6
ドクターが言った通り、病棟というのは本当にヒバリの家からすぐのところにあった。
「ここが病棟、ですか」
ドーム型の、他の住居と比べて少しばかり大きな建物。電気もまだ通っているらしく、ドアに近づけば自動で開く。そんなドアのすぐ傍にはサイネージがあって、そこには『第三精神科病棟』という文字が浮かんでいた。
パウラと共に建物の中に入る。
入ってまず初めに感じたのは、懐かしいという奇妙な感傷にも似たものだった。
真っ白な天井。
真っ白な床。
何列かになって並ぶ薄く赤みがかったソファ。
茶色いカウンターの受付。
ああ、確かに昔、まだ肉体の体を持っていた時は何か体に不調があればこういう場所へ行っていた。病院へ行った記憶が鮮明に残っている訳じゃあないけれど、それでも不思議と、かつて僕はこういう場所へ通っていた時期があったのだと分かる。そして、それがこの奇妙な感傷の正体だろう。
「私、ここ苦手かもしれない」
「苦手、ですか?」
パウラはどこか遠くを見るような目をしている。
「うん。なんだろう、良く分からないけど、あまり長く居たくないって思う」
「それは」
パウラのその感情は、何だか彼女にとってはとても重要なものであるような気がした。
今の僕と同じように、パウラが失った記憶の面影のようなものが彼女にそんな感情を抱かせているのではないのだろうか。
「無理はしなくても良いですよ。ヒバリの家に戻りますか?」
「ううん。大丈夫」
パウラは頭を横に振る。そして、彼女は「その代わり」と言って僕を抱き上げるのだった。
ちょうどその時、「ヒバリの定期検診が終わるまでその辺のソファに腰かけて待ってなさい」というドクターの声が少し奥の方から聞こえてきて、パウラは一度僕のことを見下ろした後、僕を抱いたままドクターの言う通りソファに座った。
「これまで色々な場所を訪れて来たけど、こんな場所は初めてだね」
パウラは僕を見つめてそう言う。
「怖いですか?」
「ううん、私、楽しみなの。ネウロと一緒に色々な場所を巡って、嬉しいこと、悲しいこと、色々なことがあった。でも、私はそれ全部まとめて楽しいんだ」
初めての街。初めての景色。新しい出会い。新しい出来事。時には誰かの思いと届け、時には誰かの願いを叶え、時には誰かの最期を見届けた。これまでいくつかの街や都市をパウラと一緒に巡って来て、そういう色々なものをパウラと一緒に目にしてきた。
ふとパウラは「ネウロは楽しい?」と僕に尋ねる。「僕は、」と少し言葉に詰まってから、「僕も楽しいですよ」と彼女に答えた。
本心から、僕はそう思う。
僕の日々は、表面上パウラと出会う前の時と何も変わってなどいない。役割を果たすためにNIを求めて星中を巡っているだけ。ただそこに、パウラという子と記憶集約所という目的地が加わっただけ。でも、僕はかつての僕とは違う何かを持ってパウラと日々を過ごすことが出来ているような気がしていた。
「そっか、ネウロも私と一緒でよかった。私、大切なことを忘れちゃって、それを取り戻したいって思っているのは今も変わらない。でもね、もしも記憶を取り戻せたとして、その後はどうなるんだろうって、最近考えるんだ」
記憶集約所に辿り着き、もしもパウラの記憶を取り戻せた後の事。
「そう、ですか」
僕も、そのことを時折考えてしまう。たとえば彼女が笑っている時だとか、穏やかに眠っている時に、果たしてこの日々はいつまで続くのだろうかと、そんなことを思ってしまう。
でも、僕と君とでは何もかもが違う。だから、僕等はずっと一緒には居られない。僕には僕の居場所があり、君には君の居場所があるはずで、記憶集約所へ辿り着き、君の記憶を取り戻したのなら、僕等はそれぞれの日常へと還るべきだ。
「今の私はね、たとえ記憶をすべて取り戻せたとして、大切なものを取り戻せたとして、それでもこうやってネウロと一緒に色々な人たちと出会って、その人達の記憶を送り届けてあげたいって、そう思うの」
パウラは「ずっとこのままでもいいかなって、ちょっと思っちゃう」と呟き、僕のことを少し強く抱きしめる。
僕は、パウラのその言葉に返すべき言葉を見失う。
胸中のずっと深くから藻掻く様に空気を吐き出すようだった。まるでもう一人の僕が返すべき言葉を僕の耳元で伝えてくるようだけれど、それはどうしたって僕のところには届かない。
僕は何一つとして君に伝えることも出来ず、鉄の手を君の手に重ねることが精一杯であった。
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