだから処女は面倒くさいとか捨て台詞吐かれたのとか、ちゃんと別れ話したわけでもないのに自然消滅みたいな感じで新しく彼女作られてたのとか」
「そんなクズでトラウマになる義理はねえだろ」
「あ、トラウマとかじゃないんですよだって今の今まですっかり忘れてましたし」
だったらこの状況は一体なんだ、と葛城はテーブルに片肘を付いて項垂れる。気持ち的には巻き込まれ事故も甚だしい。こっちの気も知らずに、と思うが本人的にもまさに「口が止まらない時」なのだろう。
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