第5話 再度土曜日、先輩とわたしの攻防戦ー1




  頭の下から引きずり出した枕に顔を埋めつつ晴香はひたすら悶絶する。

 葛城から受けた説明と、それによりある程度思い出された己の記憶がとにもかくにも酷すぎた。


「とまあ、そんなわけだ日吉」


 顔見せろ、と葛城に枕を奪われるがすぐさま取り返して再び顔を隠す。会わせる顔が無い、とはまさにこの事だ。


「思い出したか?」

「……ぼ、ぼちぼち……」


 蚊の鳴く様な晴香の声に、葛城はゆっくりと眉間に皺を寄せる。


「……お前まさか、全部覚えてるわけじゃ」

「と……ところどころ、記憶に……欠落が見受けられ……」


 枕から少しばかり顔をずらして見上げれば、呆れと怒りのない交ぜになった瞳で葛城が見ている。


「ええと……先輩?」

「まあいいか」


 は? と口を開く前に葛城の顔が近付いた。反射的に枕で葛城を押し返せばそれを毟り取られてさらに近付く。これは多分きっとおそらくそう、と慌てて晴香は自分の両手で葛城の口元を押さえ込んだ。

 非常に気まずい沈黙が落ちる。無言で睨み付けてくる葛城がとにもかくにも恐ろしい。

 だってそのままだったら先輩にキスされて、ってだから先輩とそういうことをするのがイヤってことではなくってあーっっっ!! などと同じく無言でありながら晴香の心中は騒がしい。現状と、それに伴っての自分の思考が羞恥心を煽って止まない。


 どうしよう、どうしたらいい、今のこの状態が良くない事だけは分かっているけれどもその解決策が茹だった脳では何も浮かばない。葛城の口元を押さえ真っ赤になって震える晴香を見つめたまま、葛城は緩く口を開いた。


「ひゃっ!?」


 突如自分の掌を襲った衝撃に晴香は驚きのあまり悲鳴を上げる。その隙に葛城が晴香の両手を掴みベッドに押しつけた。視線の先、晴香の拘束から解かれた葛城の口の端から赤い舌が見え、やはり今のは、と理解した晴香は軽く意識を飛ばす。


 舐められた。先輩に、掌を、な、舐め――


「ああああああ!!」

「だからうるせえって」

「だって! せ、先輩が、手ぇ!」

「別にいいだろ掌ぐらい」

「よくないです!」

「お前そんなことで騒いでたら、ほかのとこ舐められた時どうするんだよ」

「ほかって!?」


 どこ、と続く言葉はここ、と先に動いた葛城の手で叫びへと変わる。


「わーっ!? ちょっと!? 先輩!! どこさわっ」

「胸」

「レスポンスが早い!!」


 ぐ、と葛城が一瞬息を詰める。口の端が奇妙に歪んでいる事からしてどうやら吹き出すのを堪えているようだ。確かに今の返しは晴香としてもどうかと思う。我ながら咄嗟の時の発言がズレているにも程がある。そういえば昔からの友人にも「おまえとの会話は常にデッドボールかよくてもファウルボール」と言われていた。どんな会話よ、と現実逃避もあいまって晴香の思考はどんどんと逸れていく。しかしながらそんな隙を見せれば当然相手はそこを突いてくるわけであり、そっと撫でられた首筋に晴香は小さく息を飲んだ。

 葛城の向ける眼差しが欲を孕んでいる。それがなんであるのか、経験のない晴香にもはっきりと分かった。


「タイム!」


 空いた片手で葛城の体を押す。まさかそんな反応がくるとは思っていなかったのか、葛城の纏う空気が若干揺らぐ。


「この状況でか」

「この状況だからこそですよ!」


 にしたって流石に、と思わなくはないけれど。それでも我が身にこれから降り掛かる事を考えれば止めないわけにはいかない。


「で? どれだけだ?」

「え」


 それに対して葛城の返しは短い。そして思いもしない言葉に晴香は思わず間の抜けた声を上げる。


「どれだけ待てばいい?」

「おっと……」

「うやむやにして逃げられると思うなよ」

「先輩悪役みたい」

「いいからいつだ、締め日を言え」

「事務的!!」


 まるで書類の提出期限の様に、と晴香は叫ぶが葛城は意に介せず片方の眉を器用に上げて返事を促す。


「で?」

「……来年」

「不可」

「締め日ぃ!」

「短縮できる締め日なら先延ばしするだけ無駄だ無駄!」

「無駄ってー!」

「そもそも結論ありきで進んでる話を先延ばしする意味がない」

「結論?」

「俺に処女」

「わーっっっ!!」

「だからうるせえよ」

「先輩が非常にセンシティブな話題を軽率に口にするから!」

「居酒屋で連呼してたお前に言われたくはない台詞だな」


 ぐうの音も出ない。ごもっとも、仰るとおり、と晴香は次の言葉を懸命に探す。

 え、でもなんでだっけなんで先延ばしにしたいんだっけってそうよ一番大事なことをまずもって確認しないといけないんだった、と晴香はベッドに押し倒されたまま元気に手を上げる。


「先輩ちょっと訊きたいことがあるんですけど!」

「なんだ?」


 職場でのいつものやり取りだ。これ程場にそぐわない事もないだろう。しかしおかげで晴香は僅かなりとも落ち着きを取り戻す。


「先輩ってわたしのことが好きなんですか?」

「そうだ」


 秒で落ち着きは吹き飛ばされたが。

 葛城は真顔だ。そもそも冗談でこんな事を言うわけでも、ましてや深夜に自室に連れ込んで押し倒す様な人でも無い。


「え」

「おう」

「……本気と書いて?」

「マジだマジ。つか俺はちゃんと言った、俺が好きなのはお前」

「ひゃーっっっ!」

「お前次騒ぐと問答無用で口塞ぐぞ」


 ぐ、と葛城の体が近付く。晴香は慌てて自分の口を片手で覆った。


「……酔っ払ってても会話は覚えてるんじゃなかったのか?」

「きょ……きょう、は、いつもよりかは危険だなと思っておりまし、た」


 そういやそんなこと言ってたな、と葛城はガクリと項垂れる。


「ええと……すみません?」


 そのあまりの落胆ぶりにするりと口から飛び出た謝罪はしかしお気に召さなかった様で、殊更恨めしそうな視線を向けられた。


「あのなあ」

「すみませんごめんなさい」


 騒げば今度こそ口を塞がれる。それこそAVみたいに、キスで、いや実際そうするのか具体的には知らないけど、と晴香は口を覆ったまま次の質問を探す。


「それどっちの意味だ」


 葛城が首を傾げる。どっちとは、と晴香も首をコテンと動かせば頭の下で髪が擦れた。地味に痛い。


「会話を覚えてないことについてなのか、それとも俺の告白に対しての」

「前者です!」


 そこはちゃんと否定しなければ、との意思のみだった。誤解させるのも、されたままでいるのもたまったものではない。

 そして「ん?」とさらに晴香は首を捻った。このタイミングでこの答えは即ち


「あれこれってわたしも先輩が好きってことになります?」

「それをこの状況で俺に訊くお前の神経な」

「おっと待ちましょう先輩ステイですステイ」


 体を近付けようとする葛城を晴香は片手で制す。


「据え膳前にしてもうだいぶ待ってんだけど」

「いやこれはちょとはっきりさせておかないと今後の先輩とわたしの円滑な人間関係に支障が」

「なんだよ」

「え――先輩、いつからわたしのことを……その、好き、だったんです、か?」


 葛城と知り合って丸二年。職場ではほぼ一緒で、プライベートで遊びに行くという事はさすがにないが、出先で個人的にとお土産を買ってきたりなどそれなりに可愛がってもらっている。晴香も出掛けた時に葛城が好きそうな物があれば、日頃のお礼と今後の袖の下ですと手渡したりしていたのだが。そんな本当に「気安い職場の先輩後輩」という関係性以上に、葛城と晴香の間で何かしらのやり取りがあったという事はない。言葉にせず態度で、という事もなかった。

 で、あるからして、はたしてこの先輩は何時如何なる時に自分に好意を抱いてくれて、と晴香が不思議に思うのも当然だ。

 あー、とここにきて葛城の口が鈍る。照れているのか、と思ったが視線が彷徨っている辺りこれはどうやらそうではないらしい、と晴香はさらに疑問を募らせる。


「……先週」

「待った」

「おう」

「いや、おう、じゃなくてですよ」

「うん」

「急に可愛らしく言ってもダメです! ちょ、先週って!」

「厳密に言うと、先週の末」

「もっと縮まったー!」


 まさかの返答。晴香が力を込めれば今だ押さえ込まれたままだったもう片方の腕が簡単に動いた。なので両手で枕を掴むと遠慮無く葛城の顔に押し付けた。


「はー!? なんですか!? まさかの短期間!」

「納期短縮」

「いやそれ違いますよね!?」


 そもそも納期ってなんの納期ですか! と再度ボフンと枕で殴る。葛城はされるがままだ。


「そんな短さでわたしこんなことに!?」

「まあ聞け、俺の話を聞け」

「言い訳」

「解説」

「物は言い様」

「日吉ぃ」


 あ、怒られる、と反射的に晴香は口を噤んだ。そしてすぐさま先輩はズルイと頬を膨らませる。慣らされたと言うか、躾られたと言うか。とにもかくにも「日吉」と呼ぶ声の質でまだ大丈夫、これはギリいける、あ、だめなやつ、と葛城の怒りの度合いがすっかり分かるようになり、そしてそれに即従ってしまう。

 ちなみに今のはギリいける、とだめなやつ、の瀬戸際であったので晴香は大人しくなったわけである。


「先週末、つっても自覚したのがそこってだけで、それよりも前から好きだったんだよ――多分」

「語尾になんかついてますけど」


 思わず突っ込みを入れてしまう。仕方が無い。それでもジロリと睨まれれば晴香はまた口を閉じた。

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