第7話 3
「それが吉川のおかげで自覚して、さてどうしたもんかなと思ってた所で今日のアレだよ」
葛城としてもこんな展開になるだなんて想像もしていなかった。きちんと時間をかけてゆっくりと距離を縮めていけたらと、そう思っていたはず、なのだが。
「付き合ってるヤツがいないなら遠慮する必要も躊躇してる暇もねえな、って考えた矢先にあんな連呼されたらまあそりゃ持ち帰るだろ」
おまけに俺ならいいって言ったしな? と口の端を上げて笑う葛城に晴香の羞恥はどこまでも昇っていく。
「なんていうかまあ、自業自得っつーか、飛んで火に入るってやつだな」
「いや……いやいやいやでもやっぱりコレはちょっとおかしくないですかー!? わたしはあくまで気心のしれた尊敬している先輩とお酒を! 飲んで!! いただけ!!」
「男とサシで飲んでるあげくに泥酔するのが悪い」
「でた! クズの男の言い訳一位!」
「随分と言うなあ」
「先輩がそんな言ってた! そういうクズがいるから例え職場の人間だとしても男と飲むときは気をつけろって!」
「そう。俺はそう忠告してた」
「それが先輩にまで適用されるなんて思うわけないじゃないですかー!」
「そんなに嫌か?」
さらりと落ちてきた言葉に反して、葛城の顔は真面目なものだった。羞恥で顔を腕で隠していた晴香は「え」と隙間から見上げる。
「お前が嫌なら当然止めるけど」
「え……っと……」
急に態度と空気が変わる。その落差に晴香は混乱と羞恥をさらに深める。先程までの職場と変わらないじゃれ合いには慣れきっているが、こんな空気を纏う葛城の姿は初めてだった。
「日吉、俺はお前のことが好きだよ。だから大切にしたいのはもちろんだけど、今はそれ以上にお前が欲しい。抱きたい。酔った勢いでの返事なのは分かってるけど、それにつけ込むくらいにはお前が欲しいんだよ」
葛城は晴香の腕を取りシーツの上に広げる。やんわりと押さえつけるが、それは晴香が簡単に振り解ける程のもので、ただ単に顔を見て話がしたいのだと理解できた。
顔、と晴香は改めて葛城を見る。この二年、職場の中で一番多く見てきた顔なのに、葛城が今見せている顔を晴香は初めて知った。
ぶわ、と全身の血が沸騰する。あげくそれらが一気に顔に集まるものだから、暗い室内でも葛城に伝わった事だろう。一瞬驚いた様な表情をした葛城が、次の瞬間とても楽しそうにしている。嬉しそう、ではない辺りでこれからの展開が晴香にも分かった。からかって遊ぶつもりだ。悔しいのでせめて口火は自分から切る。
「せ……先輩の歩く十八禁んんんんん!!」
出てきた言葉がまたしてもズレている。違うこんな事が言いたかったんじゃない、となるも他に言葉が浮かばない。葛城はくぐもった声を漏らした後、首を後ろに向けて顔を隠しているが、肩が小刻みに揺れているので笑っているのは間違いない。
「それはなんだ、色気があるってことでいいのか?」
「色気って言うかなんて言うか、ふぇ、フェロモンがひどい! タラシ! タラシだーっ!」
「そりゃお前をタラシこみたいからなあ」
「あとそんなやって口説いてるみたいなのもよくないですよ!」
「みたい、じゃなくて口説いてんだよ」
軽く首を傾げて笑って見せる葛城を前に、晴香はようやく理解する。同期や他の部署の女子社員が常々口にしている「葛城さんってイケメンよね」という言葉を。
ぐおおおお、と地を這うような呻き声をあげながら晴香は身を捩った。押さえつけられていた両手に力を込めれば難なく解放され、おかげで無様に赤くなった顔を隠すことができる。
「なんだよ?」
「……イケメンの顔の圧がすごすぎて」
「お前俺の顔見てもなんとも思わないんじゃなかったのか?」
「そのはずだったんですけどね!? さすがにですね!?」
ここまではっきりと欲を向けられて意識しないはずがない。
「だって先輩初めて会ったときほんと殺すぞ! みたいな目つきだし態度ブリザードだし、これまかり間違ってもこの人のこと好きだとかそんな風に思ったら面倒だなってなったからそう思わないようにしたんですよ! だんだん慣れてきてかっこいいなあと思うこともあったけどそれで好きとかそんななったら先輩と仕事できなくなるし、それはなにがなんでもイヤだから先輩はあくまで先輩って思っておこうってそんなやって」
気持ちに蓋をして育たないように水も肥料もやらずに過ごしてきて、おかげで後輩としてずっと側にいる事ができた。
ん? と晴香は首を捻る。
先輩のイケメンっぷりに圧倒されてなんだかぐわっと口にしてしまったけれども、これはもしかしなくても
「……やっぱりわたし先輩のこと好きってことになります?」
驚愕の眼差しで葛城を見れば、これ以上は無いくらい虚無顔をして晴香を見つめている。
お前、と漏れた言葉がどこまでも重い。
「そこまで言っておきながら自覚してないのかよ……」
「ど、どうなんですかね? 今のってもう考える前に口が動いた感じなんですけど」
それはつまりは本気でそう思っているという事に他ならないのでは。しかし晴香はひたすら頭上に疑問符を浮かべている。葛城は重く長い息を吐いた。
「ここで俺がそうだと思うぞ、って答えたらお前どうするんだよ」
「先輩が言うならそうなのかなって」
「マジか」
発音が「馬鹿か」と完全一致である。眉間に深く皺を刻み、さらにはそこを指でグリグリと押さえながら葛城は呻く。
「お前それ……」
「やー、先輩が言うならそれが正解でしょう」
「話の中身分かってんだよな?」
「わたしが先輩を好きかどうかですよね?」
「まるっきり他人事みたいに……ってあれか、お前今も相当テンパってんのか」
「当たり前ですよ! 寝起きからこっちテンパりっぱなしですからね!?」
Tシャツの下は全裸で、それをしたのは職場の先輩で、そしてその人にベッドに押し倒されている状況がずっと続いている。冷静でいられるわけがない。
「だからほら、そういうときこそちゃんと他の人の意見も聞かなきゃダメだっていつも先輩が言って」
「それを今も適用するってのがなあ。俺が自分の都合の良いように言うとか思わないのか?」
「先輩そういうことする人じゃないですし」
「ここにきてお前のその信頼が猛烈に突き刺さる」
晴香が混乱の極みにいる状況を作り出しているのが葛城自身だ。それなのに、そんな人では無いという彼女からの絶大なる信頼。
「やめろやめろこっちの良心抉ってくんじゃねえ!」
「そんなこと言われても事実だからしょうがないじゃないですか!」
「ほんとお前ちょっと黙ってろ」
葛城の大きな掌が晴香の口を覆う。と、その掌に葛城は自分の唇を寄せた。
掌越しではあるけれども、行為だけならばこれは世間で言う所のまあなんて言うか、と晴香は体をギシリと固めて息を飲みこんだ。
「……すげえ真っ赤」
「だ……って、せんぱい、が」
「まだお前自身が俺への気持ちを理解してないからな」
間違いなくそう、ではあるのだろうけれども。それでも晴香からその言葉が確定として出てこない内は先へ進む事も、そのスタートラインに立つ事すらできない。
「だからそういうとこですってば!」
多少強引に事を進めるけれども、けして無理強いはせずに晴香の意思を尊重してくれる。そんな相手を信頼せずにどうしろと言うのか。
「そういう先輩の言うことなら丸っと全部大正解でしかないじゃないですか」
「それでもお前の口からちゃんと聞かないことにはな」
俺が聞きたいし、と葛城は晴香の頬をそっと撫でながら笑みを深める。無自覚に好意を抑えていた相手からの、とろける様な笑顔を前に抵抗できる人間がどれ程いるというのか。少なくとも晴香には無理だ。プルプルと全身を震わせる事しかできない。
「日吉」
いつの間にか近付いた葛城の唇から名前が直接耳に注ぎ込まれる。ビクリと肩を大きく揺らして晴香は叫んだ。
「自分の顔の良さを自覚してるイケメンのタチの悪さぁっ!」
ひえええ、と今宵何度目かになる両手で顔を隠して悶絶する。無理、もう無理、と息も絶え絶えの晴香に対し、葛城の容赦ない言葉が降ってくる。
「万人受けしてんのかどうかは知らねえけど、少なくとも落としたい相手に効くならそらフル活用するだろ」
「オーバーキルもいいところなんですけど!」
「それでもトドメ刺させないあたりお前も相当しぶといよな」
今ので落ちないとは手強い、と言葉とは裏腹に葛城は楽しそうだ。たしかにあの流れで決定的な言葉を口にしなかったのは自分としてもどうかと晴香も思う。
「日吉、そろそろ覚悟決めろ」
「無理です」
「答えがはえーよ」
「無理ぃ……!」
「諦めんな」
「先輩が諦めましょう」
「日吉ぃ」
おっとこれはダメなやつ、と晴香は指の隙間からチラリと葛城を盗み見る。怒っている時の顔ではないが、それでもどうあがいても逃げられそうも無い。確かに覚悟を決めないといけないのだろうけれども、そもそもこういった事に不慣れな晴香にとっては難易度が高い。高すぎる。
「……先輩ならもう言わなくても答えわかってるくせに」
「だから言ってんだろ、俺がお前から直接聞きたいんだよ」
「乙女ですか」
「そう、俺の乙女心がずっとうるせえんだ」
「どこがーっ! 余裕綽々のくせに! わたしは先輩と違ってこういうの初心者もいいとこなんですからね!」
「俺も別に余裕ってわけじゃねえぞ。女口説くのとか初めてだしな」
その言葉にさすがに晴香は両手を顔から離した。ポカンと見上げると葛城は静かに首を縦に動かす。
「はじめて?」
「告られて付き合ったことしかない」
「イケメンにしか許されないやつ……!」
本当にこんな人いるんだ、と驚愕に目を見開く晴香の手を葛城は掴むと、そのまま自分の胸に触れさせる。
「ほら、すげえバクバクしてるだろ」
掌に伝わる葛城の鼓動は確かに速い。なのにこんないつもと変わらない飄々とした態度でいるのか、と感心した所で晴香は気付く。葛城の胸に、直接触れているという事に。
「ひゃーっっっっ!!」
悲鳴あげて手を離す。俺の体は危険物かよ、と笑う葛城にそうですよ! と返したくも心臓が痛すぎて口をパクパクと動かす事しかできない。代わりに何度も首を縦に振った。
「ぜ……ぜんぜんそんなふうに見えないんですけど……っ!」
「男のプライド」
あと年上の見栄、と葛城は晴香の胸に手を伸ばしかけてそこで動きを止める。つ、と横に反らして晴香の体を挟み込む様にベッドに手を付いた。
こんな状況でも強引に晴香の体に触れる真似はしない。答えが分かりきっているにしても、それでも晴香が口にしない限りは先へ進まない、進めない、のだろう。
ああもう先輩のお気遣い紳士ーっ!! と褒めているのか罵倒しているのか、それとも両者なのか。そんな気持ちがごちゃごちゃになってもう本当に覚悟を決めるしか無い、最初の頃の先輩を相手にするのに比べたらこんなのなんてことない、と晴香は大きく息を吸って口を開いた。
「先輩のことが、好き、です……たぶん」
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