予知能力などというそんな摩訶不思議な力など持ち合わせてはいないけれど、しかしこうなる結末を葛城はなんとなく理解していた。

 繁忙期による連日の残業。その疲労とストレス発散の為に出掛けた小旅行ではあるが、朝は繁忙期の時と同じくらい早かった。そこからの車での移動。到着した場所でのテンションの高低差は酷く、さらには車での移動中でまでそれは続いた。

 そんな状態でようやく辿り着いた本来の目的。テンションは最高潮に振り切れ、大はしゃぎで温泉を満喫したのだから小柄な晴香の体力など即尽きるのは当然だ。

 うつらうつらとする晴香をなんとか夢の世界から引き摺り上げ、楽しみにしていた温泉の蒸気で出来た蒸し野菜を食べさせる。

 蓄積した疲労、振り切れたテンション、風呂上がり、満腹――ここまで揃えば後はもう坂道を転がり落ちる様に眠る選択肢しかない。蒸し釜に使ったザルを葛城が洗っている間に晴香の意識は途切れた。ゴン、とわりと痛そうな音が背後から聞こえたので振り返れば、案の定晴香が正座の状態で丸くなっていた。


「……なんだっけ、ごめん寝とかいうやつ?」


 正座したまま身体を前方に倒し、床に額を擦り付けているかの様な寝相。まあこの状況で寝落ちってのは「ごめんね」などと可愛らしく謝った所で、というやつだが。


「お前は本当に俺に対して安心しすぎだろ」


 押し入れから布団を取り出し床に敷く。その上に熟睡してぐったりしたままの晴香を抱き上げて寝かせてやるが、その間もピクリとも反応しない。

 意識を失っている相手に手を出す程下衆では無い。しかしそれが心底惚れていて、きちんと付き合っており、もうすでに何度も抱いている相手であるなら理性の鎖は脆くなる。

 付き合い出してから初めての旅行だ。しかも温泉。繁忙期の間はお互い睡眠時間を取るのを第一としていたのでそういった行為も無かった。

 ぶっちゃけ溜まりに溜まった性欲をやっと発散できるかと思っていたのだが。


「まーこうなるよなあ」


 布団の上で晴香は気持ちよさそうに寝ている。ごろりと寝返りを打つと、ちょうど胡座をかいている葛城の近くに顔が寄った。

 山奥の夜は気温が一気に下がる。室内でもほんのりと肌寒さを感じる中、近くにある人の体温は簡単に伝わってくるものだ。

 ヤバいな、と葛城は腰を浮かせる。抱き上げた時よりも、微かな距離から伝わる晴香の体温に一気に自分の中に熱が灯った。このままでは寝ている晴香に劣情をぶつけてしまいそうだ。

 もう一度露天風呂に入って頭でも冷やすか……温泉だから冷えはしねえけど、などとそんなくだらない突っ込みを自分に入れつつ立ち上がろうとすれば、布団に着いたままの指先に晴香の手が触れる。もぞもぞと葛城の指を辿る事しばし。掴みやすい一本とでも思ったのか、葛城の人差し指をきゅ、と握り締めてきた。あげく、心底嬉しそうな、しかしこれ以上は無いほどの緩みきった笑みを浮かべてくるものだから、葛城は頭の奥で理性の鎖が束になって切れる音を聞く。


 これは襲ってもいいやつだろう。葛城の脳内が満場一致でその答えを出す。


「おい……起きろ、日吉」


 ぐ、と身体を屈め晴香の耳元でそう告げる。


「起きないと本当に襲うぞ」


 そんな警告をしつつも葛城の声は限りなく小さい。耳元で囁かれてやっと聞こえるかどうか。熟睡している人間が起きるには到底足りない声量だ。


「晴香」


 名を呼び、その唇の動きが晴香の耳朶に触れる。その途端、晴香の肩がピクリと動いた。


「ぅ……んッ……」


 晴香は耳が弱いらしい。その事に気付いてからというものわざと耳元近くで声を掛ければ羞恥心を怒りにすり替えた鉄拳がしょっちゅう飛んでくる。


「顔だけじゃなくて声までイケメンとか卑怯にもほどがないですか!? この動く十八禁! いつか先輩が規制されますように!!」


 起きていればそんな罵倒が飛んでくるが、眠っているのでひたすら可愛らしい反応しか返ってこない。

 目を閉じたままの晴香の頬にそっと触れ、そのままゆっくりと手を滑らせる。顎下に指をかけ、親指で軽く唇を撫でれば、反射によるものか晴香の唇が薄く開いた。葛城はそのまま身を屈め――暗く静かな室内に突如ゴッ、と耳に痛い音が響く。

 晴香の頭を囲う様に両肘を付いた状態で葛城は額を床に打ち付けた。布団の上からでもこれだけ音が上がればそれなりに痛い。

 葛城はゆっくりと身を起こす。赤くなっているだろう額がジンジンと痛むが、至近距離で異音が聞こえても晴香は目を開けない。眉間に皺すら寄らないのだから、この音も聞こえていない様だ。


「つまりは俺の葛藤も気付くわけ無いってなぁ!」


 一気に駆け巡った欲望を実行に移すのは容易い。そうしたとしても、晴香も初めこそ怒りはするが最終的には許してくれるだろう。


 しかし、だからといって「それじゃあ」とできるわけがない。


 男のプライドとか、人として駄目だろうとか、理由はいくつもあるけれど。一番はこの晴香の安心しきった顔のせいだ。この丸っと全部、全力でぶつけてきてくれる信頼と親愛の情は無くしたくない。異性として恋い慕ってくれるのと同じくらい、晴香にとって全幅の信頼を向けられる存在でありたいのだ。


「お前、修行僧なの?」


 とは中条からの言葉だ。


「いい年した男の拗らせとか鬱陶しいことこの上ないわね!」


 とは五月から。悔しいかな反論の余地が無い。おそらく晴香はそこまで考えていないだろうから、これは完全に葛城が自分に課した縛りなだけだ。

 晴香の寝息に葛城の重く長い溜め息が重なる。

 一向に目覚める気配は無い。これはもう確実に朝までコース確定である。


「……ほんっっとうに俺の自制心を褒めろ! お前は!!」


 晴香の額を中指で強めに弾くのは完全なる八つ当たりだ。う、と不快そうに晴香は一瞬だけ顔を顰めるが、すぐにまた元の間の抜けた寝顔に戻る。

 その寝顔に軽く口の端を緩め、葛城は重い腰を今度こそ上げた。

 二十四時間源泉掛け流しが売りの露天風呂である。夜が更けた今でもチョロチョロと蛇口からお湯は出たままだ。着いて早々に入り、明日の朝も入るつもりではいるけれど、それだけでは勿体ない。今日は少しばかり雲はあるが月は出ていないので、これならば星空も充分に楽しめるだろう。

 本当は晴香にも見せてやりたい景色であったが、それはまた今度にでもすればいい。

 宿泊客用に多めに用意されたタオルを片手に、葛城は一人露天風呂を楽しむべく浴室の扉を開けた。

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