遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。ううん、と晴香は煩わしそうに眉を顰めシーツを頭まで引き上げた。

 お前なあ、と呆れつつも少しだけ楽しそうな声の気配に、晴香は微睡みながらもなにかがおかしいと気付き始める。

 横になっている自覚はある。背中に当たる感触は自分の家のそろそろ替え時かなと思うような古いベッドではない。かといって、最近すっかり覚え始めた葛城の家の物とも違う。それよりももっと上等な、ふかふかでシーツの糊もパリッと効いた感じのちょっとお高めのホテルのベッドの様な、そんな感触がする。


 あれでもおかしくない? 先輩と出掛けた帰りで、高速に乗って、途中のサービスエリアで休憩してそれからまた帰りの線に乗ったはず……


 と、そこまで記憶が蘇るが、残念かなそこから先が欠片も浮かばない。


 どわ、と晴香の全身から一気に冷や汗が噴き出す。実際は出ていないかもしれないが、気持ち的には汗だくの心境だ。


 待ってサービスエリアを出て車に乗ってからの記憶が無い……ヤバイ……これ絶対ヤバイやつ!!


 小刻みに震えそうになる身体を叱咤してどうにかそれに耐えてみるが、そうすると段々と息苦しくなってきて余計に震えそうになる。力みすぎて呼吸を止めてしまっている。しかしそれを上手く緩和できず、晴香はついに堪えきれなくなり大きく息を吐き出した。

 するとそれを待ち構えていたかの様に額が小突かれる。


「いたっ!」

「野生動物のくせに狸寝入りが下手すぎだろ」

「……狸じゃないですもん」

「まあな。お前狸っつーより野生の小動物系だもんな」


 餌は貰うが決して懐いてはこない。反論したいが自分でも納得してしまう面がある以上晴香は言い返す事ができず、せいぜい口をへの字に結ぶ事しかできない。

 シーツからきちんと顔を出し、改めて葛城を見ればしっとりと髪の毛が濡れている。着ている物もラフな黒のシャツとジーンズではなく、ホテルに置かれているバスローブ姿だ。


「……は!?」


 状況を理解したと同時に晴香は飛び起きる。見渡す室内は広々としてはいるが、ビジネスホテルとは違う派手さがある。原色で最早目に痛いだろうという勢いの壁紙など普通のホテルが使うはずがない。晴香が寝ているベッドも室内のど真ん中に置かれ、そして当然のごとくシングルでもなくツインでもなくダブルサイズだ。いやこれはもうキングサイズという大きさかと、晴香は今度こそ本当にダラダラと汗を掻きながら葛城を眺める。


「ラブホだよ」

「ひぇっ」


 ですよね、と思うより先に悲鳴が漏れ出た。だって葛城の視線がなんというか、冷たいのだから仕方がない。これは間違いなく自分が助手席でグースカと寝ていたからだろう。


「……すみません」

「あんだけはしゃぎ続けてたからな……助手席乗った瞬間に寝るとは思ってたよ」


 その点については葛城も覚悟はできていた。だが、まさか部屋に入ってベッドに寝かせるまで目を覚まさないとは思いもしなかった。


「お前ほんとさあ……危機感なさ過ぎだろ!? 大丈夫なのかそれで! 変なのに連れ込まれんぞ!!」

「いやだから先輩じゃなかったらこんな油断しませんし、そもそも助手席乗ったりしませんから」

「お前それ言えば俺が絆されるとでも思ってんだろ?」


 葛城の指が伸びて晴香の鼻を容赦なく摘まむ。そうしながらも少しだけ顔が嬉しそうなのだから、まあ、そういう所ですよと晴香は痛みに顔を顰めつつ内心そう呟いた。


「言っておくけどな、帰り道の先で事故って高速が一時通行止めになったんだよ」

「えええええ! それ先輩大丈夫だったんですか!?」

「先の、だ先の! ジャンクション付近で大型トラックが横転して荷物が散乱したんだと。怪我人とかは運良く出なかったみたいだが、何しろ荷物の回収で道路を一時封鎖するしかなくて、強制的に下道に降ろされたんだ」


 そこから先のジャンクションまでは距離がある上、国道へ降ろされた車が原因で下道は大渋滞。その状況で走ると何時に帰宅するかも分からず、このまま疲労を蓄積させながら帰るのは億劫だと急遽葛城は途中にあったラブホテルに非難したのだ。


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