第9話 5




 唇を塞がれるとまたしても舌が入り込んでくる。口の中が熱い。それと同時に素肌を撫でつける掌も。熱に浮かされた様に頭がクラクラとする。息苦しい。

 葛城の体を叩いて訴えようとすれば、タイミング良く唇が離される。それでも離れた距離はほんの僅かで、一瞬で塞がれる程度だ。


「鼻で息しろ」

「む……むり、で」

「じゃあ練習」


 そうしてまた深く口付けられる。初心者相手にいきなりこれはハードルが高すぎではないのか。先輩は最初の頃から容赦なかったもんなあ、と殺伐としていた頃の葛城を思い出す。ああでもだいぶ穏やかになってからも容赦はなかったので、つまりは元からこういう人なのだと諦めるしかない。


「余裕じゃねえか」


 ぷは、と葛城は唇を離すと唾液で濡れた晴香の口を親指の腹で拭う。その指をペロリと舐めつつ見下ろす姿も晴香にとっては目の毒だ。


「なに考えてた」

「せんぱいのことですよ……」


 お、と葛城が軽く目を見開くが、晴香はそれに気付かず荒い息を整えるのに必死だ。


「こ……この人仕事もこういうことも容赦ないドエスだなって考えてました」

「俺に対する減らず口だけは健在っつーのは感心するよ」


 で、と葛城は晴香の顔の横に手を付くと殊更楽しげに口の端を上げる。


「名前」

「え」

「俺の名前。呼んでみろ。そしたら俺も少しは手加減してやる」


 名前。そう、先輩の名前――


 晴香の視線が彷徨う。それを目にして葛城の眉が大きく跳ねた。


「……まさか覚えて」

「いやいやいやいやそんなまさか覚えてないとかではないですよ! まかり間違ってもそんなことないですから!!」

「じゃあ言ってみろ」


 当然の流れに晴香はうう、と低く呻く。覚えていない、と言う事は当然ありえない。二年も世話になった先輩の名前を知らずにいる方が無理だろう。


「かつらぎ先輩」

「日吉ぃ」


 あ、ダメなやつ、と晴香はひぇ、と身を竦めた。勿論これで通じるだなんて甘い考えは抱いていなかったけれども、それにしたって葛城の反応が思っていたより激しかった。まだいける、程度で済むと考えていたというのに。

 ええいここは度胸を見せる時、と晴香は腹を括る。何故に名前を呼ぶだけでこんなにも覚悟を決めないとならないのか、その辺りは考えないようにした。名前を呼ぶのが恥ずかしいから、なんてその理由が恥ずかしすぎる。

 よし、と深呼吸を一つ。そして晴香は名を呼んだ。


「――かつらぎちかひろ」


 場が凍る。見下ろしてくる葛城の目付きがかつてのブリザード時代と同じかそれ以上だ。


 いや分かる。先輩が要求している名前呼びってのがこうじゃないっていうのはとっても良く分かる分かってますー!


 そう主張ができたらどれだけ良かったか。これは死んだな、と晴香の意識は若干遠のいた。勿論恐怖で。このまま失神できたらいいなあ、などと甘い考えを抱くが当然できるはずもない。

 がっ、と今までで一番強い力で鼻を摘ままれた。


「いっ……!」


 痛い、と叫びかけるが口を塞がれる。これは本当にマズイのかと身を固くする晴香に構う事なく葛城は噛みついた。晴香の鼻に。


「っ、た、ああああああっ!?」


 痛みと羞恥と混乱とで叫びともつかない叫びが上がる。その狼狽えっぷりに溜飲が下がったのか、少しばかりブリザードを抑えた葛城が軽く鼻を鳴らす。


「……お前俺の名前勢いで覚えてんな?」


 さすが先輩理解が早い。しかし「はい」だなんて素直に頷ける程空気が和らいだわけでもないので、晴香は視線を反らし瞳を閉じた。恐ろしくて直視などできるものか。


「日吉ぃ……」


 マックスでヤバいやつ、と晴香は覚悟を決める。今日だけで何回覚悟を決めているのかも分からないけれども。そもそも成人した男女が夜中にベッドの上で以下省略、の状態で決める覚悟はあれどこういう覚悟ではないはずなのだが。


「先輩の名前、最初読めなくてですね……」


 気軽に訊こうにも相手は仕事以外の話で声をかけるなというオーラ全開。まあ別に名前を呼ぶ事もないからいいか、と早々に覚える事を諦めた。しかし仕事をしていれば名前を呼ぶ必要も出てくる。


「でもそう言う時ってほとんど社外の人が相手ですし、フルネームで呼ぶしでなんと言うか」


 あ、これ勢いで覚えた方が早いし楽だな、と思った時点ですでに勢いで覚えていた。


「社内だと先輩は先輩で通じるし」


 葛城以外の先輩は名字を付けてそれから「先輩」と呼べばそれで済む。そんな晴香の言い訳と呼ぶにもお粗末な話を聞いた葛城の口からは、ひたすら長い息が吐かれた。


「……まあいいか」

「え、いいんですか!?」


 その直後のまさかの返し。切り替えが早い。今の今までのやり取りはなんだったのか。え、先輩ため息は!? てか慣れろって人の耳にあんなエロボイス流し込んでそれ!? と葛城の変化に晴香は置いていかれる。


「別にどう呼ばれようと構わねえし」

「じゃあ今のはなんだったんですか!」


 羞恥がだんだんと怒りにすり替わる。語気が強くなる晴香に対し、葛城は何ら顔色を変える事なく話を続ける。


「名前で呼べってのは本気だ。俺が名前で呼びたいってのも。だから俺は呼ぶけどお前はまあ追々でいいぞ。その方が楽しみも増えるし」

「……楽しみ?」

「名前の呼び方一つでグダグダ言うような関係性じゃねえからなあ」


 若干遠い目をする葛城に、中条から聞いた話を思い出す。件の前任者がやたらと「名前で呼んでください」としつこかったとかなんとか。「呼び捨てなんてされたことない」「みんな名前で呼ぶから」「その方が親しみやすくて仲良くなれる」等、なんというか、である。

 初めて聞いた時は「学生かな?」とあまりにも素直に答えたために、中条がしばらく呼吸ができなくなるくらい笑い転げていた。そういえば中条との仲がグンと縮まったのはこれが切っ掛けだったかもしれない。

 いやそれはそれとして、と晴香は葛城の言葉に引っかかりを覚えた。楽しみ、とはなんぞや。


「先輩」

「どした」

「楽しみって……」


 なんですか、と問いかけて己の過ちを晴香は思い知る。葛城の顔がとてつもなく――楽しそう。

 あーこれ絶対遊ばれるヤツだ怒られる変わりにめっちゃからかわれる、と言う晴香の考えは見事に的中。


「エロいことしてんのに先輩って連呼されるの会社でヤッてるみたいだろ」


 いっそ爽やかさすら感じるような笑顔で放たれる言葉が酷さの極みで。


「さ……さ、最低!! 先輩が最低だーっっっ!」

「なんだよ? 会社でほんとに」

「先輩アウト! イケメンだからってなに言っても許されると思ったら大間違いだからなぁっ!」


 思わず口調も荒くなるがこれは致し方ない。葛城も当然気にするでもなく、晴香に向けて少しばかり真面目な顔をしてみせる。


「ばっかお前考えてもみろ」

「なにをですか!? わたしの先輩がとんだエロ先輩だったってことですか!?」

「俺のエロいのなんて許容範囲もいいとこだぞ。むしろさっきからTシャツ一枚で下は全裸の女を前に手ぇ出してないのは絶賛されるヤツだ」

「剥いたの先輩だし泥酔した後輩を剥いてるっていう時点でスリーアウトですよ!」

「職場の先輩後輩でエロいことするっつったら一番多いの会社ネタだろ。お前の好きなAVの鉄板じゃねえか」

「え、暗がりのオフィスで繰り広げられる淫靡な残業――先輩これじゃ手当はつきません、的な」

「っ……そう、そんなヤツ」


 一旦は吹き出すのを耐えた葛城であるが、それでも堪えきるのは無理だったようで口元を隠して俯いた。片手で支えている腕が震えているのは体重を支えきれないからではない、のは分かりきった事だ。

 それに対して晴香はまたしても両手で顔を覆っている。こちらは勿論完全なる自己嫌悪から。これはひどい。本当にひどい。こんな状況であんなネタを振ってくる葛城もひどいが、それに即座に答えてしまう自分が何よりも酷い、と今度こそ晴香は失神しないものかと切実に祈った。


「……先輩」

「ん?」

「……わたしの名誉のためにひとつだけいいですか」

「なんだ?」

「……わたし別にAV好きなわけじゃないですから……」


 ブハ、と今度こそ盛大に葛城は吹き出す。これも間違いなく「そこじゃない」案件だと晴香としても分かってはいるが、それでも訂正せずにはいられない。乙女心と言うやつだ。


「……分かってる、悪かったよからかいすぎた」


 葛城の手が晴香の頭を優しく撫でる、が、それでもまだ肩が震えているのが腹立たしい。怒りのままに晴香は葛城の腹筋目掛けて拳を繰り出す。本気の力でないとはいえ、腹筋に直撃すればそれなりにダメージはあるはずだが、葛城には大した事ではないらしく平然としている。確かに硬かった。イケメンは体もイケメンなのかとよく分からない思考に陥りながら、悔しいのでもう一発と繰り出せばその手を葛城に取られた。そのまま口元に持って行かれ、握りしめた指を器用に解されるとその指先に軽く口付けられる。


 待って、と晴香は残されたもう片方の手で目元を隠す。AVだなんだとこれは酷いネタ振りをしたかと思えば、即座にこの甘ったるい空気を作り出す。先輩の落差が! 落差がぁっ!! と無言で悶え震える晴香の指に口付けたまま、葛城の口が弧を描く。


「お前ほんとにこういうのに慣れてねえのな」


 指先、手の甲、掌、と掴んだままの晴香の手を好きにしている葛城は楽しそうだ。からかって悪かった、の謝罪はなんだったのか。今だって充分からかって遊んでいるではないか。晴香の心臓はもうずっと前から限界まで鼓動が速いというのに。うう、と涙目になりつつ、それでも晴香は一言言い返さなければ気が済まない。


「こ……こういうこと、す、る……先輩に、慣れてな、い、だけです……」


 晴香の手首に唇を寄せたまま葛城の動きが止まる。どうしたのだろうかと疑問に思った矢先、またしても鋭い痛みが走った。


「先輩!」

「お前腕時計してたっけ?」


 腕時計でギリギリ隠れるかどうか、という絶妙な位置に新たに赤い印が浮かぶ。


「でもこれくらいなら月曜には消えるかもな」


 そしたらまた付けるか、という不穏な言葉に慌てて晴香は手を引いた。こんな印を刻まれた事などこれまで一度も無いので、どれくらいで消えるのか晴香には分からない。恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。これではまるで


「せ……先輩の、みたい、な」

「俺のだろ」


 割と乙女心全開と言うか口にするのも恥ずかしすぎる台詞がそれでもポロリと漏れれば、それを上回る威力で打ち返された。

 人ってこんなに何度も死ねるんだなあ、と晴香は印のある手首を押さえたままプルプルと震える。


「……先輩こういうのめっちゃ淡泊だと思ってました」


 キスマーク、なんて付けるタイプではないと勝手に思い込んでいたらばまさかの。ところが意外な事に同意が返る。本人から。


「な、俺も自分がこんなことするタイプだと思ってなかったわ」

「それはつまり……?」

「俺が独占欲向けるのお前が初めてってこと」

「あああああああああ」


 何故に迂闊にもこうも毎回尋ねてしまうのか。そしてこの人なんでこんなにも恥ずかしい事を平気で言い放つのか。晴香はベッドの上を転がり回る。気持ちの上で。下半身は葛城に抑え込まれているので、実際は上半身だけがジタバタと動くだけだ。


 ギシ、とベッドが軋む。


 暴れる晴香の体をやんわりと、しかし身動きが取れない程度には抑えて葛城が体を近付けてくる。これはいよいよもって本当に年貢の納め時、といい加減最後の覚悟をとなるが突如浮かんだ考えに晴香はどうしても口を閉じる事ができなかった。

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